七不思議・伍 走る二宮金次郎
室内の見学場所は一通り回った三人は、今度は外に出てきた。次の目的地は、学校の正門だ。
「ま、これも定番っていえば定番だよね」
「うん。定番、だよね」
「今までのがあまりにも非常識だったから、なんだか逆に和むよねぇ」
例えば、歌とは何ぞやを懇々と語る石膏像だったり。
例えば、外見と口調がちぐはぐな肖像画だったり。
例えば、恋の為にひたすら走る人体模型だったり。
例えば、素顔は見せられないと家出する住人さんだったり。
何もかもが、自分達が今まで認識していた七不思議の域から逸脱したものだった。
そこにきて、この、中庭を行ったり来たりしている二宮金次郎の像は、この非常識だらけの世界では唯一常識に見えて、三人は何とも言えない安堵した気分に包まれていた。
「なんか、ほっとするよな」
「うん、これぞまさしく七不思議!、みたいな?」
「石像になってまで勉強するなんて、やっぱり、二宮金次郎さんって素晴らしい人だよね」
三者三様の感想が洩れる。その誰もが、何処か我が子を見守るような温かい眼差しを、本を読んだままうろうろと動き回っている二宮金次郎の石像に向けていた。
『……そこのお嬢さん方』
そんな三人の視線にとうとう耐え切れなくなったのか、立ち止まった彼、と表現していいのかどうか甚だ疑問であるが、そんな些細な疑心は今は月に向かって投げておく。その彼は、書物から上げた顔に、非の打ち所のない笑みを浮かべて見せた。
『よろしかったら、わたしとこれからお茶に行きませんか?』
鼓膜をくすぐる甘い声。
視界を埋める魅惑の笑み。
心を鷲摑みにする誘惑の言霊。
「…………」
が、哀しいかな。
そこに、生気と美貌が備わっていない。
『あぁ……こんな美しいお嬢さん達に出逢えた奇跡を、わたしはこの夜空に浮かぶ月の女神に感謝しよう。まさしく、これぞ運命』
一人優雅に愛を語る彼は、あろうことか、今まで熱心に読んでいたと思われる本を、放り投げた。それは、綺麗に放物線を描いて彼の背後に、ごとりと、本来の本の落下音とは思えぬ重音を伴って地との邂逅を果たす。
『満月の夜、女神と見紛う美しき姫君に出逢った。これを運命と呼ばずになんと呼ぶのであろうか。あぁ……麗しの君』
固まっている三人の前に跪いた彼は、真ん中に立っていた千鶴の手を取った。
『今宵こうして逢瀬を果たした証を、ここに』
斜め下からの流し目に、心を蕩けさせる甘美な微笑。極めつけの、掌への優しい接吻。
その立ち居振る舞いは、まるで中世の騎士のように麗しく、気品すら漂う。白馬すら似合う、完璧なる王子気質を持ち合わせた存在だ。
童話に出てくる美しき姫君は、白馬の王子のキスで永遠の眠りから目覚める。
『姫、どうか、このわたしと……ふごああ!?』
月光が降り注ぐ青白き世界に散っていた幻想的な光も、夜の帳に漂っていた神秘的な空気も、姫の目覚めによって一瞬にして破壊された。
無言のまま、口付けを落とされた手を握り締めることで作った拳で問答無用に彼をぶん殴った千鶴は、息を吐き出すと同時にゆっくりとその腕を下ろす。次いで緩慢な動作で持ち上げられた、口角に笑みを刻みながら一切笑っていない瞳が、誇張表現ではなく本気で吹っ飛んだ石像を捉えた。
『な……な……!?』
何が起こったのか理解出来ない様子の彼は、殴られた頬を押さえて仁王立ちする千鶴を見つめる。その目は若干涙目だ。
「あんたの、その、腐った根性……」
一言一句区切るように紡ぐ千鶴のその姿に、彼は何を見たのだろう。恐怖に竦んだその喉から引き攣ったような悲鳴が上がる。
「この、あたしが、叩き直してやる。覚悟しろ!」
握り締めた拳を掲げ、千鶴はじりじりと二宮金次郎に近付いていく。
そんな彼女から恐怖の鎖に四肢を絡め取られて逃げる事も叶わない彼は、最後の抵抗か、絶望の中で叫んだ。
『ひ……ひどい! 父上にも殴られたこと……うぎゃあ!』
せめて最後まで言わせてあげようよ。
見守っていた二人が、思わずそう心の中で突っ込んでしまった程度には、千鶴の怒りは激しいものだった。
この後、しばらく、ばき!だの、どご!だの、何か固いものを叩く音が美しい夜空へと響き、その合間に、悲痛な叫びが月の女神の許へと届けられたという。
この夜を堺にまことしやかに新たな七不思議が囁かれることになるとは、この時の三人はまだ、知らない。
鬼に金棒、天女に槍。麗しき姿の女性が、その美貌に誘われてやってきた男を、裁きの槍で貫くのだという。
世の男性人は、ご注意あれ。