第二十三節*砂漠の国への出発
お城の洗濯方法が変わった。
王様が新しい職人を召し抱えたらしい。
その新入りは、科学技術を扱うヒト族という噂だ。
カールがドゥンケルタールで正式に働き始めてから数ヶ月。一国の主であるヴフトに腕を見込まれ、攫われてから色々なことがあった。他国の、しかも魔法が使えない獲物種族を、魔物の国に置くべきか否か。城で働かせて良いものかどうか。ドゥンケルタールの重鎮たちは王の思いつきによって大層、頭を悩ませた。
それがやっと落ち着いた矢先、今度はカールの従兄、勇者テオドールがやって来て、彼を連れ戻してしまった。予想だにしなかった帰郷にカールの心は揺れた。家族や恋人との再会を喜ぶ一方で、職人として魔国で働きたいという思いが強く残っていた。
そして彼はその悩みを同じ職人である父に打ち明け、今度は自らの足で、ドゥンケルタールの地を選んだのだった。
『洗濯屋と魔王様』 第三章
常闇の森にある渓谷の国は、その大半が地下にある。カールが働くボーデンヴォール城も当然、地中にあった。何となく昼と夜とで明るさが変わる照明を頼りに、十二個の数字が振られた時計を使って生活している。今が昼間の二時なのか、夜中の二時なのか、それを判断するのは周りの雰囲気や自分で感じる眠気だった。
特別洗濯長として魔国に迎えられた彼の仕事は、王や重鎮たちの洗濯物を取り扱うことである。専用の仕事部屋には同じ担当の仲間たちがいて、洗濯の都合を話し合いながら当番を決めた。予定は七日で一周し、うち三日は自由にして良い。当番の日は始業を知らせる鐘が鳴ると、まずは洗濯物を集めに城内を回った。
最初の頃、カールは廊下で会う人々との挨拶に大分ギクシャクしていた。それに遠慮気味なのはカールだけでなく、魔物たちも同じであった。どうやら彼らの殆どは渓谷育ちで、本物のヒト族が初めてだったらしい。慣れるまではお互いにそわそわしながらすれ違い、どきどきしながら言葉を交わしていた。
また城には一見ヒト族と見分けがつかない魔物もいるのに、なぜか皆、一目でカールが例の洗濯係だと気が付いた。これを親友のギードに話したところ、生きている魔物は必ず微量の魔力を放出し、それが体表を覆っていると言うことが分かった。彼らはこの幽かな気配を感じ取り、相手を識別しているのだ。だから魔力が全くないと言うことは、獲物種族かただの動植物、或いは死体というこになる。彼らにとっては外見よりも、体にまとう魔力量の方が重要だったのだ。
それからテディーに紹介してもらったり、食堂で相席になったりしながら、カールは徐々に周囲へ溶け込んでいった。魔物たちも彼を見る回数が増え、その人柄を知ると、気さくに声を掛けてくるようになった。
同じ城で働く仲間として魔力の有無以外に大きな違いは無い。そういう認識がゆっくりと広まっていった。
彼らがカールを受け入れてくれた一方で、カールも彼らを知る努力をした。ドゥンケルタールには様々な種族の魔物が暮らしていて、城内で出会う人々を分類するだけでも両手では足りない。しかし王国では一括りに【魔物】と呼んでいたため、カールには見た目以外のことが何も分からなかった。それで空き時間を見つけては種族などを教えてもらい、少しずつ覚えていったのだ。
まず毎日手伝いをしてくれるテディーたちは、リヴドールと言う種族。見た目は違うが、執事のフリーレンや裁縫師長のドロシーも同じ。ヌイグルミ種、球体種、原型種という細かな分類があるらしい。洗濯仲間のギードはマウンラットと言う小柄な種族で、平たい尻尾を持っている。ネズミ系の魔物で、近縁種には巨体なチグイレ族、怒ると毛が逆立つワイルドラット族、俊敏なシャドーマウス族がいる。この他にもトリやネコ、魚貝、昆虫などの特徴を持つ魔物、また動物とは異なる特徴を持った魔物など、細かく数え出すとかなりの数に分かれていた。
カールはこういった魔物に関する話を聞くのが楽しかった。
「シェル族って意外と少ないんだね。うちに多いから、全体でも多いと思ってた」
「ああ、この国にはそんなにいないぜ。シェル族は水辺が好きだし、水も淡水より海水の方が好きだって聞くし、ドゥンケルタールにはあんまりいねぇな」
「ふうん。なるほど」
