七不思議・陸 校庭の大合戦
次の七不思議ポイントに到着するまで、しばしの時間を要した。勉学ではなく軟派にいそしむ二宮金次郎から口付けを落とされた掌を、千鶴が時間を掛けて丹念に消毒していた為である。
一階のトイレで手洗いを済ませた千鶴は、まだ苦い感情を顔に貼り付けながらも校庭へと足を進めた。その背に少し距離を置くようにして、美香と雅子が続く。二人の行動動機は、この時は一致していた。
触らぬ神に祟りなし。
要するに、千鶴の怒りが収まるまでそっとしておこうという事である。
前を行く千鶴の背から発させる怒りのオーラに怯えながら小さくなって進んでいた二人は、ふと彼女が足を止めた事に顔を見合わせた。首を傾げ、千鶴と同じ光景を見ようと彼女の隣に並ぶ。
そして、女子高生三人は見た。
「……何、これ」
「……さぁ?」
しばらく呆然と校庭を眺めていた千鶴の呟きに、美香と雅子は揃って首を傾けるしか術がなかった。
「校庭の大合戦……って、こういう事をいうんじゃないでしょう」
よくある七不思議の一つだ。
落ち武者の亡霊。
校庭に、戦国時代の落ち武者の亡霊が現れる。彼等は時として、合戦を行うという。
戦国時代は騎馬戦が主だった。
某は、○○家の何とかである!と名乗りを上げてから斬りかかる。時代がもっと古いかもしれないが、日本史は得意ではないのでそこは深く突っ込まないでいただけると大変有難い。
「騎馬戦の意味が違うでしょう」
越後の龍と甲斐の虎と呼ばれた、共に戦国時代の名武士だった二人の合戦はあまりにも有名で、当然の事ながら、陳腐な一枚のプリントに印刷された、『校庭の大合戦』の文字から連想する騎馬戦とは、彼等のような合戦である。
そして当然ながら、それを期待して訪れているのだけれど。
「何で、運動会の騎馬戦なのよ」
小学校の運動会でよくやられるあれだ。
真夜中の校庭で、半袖短パンの体育着を着て、白と赤のハチマキを巻いた二つのチームが、相手のハチマキを取ろうと奮闘している。しかもその参加者が皆、髭を生やしたちょんまげ姿のおじ様方。中途半端に史実に忠実な、何かを確実に間違えている、目の前の催し物のこの滑稽さをどうしてくれよう。
笑うにはあまりにもシュールすぎていて、かといって真剣に突っ込みを入れるにはあまりにも馬鹿が過ぎている目の前の光景。
結果的に、三人はただ、校庭の入り口で佇んだまま夜の熱い騎馬戦を眺めているしかなかった。
頬を撫でていく風が、いつもよりも熱気を帯びているのは気のせいだろうか。砂塵を舞い上げるのは真夏特有の微風ではなく、広い校庭を勇ましい雄たけびを上げながら騎馬戦に熱中している漢達である。その気迫だけは戦国時代のそれを思わせるようなものであるが、如何せん、彼等が熱中しているのが運動会の種目となると滑稽さが伴うのは致し方ないことのように思える。
「あ……終わった」
大将のハチマキが取られた時点で終了という特殊のルールでもあるのか、一方が歓声を上げ、一方が落胆に肩を落とすという、二つのグループを分かつ境界線がはっきりと見えるような光景に、千鶴の感情の孕まない声が世界に落とされる。それが合図であったかのように、時間を止めていた三人もまた動き出した。
「……帰ろうか?」
視線を交わし合っただけで、三人は同じ結論に達する。
己の確認に無言で頷いた美香と雅子の意志を確認した千鶴は、勝利の歓喜と敗北の悲哀という二つの相反する感情がぶつかり合っている校庭に背を向けた。
その時だ。
『おう、そこのおなご等よ』
『何処へ行かれる。我等と共に勝利を祝う宴に参加するがよいぞ』
校庭で何かやらかしている熱い漢達に見付かった。
踵を返しかけていた美香と雅子は声を掛けてきた武士達とまともに目線が合ってしまい、無意識のうちに歩き出していた千鶴の背に視線を向けたのは完全なる回避行動だった。
立ち止まり、けれど振り返る気配を見せない千鶴の無言を通す背中が怖い。
『照れておるのか? 可愛いのぅ』
『初心なのですよ。そのようにからかっては失礼ではありませぬか』
『何、遠慮する事はない。全ては我等の満足じゃ』
いや、そういう問題じゃないんです。
勝利の喜びに酔いしれている方のグループから飛ぶ誘いに、そう返せたらどんなに幸せだっただろう。いや、それよりも、このまま黙って去ってしまいたい。
困惑顔で校庭と立ち止まっている背を交互に見遣る美香と雅子だけでなく、無言を貫き通し続ける千鶴もまた、心中は同じだろう。
