七不思議・参 理科室の動く人体模型
「も――千鶴。まだ笑ってるの?」
「ダ……ダメ……。はは…完全にツボにハマッ……はは」
三階から二階へと降りてきてもまだ笑い続けている千鶴に、顔を見合わせた美香と雅子は呆れたように肩を竦め合った。
笑いのツボに嵌まった千鶴は手に負えない。もうここは、本人が完全に笑いの溝から這い上がってくるのを待つしかない。
「えぇと……? 次は……理科室、ね」
笑い菌に感染したような様子の千鶴から奪い取った地図を同様の手段で手に入れた懐中電灯で照らした美香は、一つの教室の前で足を止めた。暗闇を滑った丸い光が、ドアの上に備え付けられた札の文字を照らし出す。そこには、理科室の三文字がしっかりとあった。
「理科室といったら、やっぱり、人体模型しかないわよね」
音楽室と同じく別棟の二階にある理科室の七不思議といったら、これしかないと美香が自信満々な答え合わせは見事に当たった。
「で……でも、何だか怖いね。人体模型って昼間でもちょっと怖いのに、それが動くなんて……」
「そうね―。しかも、夜だし」
怖さ倍増だ、と、これまた雅子を怖がらせる為に意地悪く笑った美香の傍らを、風を巻き起こしながら何かが駆け抜けていった。
千鶴の笑いがぴたりと止む。闇の気配を濃くした夜の学校に、駆ける足音だけが響き渡った。それは一旦廊下の行き止まりで立ち止まると、再びこちらに戻ってくる。
「…………」
自然と、美香と雅子は千鶴の背後に隠れる。無意識のうちに美香から受け取った懐中電灯の光を、千鶴は恐る恐るといった体で闇に沈んだ廊下へと滑らせた。
近付いてくる足音。疾走する心臓の鼓動音が耳に響いてうるさかった。
そして。闇の中から、それは突然現れた。
「―――――ッ!」
悲鳴すら上げる余韻さえ残さず、それは一瞬にして千鶴達の前を通り過ぎていった。『ぬお――――ッ!』とか、『おりゃ―――ッ!』とか、何だかよくわからない気合の声を残して。
そしてまた、反対側の廊下の端へとぶち当たれば、引き返してくるそれ。
「……っつ―か、走るのは二宮金次郎だろうが――ッ!」
それが三往復か四往復したところで、恐怖も何もかも消え失せた千鶴が大音響で突っ込んだ。触れないで下さい的な雰囲気が漂い始めたにも拘わらず、真っ当に突っ込んだ。
空気読めない。
『俺は―――ッ。絶対に―――ッ。金の馬鹿に―――ッ。勝つんだぁあああああ!』
最後は巻き舌まで披露してくれる、人体模型君。
千鶴達三人の存在に気付いていないのか、或いは気付いていてあえて無視を決め込んでいるのかは知らないが、廊下を全力疾走で行ったり来たりしている人体模型に、千鶴がひょいと足を前に出した。
『に―の―み―うるあやあぁ――……きゃん!』
「あ、ごめん」
当然の如く人体模型は千鶴の足に躓いて、その際に洩れた乙女チックな驚きの声は無視して、優しいから無視してあげて、大きな音を立てて廊下にダイブした人形に、千鶴はわざとらしい謝罪を落とした。
『何がごめん、だ! 見ろよ、コレッ。内臓とか胃とか、全部出ちゃったじゃねぇかッ!』
「微妙にリアルな言い方するんじゃない!」
想像しちゃうじゃないか!と、千鶴の拳が人体模型君の頭に飛ぶ。
『きゃん!』
再び聞こえたそれは、頑張って何とか無視した。
自分、何も聞きませんでした、的に。
「それにしても。なんでアンタ、廊下なんて走ってたのよ? 普通、走るっていったら二宮金次郎像でしょ?」
痛む頭に涙目で文字通り廊下に散らばった模型の内臓を己の腹へと戻していた人体模型君は、千鶴のその一言に動きを止めた。
『金次郎……だと……?』
内臓を全て定位置に戻し終えた彼の拳が、震えている。
ごごごごご……。なんていう、不吉な効果音が聞こえた。
「ちょ……太郎君?」
いつの間にか命名までしてしまったらしい千鶴が、その背に声を掛けると同時に、がばっという効果音がぴったりの勢いで顔を上げる人体模型君改め太郎君。
なんだか、闇の中で両目が光った気がする。
キラーン。
『金がなんだっていうだ――! 俺だって、走ろうと思えば走れるんだぞ、馬鹿ヤロ―――ッ!』
やろ―、やろ―。広い廊下に、反響する罵声。誰に対する罵声だったのかは、ともかく。
「う……っさいっつーの!」
いきなり間近で叫ばれ、鼓膜が破れる思いがした千鶴は、容赦ない一撃を太郎君の脳天にお見舞いした。
ごん!という鈍い音も、未だ彼の発した怒声の余韻が残る耳ではくぐもってしか聞こえない。