「でもオイラのようなネズミ系は、こういう半地下が過ごしやすいんだよ。チグイレの奴らはでっかいから地上でも平気だけど、オイラみたいに小っこい種族は隠れるところがないと、熊とか狼とかの禽獣が恐くってさ……」
「それは確かに! 俺の故郷でも、熊とか猪とかの恐い話、よく聞いたなあ」
この日の昼食もカールはギードの隣に座っていた。
ギードの話を聞きながら、魔物でも熊や猪は恐いのかと親近感が湧いてくる。魔法は便利だが決して万能でないということは、魔国に来てからひしひしと感じていた。だからやはり、危険な猛獣たちは魔物も忌避する存在らしい。それにギードの種族は本人が言うとおりとても小柄である。ヒト族の三分の二程度しかない身長では、尚更恐ろしく思えるだろう。
カールは友人の話に相槌を打ちながら、根菜と鶏肉のシチューを頬張った。汁を吸い亜麻色に透き通った大根や、ぷりっとした鶏肉を囓ると中からじゅわりと旨味が染みだす。丸いパンを千切ってスープに浸すのも美味しい。今日のメイン料理の片方はこの具沢山のシチューで、もう一つは横でギードが食べているサメの煮付けだ。そちらは切り身に付け合わせの野菜が乗っただけのシンプルな皿だが、甘塩っぱい香りと照りが何とも目を引く一品だった。
食事と会話を楽しみながら、カールはデザートに行き着いた。この小さな一皿も、昼の大事なメインに違いない。パティシエ長が監修するデザートは、いつも食事を美味しく締めくくってくれた。今日はバニラが仄かに香るプリンだ。
カールは早速そのなめらかな表面にぷつっ、とスプーンを差し込んだ。と、そのとき何かがぽふりと脚に触れる。食べる手を止め視線を下げると、そこには小さなテディーが立っていた。
「お食事中に失礼します」
「お昼休みが終わったら、ヴフト様の書斎へ行ってください」
「カールさんにお話があるそうです」
「俺に? 話?」
彼らは城の伝達を担う三人一組のテディーだった。ヴフトから依頼を受け、急ぎ内容を伝えに来たらしい。心当たりがないカールは首を傾げたが、係の子らは言伝を終えると一礼し、次の仕事へ行ってしまった。
カールは一先ずプリンを食べた。しかし甘い香りが鼻腔を突いても、特に思い当たる節は無い。カスタードの後にカラメルのほろ苦さがふわりと広がる。
隣から羨ましそうに腹を突かれたが、カールにとってヴフトの書斎はどちらかと言えばカラメルだった。
「何だろうなぁ……」
理由を探しながらもう一口プリンを食べても、卵の美味さしか見当たらなかった。
***
城の本館は五階建てで、四角い造りになっている。王の書斎は最上階にあり、書庫に隣接し日常的な執務を行っている部屋だ。普段は部屋の主であるヴフトと執事のフリーレンだけが在中し、必要に応じて丞相や八卿たちが訪れる。カールが烏天狗の巣から救出されたとき、魔法で転送された先もこの部屋だった。
あれ以来訪れていなかった五階へカールは緊張しながら上がり、書斎の扉を叩いた。少し間をおいて中からフリーレンの声がし、静かにドアが開けられる。彼と会うのも例の帰宅騒動後、初めてかもしれない。
書斎は入って右手の方に大きな鏡や書棚。左手にヴフトの執務机と姿があった。洗濯物は毎日預かっているが、本人と顔を合わせるのはやはり久しぶりである。用事があってもテディーを挟んで遣り取りをするので、直接会う機会がなかった。
カールは懐かしみを込め挨拶をしようとして、はたと考えた。以前は客と職人、という格好だったが今は雇い主とお抱え職人だ。友人のように話しかけるのは失礼だろう。しかしカールの頭には改まった言葉など微塵も浮かばず、迷った挙げ句、控えめに「こんにちは」と言うのが精一杯だった。
ヴフトはそんな彼を見て、食後の紅茶をソーサーに戻し立ち上がった。
「元気そうだな、こうして会うのは久しぶりか? 日々、質の良い仕事をしてくれていて感謝する。特にタオルや肌着など、素肌に触れる物の仕上がりは最高だ! 心地良い肌触りで大変満足している。一度仕事の様子を見に行こうとも思っているのだが、なかなか都合がつかなくてな。視察のときは是非、部屋にいてくれ」
温かい言葉とともにカールへ近づく。相変わらずの美しい褐色肌に翡翠の瞳が輝く。長い黒髪が艶やかに揺れ、柔和な表情は蕾が綻ぶようであった。
