七不思議・壱 歌う美術室の石膏像
階段を上がる足音が三つ。反響するのはいつもの事なのに、どういう訳か夜というだけで不気味に思えてくる。まるで後ろから誰かが追いかけてきているかのようで、細い懐中電灯の灯りを頼りに決して背後は振り返らないと決めていた。
「えぇと……確か、あたし達は最初は美術室だったよね?」
七不思議ツアーへよこそ!と、眩しいぐらいの笑顔で出迎えてくれたガイドさんの説明によれば、今宵の参加二十七名は三つのルートに分かれて七不思議巡りをするのだという。そのうち、千鶴と美香と雅子の三人は、抽選の結果、三階から回るCルートに決まった。
「三階まで登るのって、結構辛かったりするんだけど」
二階の踊り場の辺りまで来た時点で既に息を切らしている美香に、千鶴は呆れたような笑みを洩らした。
「だらしない。運動不足なんだよ、美香は。あ、雅子。アンタは大丈夫?」
懐中電灯と渡された七不思議案内図を片方ずつ手に持った状態でバテ気味の美香に呆れた後、千鶴は階段の途中で立ち止まって後ろから付いてきている雅子を労った。
「う……うん。大丈夫。ありがとう、千鶴ちゃん」
そう言って笑う雅子の顔色はどう考えても大丈夫ではなさそうだったが、これ以上言葉を重ねても彼女の重荷にしかならない事は経験上知っていたので、軽く頷きを返すに留めて残りの階段を一気に上がった。
「ほら、美香。あと少し。頑張んなって」
三階の廊下に雅子と二人で並び、日頃の運動不足が祟ってまるで足に錘でもつけているのかと錯覚してしまう程のスローペースで階段を上ってくる美香を励ました。
「う~ん……つ……疲れたぁ」
三階の廊下に座り込み、盛大な溜め息をつく美香に顔を見合わせた千鶴と雅子は思わず笑ってしまった。三年生の教室は三階なので、毎日ここまで登ってきているはずなのにどうして体力が付かないのかと不思議でならない二人である。
「美香、いつまで座っているつもり? 早く行くよ」
「ちょ……ちょっと待ってよ~」
置いて行かないでと泣き言を聞き入れる程優しくない千鶴は後ろを気にしながらもついてきた雅子を伴って闇に沈む廊下を進んでいく。見慣れた教室のドア硝子の向こうに何かいそうな気がして、そちらは意識的に見ないようにした。
「美術室……。ここだね」
何とか追いついてきた美香が加わり、三人は目的の場所でしばし足を止めて扉を凝視する。
「……開けるよ」
唾を呑み込み、覚悟を決めた千鶴は扉に手を掛ける。普段なら鍵が閉まっているその扉は、横に少し引いただけで簡単に開いた。
暗い室内を、懐中電灯の灯りが一巡する。普段から何だか得体の知れない物が置いてあって何となく不気味な美術室は、夜を迎えると尚更恐ろしい所に思えてくる。
「確か……美術室は、石膏像……だった……よね?」
千鶴を先頭に彼女の背中に隠れるようにして美術室へと足を踏み入れた雅子の問いかけに、一旦立ち止まった千鶴は手元の案内図を確認して頷いた。
「うん。『歌う美術室の石膏像』ってあるけど……そんな七不思議、うちの学校にあったっけ?」
噂話には疎い千鶴が小首を傾げれば、そういった話が大好きな美香が飛びついてきた。
「あ、あたしそれ知ってる。確か、深夜になると何処からともなく歌が聴こえてきて、それはこの美術室の石膏像が歌っているんだって」
「石膏像が歌? 石なのに、どうして声が出るんだ?」
千鶴の疑問に、数秒何ともいえない沈黙が流れた。
「……で、その歌を聴いた人は死んじゃうんだってさ」
一番突っ込んじゃいけない千鶴の疑問は美香によって綺麗にスルーされた。
「じゃ……じゃあ、あたし達、死んじゃうの?」
不安顔で飽く迄も噂である話を信じて青白い顔をする雅子に、意地悪気な笑みを浮かべる美香。
「そうかもしれないわよ~? 雅子、あたし、貴女と一緒だったら……いった!」
「からかうのも程々に。雅子、本当に恐怖に卒倒するよ」
恐怖に震え上がっている雅子の様子に見かねた千鶴の平手が美香の頭に見事ヒットする。痛む頭を抱えて友が恨めしげに睨み付けてくるも、自業自得だと千鶴は片手の懐中電灯を窓辺の棚の上に置かれた石膏像へと当てた。
「う~ん……見たところ、普通の石膏像なんだけどなぁ」
足音を響かせて近付いてよく見るも、やっぱり何処にでもある石膏像にしか見えない。白に光が反射してちょっと眩しい。
「なんか、歌えってあるんだけど」