「ったく……私の鼓膜破る気かっつーの」
作り物だけに硬度はあった。ちょっと痛む手をひらひらと振りながら、あまりの痛みに呻き声も出ないらしい。
その事にほっと胸を撫で下ろさないでもない。
なにせ、あと一度でもあの、少女みたいな悲鳴を上げられたら、千鶴が再び笑いのツボに嵌まること必須なのだ。
「千鶴……あんた、ちょっと遣り過ぎでしょ」
容赦なんて言葉知らない様子の千鶴の拳骨に、美香は呆れ顔だ。
「あの……大丈夫、ですか?」
労いの一言と共に太郎君の隣に膝をついてハンカチを差し出すのはもちろんこの中では雅子しかいない。
『あぁ……すみません。お借りします』
いつの間にかしおらしくなり、雅子から綺麗に洗濯をされたハンカチを受け取る。どうして人体模型が涙なんか流すのだろう、なんていう疑問は持ってはいけない。まっとうだからこそ、今の非日常に対して問うても意味がないのだ。
「大丈夫ですか?」
ハンカチで涙を拭う太郎君を心配そうに覗き込む雅子は本当に優しい子なのだと、その光景を見ていた千鶴と美香は、それが人体模型という現実を意識の片隅に追いやりながらしみじみと思った。
「なんだか和む図だなぁ」
「そうねぇ。彼、人体模型だけど。なんだか半分、内臓見えてるけど」
「そこはツッコんじゃダメだって、美香」
「了解であります、千鶴隊長」
改めてといった様子で現実を見ようとした美香と、飽く迄も和やかな光景だと言い張る千鶴の意見が一致した。
夜の学校・恋の始まりの予感?
題をつけるなら、こんな感じだ。
まっとうな突っ込みを入れる第三者は、生憎というよりも幸運といった方がこの場合はいいかもしれない、この場にはいなかった。
「で? 最初の私の質問なんだけど。太郎君、あんた、どうして廊下なんて走ってたの?」
太郎君という名前はどうやら定着決定のようだ。
雅子の隣に屈むと、先程からの様々な暴力行為の所為か、怯えた様子で数歩後ずさる太郎君だった。
『あの……その……実は、金の馬鹿と競争をしていまして』
しかも何故か敬語だ。
「なんで、またそんな話に」
『はぁ……それは……あの……』
きょろきょろと太郎君の曇りない瞳が動く。星が飛んでいるのは現代の趣向だと思っておこう。
「はっきりしないな。早く言いなさいよ。それとも、また一発食らいたいの?」
拳を握って千鶴がにこりと笑って見せると、脅しの効果は抜群。情けない悲鳴を上げた太郎君は、またちょっと泣いていたりした。
『俺には、好きな女の子がいるんです……』
いきなりの告白に、三人の思考は数秒停止した。
今、人体模型の太郎君は何と言った?恋をしている、だと?
「……人体模型なのに?」
一番最初に自分を取り戻したのは、やっぱりといえばやっぱり、千鶴だった。ぽつり、と呟く。
静かな空間にはそれだけの声量で充分だった。千鶴の突っ込みを拾った太郎君の星の散った目が、また、きらーん!と輝いた。
『人体模型だからって、誰かを好きになっちゃいけないって法律あるんですか!? 好きになったっていいじゃないですか!』
あまりの剣幕に、流石の千鶴も殴り返す気力を奪われたのか、体を仰け反らせて何度も小刻みに頷くしかなかった。
太郎君の隣では、何故か雅子が大いに納得したように腕を組んで頷いている。
「いや……うん、ごめん。そうだよね。人体模型でも恋をしていいよね」
一途に誰かを想う恋心にケチをつけようものなら、普段の雅子からは考えられないような反撃が待っている。
人体模型の感情を認めるというよりは、どちらかというと雅子の逆鱗に触れるのが怖くて、千鶴は同意の嵐だった。
『そう! 俺は、あの子のちょっとはにかんだような微笑みに惚れたんです! 三階の女子トイレに住んでいる、女の子の!』
太郎君の口から飛び出た、好きな女の子の説明に、三人とも目が点になった。
三階の女子トイレに住んでいる女の子。そこから導かれるのは一人しかいない。
『俺は勇気を振り絞ってデートを申し出てみた。だがしかし! 金の馬鹿に足で勝ってからね、って笑顔で言われて……』
尻すぼみする言葉。急に立ち上がり、何事かと見守る三人の前で再び走りこみを始めてしまった太郎君である。
「……行こっか」
「……そうね」
こちらの存在など忘れてしまったかのように恋に燃える太郎君の巻き舌の声を聞きながら、三人はその場を後にする。
頑張ってください、なんていう、恋の為に走り続ける人体模型に向かってエールを送る雅子の声を背中に聞いた。