カールはかあっと胸が熱くなるのを感じた。初めて客に洗濯物を返したときの、湧き上がる感動を思い出した。そして目の前のヴフトは、心の底から自分の仕事を喜んでくれる、自分の技術を評価してくれる、そういう相手だと改めて思った。魔物しかいない異国の地でも働けると思ったのは、彼がいたからだ。この王様のところでなら、存分に腕を振るえると思ったのだ。長く顔を見ない日々で薄れていた種々の感覚が、ぶわりとカールの中に蘇った。
「ありがとうございますッ! ああ、いつも直接渡せないから心配だったんですけど、でも、そう言ってもらえて嬉しいです! ヴフトさんの持ち物はどれも仕立てが良くて洗っていて俺も楽しいんです。元が良いと仕上がりも映えると言うか…。それに今まではシミ抜きの依頼が多かったんですけど、ここだといろんな程度の汚れが洗えて本当に楽しくて! 洗う物もいろいろで!」
カールは嬉しさが突き抜けると、尻込みしたことも忘れてヴフトの手を取った。魔国に来てから洗った洗濯物が、楽しい思い出として脳裏に蘇る。まだ来てから数ヶ月しか経っていないが、王国では見れない、依頼されない物をたくさん洗った。
そのどれもが貴重な経験で、カールはあっと言う間に洗濯の世界へ没頭してしまった。
そんな彼の様子を見てヴフトは思わず笑う。
「ふふ、お前は相変わらずだな。とにかく、不自由がないようで良かった。今日呼んだのは、五日後に出発するサハラウ国訪問にお前を連れて行こうと思ってのことだ。初の国外になるから事前連絡と準備を兼ねて」
「えっ? 国外? 俺が、ドゥンケルタールを出るってことですか?」
喜びで舞い上がっていたカールは思いもよらぬ話を聞いて目を丸くした。
彼は魔国で働いていると言っても、まだ城下にすら出たことがない。管理の目が行き届く城内しか自由に歩けていないのだ。その上ここでは皆事情を知っているから平気だったが、余所の国ではそうもいかないだろう。
興味を引かれる一方で、カールは素直に不安の色も見せた。
それを察してフリーレンが口を挟む。
「陛下、やはり他の者をお連れした方が良いのでは?」
「……言いたい事は分かる。だが七日間の滞在で洗濯係は必須だ。それに以前サハラウを訪れたとき、係の者がこちらで洗うよりも仕上がりが劣ると謝ってきた。此奴なら何か分かるかもしれないだろう?」
「しかし…」
一国の主が直接ヒト族を連れてきても、すんなりと雇用には結びつかなかった。
そもそも魔物と獲物は和解できていない間柄である。ヴフトの並々ならぬ美の追究によってカールは召し抱えられたが、ヒトが魔王に仕えるなど前代未聞であった。魔国で生活するようになって魔物や魔法を見慣れてきたとは言え、カールが獲物であることに変わりはない。余所の魔国へ連れて行っても大丈夫だと言う保証はどこにもなかった。
けれどもヴフトの言い分を聞いたカールの胸は、また熱をぶり返していた。
「ヴフトさん! あの、つまり、それは、俺がヴフトさんのお出かけについて行って、出先でも洗濯をする、と言うことですか?」
初めて言われた言葉をカールはたどたどしく確認した。
今まで店にいて客から依頼を受けることはあっても、店の外まで一緒に来て欲しいと言われたことはない。雇い主に付き添い場所を選ばず仕事が出来るなんて、職人として栄誉を感じずにはいられなかった。
ヴフトがその端正な顔立ちで頷くと、カールの喜びは簡単に振り切れた。
「あの、俺、……ついて行きますッ!」
彼はそう言う男だった。
***
サハラウ国、と言うのは岩と砂で覆われた砂漠の国だ。雨量が少なく日差しは強い。森も草原もない大地、と聞いてカールは全く想像がつかなかった。彼にとっての大地とは、いつも緑豊かなものだったからである。サハラウには優蠍族というサソリの特徴を持つ魔物が多く暮らしていると言う。国の中心には大きな湖があり、そこから一筋の川が海まで続いている。その水を使ってナツメヤシやオリーブなどが栽培され、輸出もされていた。また香油作りが盛んな国でもあり、街全体が華やかな香りに包まれている。
ドゥンケルタールとは長く貿易をしている友好国の一つだ。
今回、ヴフトはそのサハラウ国王の誕生祭に招かれたのであった。