案内の紙には、美術室で歌うようにと記してあった。
「試しに歌ってみれば~?」
叩かれたのが余程応えたのか、近くの椅子に座って頬杖を付く美香が気のない提案をしてくる。
「え~? 私の歌の下手さ、美香、知ってるだろ」
「知ってるよ~」
へそを曲げたらなかなか機嫌が直らないのが美香の悪い所だ。完全に千鶴の下手な歌を聞いて笑い転げたいに決まっている。
性質が悪いと、盛大な舌打ちをするも、まさか恐怖に今にでも泣き出しそうな雅子に頼むわけにもいかない。
「……仕方ない」
腹を括ろう。そう決めて、千鶴はすっと息を吸い込む。
「誰かさんが誰かさんが誰かさんが見つけた♪
小さい秋小さい秋小さい秋見つけた♪」
「……なんで童謡なのよ」
もっと他に歌う歌があるだろうという美香の突っ込みに一旦歌うのを中断した千鶴は、べーっと舌を出した。
「うるさいやい。だったら自分で歌え」
こっちだって恥ずかしいのだと、文句を言いながらも千鶴は歌を再開した。
「誰かさんが誰かさんが誰かさんが見つけた♪
小さい秋小さい秋小さい秋見つけた♪
目隠し鬼さん手の鳴る方へ♪
すましたお耳に微かに染みた♪
呼んでる口笛もずの声♪
誰かさんが誰かさんが誰かさんが見つけた♪」
少し調子が外れた歌声が微かな木霊を残して消える。数秒待ってみるも、しかし何の変化もなかった。
「……なんにも起きないじゃん」
苦手な歌を、仲良しだといっても人前で歌わされた千鶴の恥ずかしさと不機嫌さは最高潮に達する。
「行こう、美香、雅子。馬鹿らしい」
肩を怒らせて美術室を出て行こうとした千鶴の耳に、ゴトリ、と。何か重たい物が動く音が届いた。
美術室の扉を開けたところで、ピタリと動きを止める千鶴。
もう一度、ゴトリ、と音がする。
聞き間違いではない事が、証明された瞬間だった。
『………………音痴』
耳に痛い程の緊張を孕んだ長い静寂を破ったその一言に、千鶴の堪忍袋の緒が切れたらしかった。
がばりと振り返り、つかつかと先程まで自分がいた石膏像の前まで戻ると、その白い顔に指を突き付けた。
「やかましい! そんな事、アンタなんかに言われなくたってわかってるっつーのッ!」
気にしている事をそんな直球に言ってのけるなと、恐怖も何かも忘れて千鶴は怒鳴った。
「ち……千鶴ちゃん……。お……落ち着いて……?」
恐る恐る近付いてきた雅子が、肩で息をしている千鶴の背に軽く触れる。背後から覗き込むように顔を見つめてきた友人に、千鶴は深く息を吐き出すことによって己の中で荒れ狂う激情を何とか鎮めた。
『音痴は音痴なのだ。聴いていて些か不愉快になった』
「まだ言うか、この石膏像。窓から落としてやろうか?」
目の前の喋る石膏像に対する恐怖など吹き飛んでしまった。減らず口を叩く白き像に、千鶴は腹黒い笑みを浮かべる。
『歌とは上手く歌おうと思うものではない。ただ、自身の思いを乗せるのだ』
「……とことん人の話を聞かない石膏像だな」
「突っ込む所そこなの?」
近付いてきた美香の尤もな指摘も怒り心頭の千鶴の耳には届かない。
『では、一曲』
「だから、頼んでないって」
三人が見つめる先でゴホンとわざとらしい咳払いを一つした石膏像は、千鶴が突っ込んだ様に誰も何も言っていないのに歌い出した。
『だれかさんが だれかさんが♪
だれかさんが 見つけた♪
小さい秋 小さい秋♪
小さい秋 見つけた♪
目かくし鬼さん 手のなる方へ♪
すましたお耳に かすかにしみた♪
呼んでる口笛 もずの声♪
小さい秋 小さい秋♪
小さい秋 見つけた♪』
「……って、また童謡?」
溜め息をつくも、どう考えても歌うのに適していない口から紡がれた優美な歌に酔いしれている模様の美香。隣の雅子も同様にうっとりとしていたが、千鶴だけは違った。
「……嫌味か、こいつ」
音痴の自分と同じ童謡を歌った石膏像に、千鶴は盛大な舌打ちをする。
『では、もう一曲』
だから頼んでないと、その突っ込みは己のうちに留めておく。
『春 高楼の 花の宴♪
めぐる盃 かげさして♪
千代の松が枝 わけ出でし♪
むかしの光 いまいずこ♪』
「ほら、美香、雅子。行くよ」
何故かまた童謡を歌い始めた石膏像の歌声に相変わらず陶酔した様子で聴き入っている二人を、千鶴は半ば強引に引き連れていく。
まだ聴いていたい~!などと駄々をこねる美香を完全に無視して、未だ優美な歌声が響いてくる背後の美術室の扉をピシャリと閉じた。