七不思議・肆 トイレの花子さん
「あの人の恋、成就するといいね」
理科室のある特別棟から一般棟へと戻る道すがら、今はもう聞こえなくなった人体模型を応援する雅子の声が響く。
「あぁ、うん。そうだね」
心から彼の恋の成就を願う雅子とは対照的に、応える千鶴の声音は平淡でとても投げやりだ。しかし、そんな事は雅子はどうでもいいらしく、珍しく白色の頬に朱を差して一人エールを送り続けている。
「ちょっと、千鶴。あれ、どうにかならないの?」
「はあ? 無理だって、美香。ああなった雅子は誰にも止められないって、あんたもよくわかってんでしょ」
「う……まぁ、それは確かに」
「しばらく放っておこう。それが一番平和的解決方法」
「それ、無責任なんじゃ……」
「そうとも言う」
しれっと答えるのが千鶴の千鶴たる所以だろうか。
「ほら、次の七不思議に着いたよ」
三階の女子トイレの前で、足を止めた三人は自然と顔を見合わせる。先程まで自分の世界にいた雅子まで、閉ざされた扉の向こうにいる彼女を想像して些か青白い顔をしている。
ここまで、七不思議に定番な恐怖とは無縁の事態を経験してきたが、この先が同じであるとは限らない。何より、このトイレに住んでいるという彼女が一番その話の経緯が残酷なのだ。血塗れとかだったらいやだなぁ、とか。考える事は三人とも恐らく殆ど一緒だろう。
頷き合い、千鶴が代表してトイレのドアを開ける。キィ、という、昼間なら全く気にならない耳障りな音も、どうしてこういう時は不気味に聞こえるのか甚だ不思議だった。
真っ暗なトイレを、三人は極力息を押し殺しながら進んでいく。
まずは、用具入れの扉を通り過ぎる。
一つ目の扉。
二つ目の扉。
そして、あっという間に辿り着いてしまった、三つ目の扉。
「……って、これはどう反応すればいいのかな」
三つ目のトイレは存在しませんでした、などというオチでは、辛うじてない。確かに三人の目の前には、三つ目のトイレの個室がある。
問題なのは、その扉だった。
「……“捜さないでください”」
閉ざされた扉に貼られた紙に、流麗な字で書かれた一言。
捜さないでください。
日常においてもただ事ではないお願いであったが、こんな非日常の中においても、やはり、いや、それ以上に有り得ない事だった。
「トイレの花子さん、家出?」
三人は顔を見合わせた。誰もが困惑の表情を浮かべ、この後の行動を決めあぐねている。
扉を開けた瞬間、血塗れの姿で脅されるとか。
それこそトイレの中に引きずり込まれるとか。
懸念していた出来事が生じなかったのは、正直言って有難い。だが、こういうあまりにも突拍子のない事態に遭遇しても、やはり困るのだ。
「あれ? 千鶴、まだ何か書いてあるよ」
「え? 何処?」
「ほら、この下。あんまりにも小さかったから、最初は気付かなかったけど」
美香の指差す先を懐中電灯の光で照らせば、確かに。家出を仄めかす文章の下に、小さく、米粒大くらいの大きさで何か書かれていた。
「……あのさ、美香。あたし、目悪くなってないよね?」
「なってないと思うよ。ってか、この短時間で視力落ちないし」
「だよね……。じゃあ、これ……見間違いじゃないよね?」
「見間違いじゃない……と思う」
この中で一番目が悪いのは雅子だ。矯正視力で最後尾の席で何とか黒板に書かれた文字が見えるかどうかというところ。対する千鶴と美香は双方共に視力は正常値で、小さい文字でもこの二人が揃って読み間違うということはそうそうない。
再び顔を見合わせる三人。神妙な顔で誰からともなく頷いて、行動に出たのは美香だった。
無言で鞄の中を漁り、小さめのポーチを取り出した美香はその中からコンパクトを取り出した。新品ではないが、それ程使っていないと思われるそれを、そっと、家出中の旨を伝える紙が貼られたトイレの前に置く。
一連の儀式であるかのようにその行動を眺めていた千鶴達は、一仕事終えたとでも言いたげにトイレを後にする。
「でも、まさか、トイレの花子さんの家出が、ファンデーションがないっていう理由からだったなんて思わなかったなぁ」
「トイレの花子さんだって、女の子だったってことよ」
この中で一番女子高生らしい風体の美香の言葉には何故か説得力がある。
ファンデーションが切れました。
それは、トイレの花子さんからの切実な叫びだった。
「あたしの置いてきたから、これで次からはきっと綺麗な姿で人前に出てこれるよ」
満足そうな美香の声に、トイレの扉の開く音が重なった。