ヴフトに呼び出されてから五日後の夜、カールは前庭に向かっていた。とうに夕食は終え、いつもならベッドの中である。しかしサハラウへはこの夜中に出発するらしく、カールは不思議に思いつつも言われた通りに部屋を出た。眠気はあるが、岩と砂で覆われた異国の地は既に彼の心を掴んでいる。どんな街なのか、どんな物があるのかと思いを巡らせると、カールの足取りは軽やかだった。
前庭は渓谷の壁に面して作られた四角い庭である。区画を縁取るように低木が立ち並び、普段はがらんとした空き地になっている。ときどき兵士たちが訓練場として使っているようで、廊下を歩いていると声が聞こえてくることがあった。その大広場へ今夜は巨大な木の扉が設置され、出発を待つ大勢の従者たちが集まっていた。
「わあっ……!」
白い服で埋め尽くされる庭を見たカールは思わず声を漏らした。国として訪問するので、従者は皆揃いの衣服を身につけている。それは当然カールも同じで、白くて短めのジャケットとズボン。ぴたりとした灰色のインナーに、首側に日除けが付いた帽子と平たい靴を履いていた。行き先のサハラウは夜がぐっと冷えるのでコートも持って行く。
服も荷物を入れる鞄も、寝間着以外はすべて支給された物である。カールは胸に付いた国章バッジを見て、自分もこの中に入れたのだと実感した。
集められた係はどこも最低二人一組で、既にほとんどが揃っていた。見知った顔があれば、初めて見る顔もある。まだ号令が掛かる前なので列はなく、皆雑談をしながら思い思いに固まっているようだった。カールはその中に入り込みデイジーを探した。
今回随行する洗濯係は彼女とカールの二人だった。
いつもなら橙色のドレスが目印になるが、今は皆揃いの服を着ている。挨拶がてらに歩き回ってみたものの、なかなか彼女を見つけられなかった。
「うーん…、まだ来てないのかなあ」
係内で喋っている人たちを見て何となく心細さを覚える。
そんなとき、彼女のものではないが聞き覚えのある声が耳に飛び込み、カールは足を止めた。辺りを見回すと兵士の後ろ姿が目に入った。
「お前らビシッとせぇや! どんだけ暑ぅても式典の最中は直立不動やからな!」
「はいっ!」
「体調も、気候に合わせてしっかり管理するんやで!」
「はいっ!」
上向きに立った耳に、針のような長い髪。愛嬌のある訛りが厳しくも親身な心遣いを思わせる。カールはその口調にピンときて正面に回った。
そして予想が確信に変わり、カールの顔がぱっと明るくなる。
「ああ、やっぱりシュピッツさんだ! シュピッツさんも行くんですね!」
「え? カ、カールさんっ? あんさん何でこないなとこにっ…」
喜ぶカールとは反対に、シュピッツは目を丸くして驚いた。彼が洗濯係になっていることは知っていたが、まさか出国の列で会うとは思っていなかったのだ。
きりりとした上官の顔を捨て、シュピッツは慌ててカールを庭の隅へ寄せた。
「な、な、何でここにおんねん! あかんって! 今からわいら表行くんや。国外や!」
「知ってます! サハラウ国でしょう? 俺も行くんです」
「は? 行く? カールさんが? 迷子やのうて?」
「違いますよ! ほら、俺も訪問着でしょ。バッジもつけてますよ」
「…ほんまや……」
怪訝な顔をされたカールは胸に輝く国章を指さし、自分も一員であることを示した。
それを見たシュピッツはぽかんと口を開け、しばらく言葉が出なかった。国章を指されても俄には信じられず、目の前の相手を上から下まで何度も見返す。そして前後から見ても左右から見ても確かに訪問団の一員であることが分かると、やっと納得した。
「なんや、迷うて紛れ込んどったんちゃうんか。はあ、それなら良かった。良かった。良……お? いや、いやいや、良かないやろッ?」
「あいたッ!」
ズビシ、と鋭い手刀がカールの額を控え目に直撃する。分かってもらえたと思っていたカールは不意の一撃を食らい、涙目になってその場にしゃがみ込んだ。
頭上からは大きなため息が聞こえ、眉間に皺を寄せたシュピッツの顔が下りてくる。