この人達と関わりたくない。
全く知らない、赤の他人です、という顔をしていたい。
この時程、神様のイジワルを呪ったことはない。
「千鶴……」
注がれる何十対もの期待の眼差しにとうとう耐え切れなくなった美香の呼びかけに、千鶴が溜め息をついたのがわかった。ようやく振り返った彼女が浮かべていたのは、諦観だ。
軽く肩を竦めた千鶴に、美香と雅子もまた小さく吐息を洩らす。この七不思議ツアーに参加する前に教えられていた集合時間まではまだ時間がある。適当なところで切り上げて帰ろうと、交わす言葉はなくとも三人の間で自然と話が固まっていた。
「じゃあ、少しだけ」
振り返った千鶴は、傍から見たらそれはそれはとても晴れやかな微笑を浮かべていた。率先して、体操着姿の、顔はおじ様の集団へと入っていく。
その背のたくましさに、美香は口元を覆って顔を逸らし、雅子は腕の前で手を組んで感激していた。そんな二人も、勝利をもぎ取って機嫌の良い武者達に促されて輪の中へと無理矢理加えられる。
あれよあれよという間に、三人は輪の中心に座らされていた。陽気なおじ様方は各々杯を持ち、とても美味そうにそこに注がれた酒を飲み干している。夜の校庭で、どんちゃん騒ぎが始まった。
「未成年なので結構です」
酒を勧められた際の千鶴の一言だ。
陽気に騒ぐ宴会の中で、その一言では納得しない幽霊達を相手に法律用語を並べ立てて何故酒が飲めないかを懇々と諭し、先に匙を投げた武士達が話の途中で引き下がるという活劇も繰り広げられた事は余談だ。
「あの、さっきからずっと思っていた事があったんですけど」
勝利に酔いしれている彼等は非常にテンションが高い。それが理由になるのかどうかは怪しいところだが、すっかり体操着姿の武士集団の雰囲気に溶け込んだ美香が、不意に口を開いた。
『うむ。何であるかな?』
『申してみよ。我等で答えられるものならば喜んで答えよう』
気安く請け負ってくれた彼等に、美香は、じゃあ、と疑問をぶつけた。
「あの……なんで、体操着なんですか?」
ちょん髷に立派な髭。けれど着ている服は体操着。
その矛盾を敢えて問うた美香の勇気に、千鶴と雅子は拍手を送りたい気分だった。
うるさかった喧騒が、美香の問いに鳴りを潜める。互いに顔を見合わせる武士達に、やはり突っ込んではいけなかったかと問い主が後悔し始めた頃、ようやく一人が口を開いた。
『それは、お主。いめちぇんというものじゃよ』
「……は?」
千鶴、美香、雅子の声が綺麗にハモる。
自分の耳で聞いた単語を理解出来なくて、瞬きを繰り返す三人に、体操着姿の武士達は豪快に笑った。
『戦とは時代を読むものだ。それを怠れば負けは必須。その証拠に、見よ』
指差されたのでその先に三人は視線を遣った。青々とした葉を茂らせた桜の木の下に体育座りで哀愁に浸っていらっしゃる武士さん達の姿がある。
『夏だというのに未だ長袖を着ている奴等は今宵、我等に敗北を喫した』
『時代に合った成りをする事もまた、戦で勝つ大事な戦法なのじゃよ』
得意げに彼等は笑う。酒を飲み下すスピードは上がるばかりだ。
そんな彼等を、三人は胡乱気な目で見つめる。
時代に合った格好。確かにそうだろう。今時甲冑姿の人は仮装以外に見たことがない。騎馬戦で体操着というのも間違った選択肢ではない。
「……なんで、ちょんまげはそのままなの?」
突っ込まずにはいられなかった。思わずといった体の千鶴の呟きを、戦場の漢達は耳聡く捉える。
『それはな、千鶴姫。これは、我等の誇りだからよ』
今度は胸を張って誇らしげに答えてくれる武士達。
そんな彼等を、やはり三人は胡乱気な目で見ていた。それでも楽しい宴は続いていき、時間もまた過ぎていく。
当然のように集合時間もまた近付いてきていて、適当な所で千鶴を先頭に三人は宴会の輪から外れた。名残惜しそうにしながら見送ってくれた彼等を失礼にならない程度に軽くあしらい、三人は陽気と陰気とに綺麗に分けられた校庭を後にする。
「……よく、わかった」
校庭の喧騒が聞こえなくなった、正門へと続く道を歩きながら、ぽつりと千鶴が呟く。
「この学校の七不思議には、ろくな奴がいない」
俗に世間で囁かれている七不思議とはあまりにも掛け離れていた今回の体験に、美香と雅子の同意を籠めたその頷きは、経験した者だけが孕む重々しさがあった。
夜空に響く悲鳴は、終ぞなかった。