午前五時の地下鉄
夜明け前の、まだほんやりと薄暗い午前五時前。
ひとりの男が地下鉄の階段を駆け下りてきた。紺色のスーツの上着はまくれ上がり、メガネはずれ、髪は乱れている。始発に乗り遅れまいと、急いで走ってきたのだ。
無事にホームまでたどり着くと、男は慌てたようにまわりを見渡しながら、
「ああ、どうやら間に合ったようだぞ」
と安堵のため息をついた。
男はつい最近、転勤でこの地方都市にやって来た商社勤めのサラリーマン。そつなく業務をこなし、上司にも適度にごまをすり、同僚ともそこそこ付き合ういたって普通の男である。
そこまで仕事熱心でも怠け者でもないのだが、転勤してから日が浅いこともあり、まだまだ仕事にも慣れていない。気が付くと納期の迫った仕事が山のように溜まってしまっていた。問い合わせの電話が鳴らない朝にでも仕事を片付けようと、始発を逃すわけにはいかなかったのだ。
ホームの人影はまばらで、わずか数人だけが同じように始発電車の到着を待っていた。地味なスーツ姿の初老の男、低いパンプスを履いた若いOL、くすくすと笑い合う恋人たち。
男は人目を気にして急に恥ずかしくなった。スーツを伸ばしてメガネを元の位置に戻し、髪を整える。そうしておとなしくホームの端の方で電車の到着を待つことにした。
到着するまでの間、くたくたになった新聞をカバンから引っ張り出して読むことにする。
しばらくして、不意にこんなアナウンスが流れてきた。
『急病人のお客様がいらっしゃったため、五分ほど遅れて到着致します』
事務的なアナウンスは始まりと同じように唐突に切れ、あとにはため息をつくホームの人々だけが残された。
「おいおい、始発から勘弁してくれよ」
男が苦々しくつぶやいた。
しかし、不満を言ったところでどうにかなるわけでもない。おとなしく待つ以外に何ができるでもないのだ。どこの誰だか知らないが、朝から甚だ迷惑な話ではあるのだが。
男はまた新聞の続きを読み始めた。
…株価はさらに上昇を続け、円安は進み続ける。連続殺人事件の犯人はいまだ捕まらず、不祥事続きのあの大臣がとうとう辞任とは。
主要な記事を読み終えたところで、またアナウンスが聞こえてきた。
『ご利用の皆様、さきほど、急病人の死亡が確認されましたので喜んでお知らせ致します』
なんだって?
死亡?
喜んで?
ずいぶんとおかしなアナウンスを流すものだ。男は思わず顔を上げてまわりを見回した。しかし、ホームの乗客の中には、男を除いて誰ひとりとして驚いている者はいない。さては、いまのアナウンスが聞こえていなかったのだろうか?
『女が前駅で自殺を図りました。飛び込みです。全身を強く打ち、間もなく死亡しました。
ざまあみろ』
相変わらず事務的な口調で告げたあと、また不意にアナウンスが途切れた。
一体なんなんだ。重大事故か何かでも起こって、駅員がパニックになってるのだろうか。いや、それにしてもやはりおかしい。あまりにも変だ。
男はホームに駅員の姿を探したものの、どこにも見当たらない。
仕方なく、一番近くにいたOL風の女に声をかけてみることにした。
女は、両手で髪の毛をいじりながら、つまらなさそうにガムを噛んでいた。
「ねえ、あなた。いまのアナウンスを聞きましたか? あれは一体どういう意味なのでしょう」
「え? 何ですって?」
女が言った。
相変わらず髪の毛をいじりながら、男の方を見ようともしない。上の空で答えているのは明らかだった。
「アナウンスですよ。女の人が前の駅で飛び込んだとか。そんなことをわざわざ言うなんて、おかしいでしょう?」
「まあ。そんなことを言っていたの? なんて恐ろしい」
「何か重大な事故が起きたのかもしれませんよ。かなり遅れるのであれば、さっさとタクシーでもつかまえないと。それで駅員に詳しいことを聞いてみたいのです」
「まあ」
と、女が繰り返した。
驚いてはいるものの、特に慌てた様子もなく、女は引き続き片方の手で髪の毛をいじっている。
男はだんだんと腹が立ってきた。最近の若い女は他人に何が起ころうがまったく関心がないのだ。自分の身なりのことばかり気にしている。
男は強い口調でこうたずねた。
「それで、駅員がどこにいるのかわかりますか?」
「さあ。私、わからないわ」
「とにかく探さないと。遅れるとなると困るのです」
「そうですわね。でも、ちょっと待ってらしてもいいんじゃないかしら」
「なぜです?」
「だってほら、そのアナウンスとやらがまた流れるかもしれませんわよ。駅員さんだって、そんな大変なことがあったあとではお忙しいんじゃないかしら」
確かにそれもそうかも知れない。探し回った挙句、またアナウンスが流れたり、始発が行ってしまったのではまったくの無駄足になるではないか。
女はもう興味をなくしたように、また両手で髪をいじっているし、初老のスーツの男は腕を組みながら目を閉じている。若い恋人たちは何をそんなに話すことがあるというのか、いまだにひそひそとささやきながら笑い合っていた。ホームには、終電間際に似たような、少し暗い感じのする気だるさが漂っているだけである。