「あのな、カールさん。あんさんヒト族やで? 言い方が悪ぅてすまんが獲物なんよ?ここで働くにもえらい難儀やったやろ? それを余所の魔国に行くなんて何を考えとるんや? 陛下か? 陛下なんか? こんな無茶言いはったんは。そやかてあかんよ。ホイホイ魔物についてったらあかんて、前にも言うたやろ?」
相手を諭すように語りかけるシュピッツの表情は優しい。
それでもカールは額をさすりながら立ち上がり、彼に言い返した。
「…分かっています。俺も初めは無茶だって思いましたけど、でもちゃんとヴフトさんが準備してくれたんです。……今の俺、獲物に見えますか?」
「準備? 宿泊の道具一式は全員に支給される物やで? いったい何を準備したって……いや、待て。待てや。どういうこっちゃ?」
大人しく引き下がらないカールに対し、シュピッツはやや険しい顔をした。カールは確かに訪問着を身にまとい、胸に国章もつけている。だが着る物や持つ物が変わっても、決定的な種族の違いはどうにもならない。準備をしたところでどうと言うのだ、と思いながらシュピッツは改めてカールを見やった。
魔力で相手を識別する魔物にとって、見た目の統一性などあまり関係がない。揃いの服を着ていても魔力を感じられなければ直ぐにバレる。だからカールは余所の魔国になど絶対に行けない、そう思っていた。
だが。
「なんや? どういうこっちゃ? 何でカールさんから魔力を感じるんや?」
「ああ、良かった! シュピッツさんから見ても大丈夫なんですね。実はこれ、ヴフトさんが俺にくれたんです」
「ペンダント? ……何や? 魔道具か? これ」
魔力など無いはずのカールの体表から、シュピッツは確かにそれを感知した。まるで生まれながら魔物だったかのような自然さで、知らなければヒト族だとは見破れない。どういう絡繰りなのか全く分からずに首を傾げていると、カールが胸元から首飾りを取り出して見せた。
七色の平紐に通っていたのはシンプルなペンダントトップだった。きれいな石が一粒、真鍮の台に乗っている。石には何か文字が刻まれていたが、上から釉薬が掛けられ読み取れないようになっていた。
「……何や分からんけど、これで魔物っぽく見せてるんか。無茶しよるわ」
「う、そんな怖い顔しないでくださいよ…。これがあれば少しの滞在ぐらい平気だって、ヴフトさんが用意してくれたんですから」
「ははあ、陛下の新作魔法かいな。魔道具なのに、動力になる魔力なしで効果が出る?なんやそれ。出すっちゅうか、少しずつ漏れとる感じなんかな…。それがカールさんの体を覆って、魔物に見せかけとる………」
魔法の基礎知識があるシュピッツは、カールがただ嬉しそうに身につけているペンダントを見て表情を引きつらせた。この手のひらにすっぽりと収まる小さな道具に、どれ程の技術が詰まっているのか、きっと持ち主は分かっていないだろう。
ヴフトは歴代魔王の中でも屈指の魔法の使い手である。日常の範疇を超え、学問としての知識がか(・)な(・)り(・)ある。彼は政務の傍らに古い魔法や別地域の魔法を研究し、ときには新しい魔法を作ることもあった。魔法を作るとは、つまり新しい呪文を考案するということである。それは既存のものでさえ魔道具で省略し、呪文を覚えないまま使っている世間一般からすると、熱が出そうなほど難解な作業であった。
しかしこの物好きな魔王は、気に入ったいち係のために新しい呪文を作ったのだ。それにその魔道具は装飾品としても美しい物であった。楕円の石は晴れやかな空色で、釉薬のツヤが光を反射する。その石が乗る台座は、質素な形でありながらも真鍮製だ。このペンダントを見るだけで、彼への熱の入れ様がありありと伝わってきた。
それをどの程度理解しているのか、目の前の洗濯係は異国の地で仕事が出来ることをただ喜んでいる。
「魔力を一定量放出し続けるやなんて……。一体どないな呪文や…」
シュピッツはため息をつきながら解読を諦めてカールに石を返した。
彼も多少魔法の知識があるので、呪文さえ読めれば大体の構造を把握できる。しかしそれを拒否するように、石は光を反射して文字を隠していた。
「それなあ、私も呪文は見せてもろうてないけど、どうやら蓄積した魔力をカラになるまで出し続ける、っていう仕組みらしいで。せやから途中で注ぎ足したり、もしカラになってもまた魔力を込めれば再利用出来るんやと」
「はっ? じゃあ事情知っとるもんが近くにいれば、長期間でも使えるんかいな! 何やそれ。絶対、遠くも連れて行く気やろ陛下……って、ん?」
ヴフトのやたらとある行動力にシュピッツが呆れていると、頭上がら声が降ってきた。その気さくな雰囲気につられて軽く返事を返し、途中でおやっと我に返る。シュピッツが急いで振り向けば、そこには大柄な男がにこやかに立っていた。
「あっ! 産業の卿!」
「やあ、護衛隊長殿」
上から答を出したのは、大きなネズミ系の魔物パコ・アドモだった。彼は今回、ヴフトとともにサハラウ国を訪れることになっている産業の卿である。
慌てて姿勢を正そうとするシュピッツに、パコは手を振って止めさせた。彼はカールよりも頭一つ分背が高く、山のようにがっしりとした図体に、シュピッツと似た上向きの耳がピンッと伸びている。全体的に柔和な空気があるせいか威圧感はない。大きめの目鼻に愛嬌さえ窺え、声色も優しかった。
シュピッツはおよそを察した表情で、やや批判気味に尋ねた。
「産業の卿…、特別洗濯長の件、知っとったんですか」
「ま、一応ね」
そのとげとげしい視線にパコは困り顔で笑う。
卿とは魔王、丞相に次ぐ高位である。なのでヴフトがカールを連れて行くことも、そのために魔道具を与えたことも、事前に知っていたのだろう。どこか途中で諫める声もあったかもしれないが、結局カールはペンダントを首から提げている。誰も止めるには至らなかったのだ。
連れて行きたいと言い張る王と、行ってみたいと主張する本人を相手にすれば、当然の結果ではあった。
パコは痛々しい視線から目を逸らし、隣にいたカールへ声をかけた。以前はよく議題に上っていた張本人であるが、直に会うのは初めてだった。
「どうも、初めまして。産業の卿パコ・アドモや。今回は産業省の奴らも大勢行くから、宜しゅうな。いつも気持ちええ洗濯をありがとう」
「洗濯係のカール・ベーアです! ありがとうございますっ!」
差し出された大きな手をカールは両手で厚く握り返した。
彼の係では丞相や卿たちの洗濯物も引き受けている。しかし当然ながら、直接本人と受け渡しをする訳ではない。身の回りの世話は下っ端の仕事だった。だから普段は聞く機会のない感想を耳にし、カールは素直に喜んだ。
「今回は洗濯係のデイジーと、私の側近らが君の補助をする。分からんことがあったら何でも聞きや」
「はい! よろしくお願いしますっ」
パコの親切な様子にカールは厚く礼を言った。
ペンダントで魔物に見せかけることは出来ても、カールに魔力がない事実は変わりない。魔力がなければ、魔国の生活で度々出てくる魔道具が使えない。それを考慮して、ヴフトはカールの回りに常に事情を知っている者を置くよう手配していた。
「と、言う訳で。彼のことは私らに任せて。護衛隊長殿は自分の任務を宜しゅうな」
「はい…」
しかし王の周到さを目の当たりにしても、シュピッツの懸念は晴れなかった。
***
それから間もなくしてデイジーが合流し、カールはようやく落ち着いて列に並べた。後は出発の号令を待つだけだ。庭いっぱいに並んだ従者、転送用の巨大な扉。サハラウへ行く前から初めての事だらけで、カールはわくわくしていた。羽織っているコートの袖をぐっと掴み、じっと前を向く。すると庭の端から白い衣裳に身を包んだヴフトが現れ、出立の儀を宣言した。係がそれに従いサハラウ国訪問の趣旨を述べ、国王への進物を確認する。それが終わると今度は長距離転送に関する注意点、訪問先での留意点などが述べられ、いよいよ魔方陣の扉が開けられた。
隅々まで呪文と装飾が彫り込まれたそれは、ただそこにあるだけでも庭を美しく飾る額縁のようだった。両開きになった扉の外側に係が並び、魔法が発動される。枠の中にある景色がぐにゃりと歪むと、ずず、ず、と少しずつ靄が広がり先の見えない入り口が現れた。カールはこれが二歩も進めば向こう側へ到着する魔方陣だと知っていた。
「これより、サハラウ国国王の誕生祭へと出立する」
完成した魔方陣を前にヴフトが儀式の終わりを告げる。
いよいよ先頭が進み出し、順番に扉の向こうへと消えていった。
カールは自分の荷物をぎゅうっと抱えながら、未知への一歩を踏み出した。