まあいい。事故であろうがなかろうが、始発に乗ることさえできればそれでいいのだ。確かに悲惨な話ではあるが、おれには何の関係もない。いや、逆に迷惑極まりない話だ。なにもこんな朝早くを選ばなくてもいいものを。
あと少しで始発も動き出すだろう。先ほどのアナウンスによれば、いわゆる決着はついたようなのだし。
男は軽く鼻を鳴らしてまた新聞を広げ、今度は三面記事にとりかかることにした。ふと、明日の三面記事にこの出来事も載るかもしれないな、などと思いながら。
しばらくすると、
『一番線ホームに電車が参ります。白線の内側に下がってお待ちください』
と、またアナウンスが流れてきた。
今度は、いつもの録音された機械音声だ。男はいつも通りの無機質なアナウンスになんとなくほっとした。腕時計を見ると午前五時を少し過ぎている。
溜まった仕事を急いで片付けないといけないというのに、ずいぶんと遅くなってしまった。おまけにこのトラブル。こういうときに限って何かよくないことが起きるのはなぜなのだろう。実に腹立たしい。
男はぽっかりと空いたトンネルの暗闇をのぞきこみ、黄色のヘッドライトがふたつ、小さく、やがて大きくなって近付いてくるのを待った。
ほどなくして金属を削るようなやかましい音が聞こえてきた。
暗闇にぼんやりと車両が浮かび上がってきたところで、男は妙なことに気付いた。
電車の先頭に何かがくっついているのが見える。
あれは何だろうと男が目を凝らすと、やがてそれが、ワンピースを着た血まみれの女だとわかった。
血まみれの女が、電車の先頭に張り付いている。
手足はあちこちに折れ曲がり、首が直角に曲がったうつろな目の女だ。
当然死んでいるのだと思ったが、そうではなかった。血まみれの女は口をだらりと開け、金切り声を上げながら電車に運ばれていた。あのやかましい音は女の悲鳴だったのだ。
「ああなんてことだ」
男が恐怖にうめいた。
電車が目の前を通り過ぎるとき、女の目がぎょろりと動いて男を見た。生きているようにはとても見えない。
恐怖にこわばる男をよそに、電車はゆっくりとホームに停車した。
『一番線到着の電車は☓☓☓行きです。☓☓☓まで各駅に停まります』
録音されたアナウンスが淡々と電車の到着を告げる。
一体あれは何なんだ。
飛び込んだ女を片付けもしないで走ってきたということなのだろうか。しかも、死んだはずの女なのに、まるでまだ生きているようだった。アナウンスでも死んだと言っていたし、確かにもう生きてはいないような、ひどい有り様だったというのに。
やはり駅員に苦情を申し立てた方が、いや、もうタクシーを拾った方がいいのではないか。
男が慌てふためいて右往左往している間に、電車のドアが軽やかに開いた。例のOL風の女も、ホームの他の乗客たちと同じように、何を気にした様子もなくさっさと中に乗り込んでいく。
「あなた、お待ちなさい。こんな恐ろしい電車に乗るのはやめるんだ」
男は慌ててそう呼びかけた。
すると、OL風の女が驚いて声を上げる。
「あら、何をおっしゃるの。あなたも早く乗らないといけないわ」
「いやしかし、あなた見ていないのですか。あの恐ろしい女を」
「まあ。何かそんなものが見えまして?」
「ええ、見ましたとも。金切り声を上げる血まみれの女を…」
男はその姿を思い出して思わず身震いした。
「まあなんて恐ろしい。でも、よくあることですわ」
「え?」
「そうです、よくあるんです。だからって、気にし過ぎはよくありませんよ。だって、きりがありませんものね。
ほら、さああなたも」
女に手を引かれるまま、男はふらふらと車内に乗り込んでしまった。するとすぐにドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出す。
ああ、何だか嫌な感じがする。この電車がまさにあの女を跳ね飛ばし、無残にも轢き殺したのだ。
しかし、蛍光灯に照らされた明るい車内の一席に一旦腰を下ろしてみると、なるほど、不思議と気にならないような、そんな気もしてくる。
確かに、よくあることなのだ。
毎年、毎月、毎日。
世界中の、名前も知らないたくさんの人々がそうして自ら消えていく。
いちいち、気にしてなどいられない。始発に乗ってさっさと出勤し、仕事をしなければならないのだから。それに、今回はたまたま見えてしまっただけの話なのだろう。
そうはいうものの、電車のモーター音に混じって、あの女の金切り声はまだやんでいなかった。
血にまみれたあの女は、一体何をそんなに叫んでいるのだろう?
何やらもの悲しくも聞こえるが、言われた通り、男は二駅を過ぎたあたりで気にするのをやめてみた。すると確かに、金切り声が次第に小さくなっていき、やがては何も聞こえなくなったのだった。
男はほっとした。
遅れてはしまったが始発には乗れたのだし、あと一時間もしないうちに会社のデスクにまでたどり着けそうだ。そう思うと、すぐに気楽な心地になってきた。そうしてまた、新聞の続きを読み始めることにする。
今度は裏面の、一番お気に入りのテレビ欄から始めることにしよう、などと思いながら。