エピローグ
長く伸ばしたユファレートの髪を、ハウザードは撫でた。
ユファレートが、驚いたような顔をする。
「ありがとう、ユファ」
「……え? なにが? なんで?」
「……さあ、なんでだろう?」
庭の、緑の芝生の上にいた。
ユファレートと並んで座っている。
(おかしいな……)
この会話は、居間で交わされたはずだ。
そして、季節は冬だった。
今、日差しは暖かい。
側には、ドラウもいる。
ああ、これは夢か。
最後に、望む夢が見れたのか。
「ありがとう、ユファ、ドラウ」
家族として、迎え入れてくれて。
妹になってくれて。
師になってくれて。
言葉を交わしてくれて。
隣にいてくれて。
一緒に本を読んでくれて。
教えてくれて。
ハウザードを、愛情で満たしてくれて。
感謝の言葉が、いくらでも流れ出る。
二人は、なにも言わなかった。
ただ、優しく微笑んでくれている。
最後に、二人に会えた。
この二人だけが、ハウザードを人として見てくれた。
二人に見られながら、消えることができる。
それは、人として死ねるということだ。
春の日溜まりの中で、ハウザードは小さく笑った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
自室に、ドラウはいた。
春は遠い。
気温は上がらず、空気は凍えるように冷たい。
しかし、暖気を発生させる魔法を使用する気にはならなかった。
震えながら、ドラウはただ待った。
白い姿のエスが、部屋の中央に現れる。
「ハウザードが、消滅した」
「……そうか」
エスの言葉は、ドラウに衝撃を与えた。
『器』を破壊すると決めた。
それは、ハウザードを殺すという意味でもあった。
とっくに覚悟を決めていたはずなのに、衝撃を受けた。
随分と自分勝手な話であるような気がする。
「彼が、最後に何を想ったか、聞きたいかね?」
それは、エスなりの気遣いなのかもしれないが。
「いや、いい……」
ドラウは断った。
感情としては、拒絶にも近い。
「ユファレート・パーターには……」
「僕から、伝える」
「……」
エスが無言になる。
ドラウに注がれる視線が妙に幼く見えて、ドラウは軽く戸惑いを覚えた。
「……どうしたんだい?」
「ランディ・ウェルズの最後の言葉と想いを、私は知っている。私はそれを、彼の仲間たちに伝えてやろうと思った。その程度のことはしてもいいくらい、彼は貢献してくれた。だが彼は、それを望まなかった」
「……」
「さて、なぜだろうな。言葉は、ただの言葉だ。想いは、言葉で表すことができる。誰の口から伝わっても、言葉は言葉だろう。ましてや、私は一言一句変えずに伝えることができる。だが、君もランディ・ウェルズも、私が介することを望まない」
「……君の言う通り、言葉はただの言葉だ。誰の口から伝わっても、同じかもしれない。だけど、それだけじゃないんだよ。多分ね」
「ふむ」
顎に手を当て、考え込むような仕草をエスがする。
「破綻した論理、であるかのようにも思えるが、まあいい。私は、行かなければならない」
「……どこに?」
「ザッファー王国。そこに、『器』はある」
「『中身』がある可能性も……」
「当然、そこが一番高い」
「……」
ザッファー王国。
遠い。
ドラウが向かえることはないだろう。
「『器』の修復には、時間を要するはずだ。それは、我々に与えられた猶予でもある。活かさない訳にはいかない」
ザッファー王国の北は、リーザイ王国である。
ストラームがいる。
ライア・ネクタスもいる。
二人をぶつけ、決着をつけることをエスは考えているのかもしれない。
「さらばだ、ドラウ・パーター。君の今際の時までには、現れるつもりだが」
「さようなら、エス。僕のことは、気にしなくていい。どうせ、もうすぐ消える人間だ」
頷き、特に心残りなどもないのか、あっさりとエスが消える。
立ち上がろうとして、ドラウは失敗した。
椅子の背もたれを掴み、しばらく動けなかった。
風が強い。
ようやくドラウは立ち上がり、部屋を出た。
夜だった。
廊下は暗い。
明かりを灯す気にはならなかった。
どうせ、ユファレートの部屋はすぐそこだ。
知り尽くした自分の家であるため、暗くても躓く心配はない。
ユファレートの部屋の扉をノックし、訪問を告げる。
返事があった。
思ったよりも、しっかりした声だった。
入室する。
ユファレートは、寝台に腰掛けていた。
なにもない壁を、じっと見つめている。
実際には、なにも見ていないのだろう。
ハウザードとの戦闘から、数日が過ぎた。
足はまだ完治しておらず、ユファレートはほとんど部屋から出てこなかった。
「ユファ……」
「お兄ちゃんが、消えたの?」
その台詞を聞き、胸が詰まるような気がした。
「……知っていたのか?」
まさか、エスはドラウよりも先にユファレートの所を訪れていたのだろうか。
「ううん。なんとなく、そんな気がした」
ドラウを見るユファレートの表情は静かで、穏やかといってもいいくらいだった。
それが、かえってドラウの心を締め付ける。
「……泣いても、いいんだよ」
「……涸れ果てちゃったみたい」
呟き、微笑んだ。
本当に泣けないのかもしれない。
泣くことにより、更にドラウを悲しませると、気を遣っているのかもしれない。
気遣いだとしたら、それは悲しい。
寂しく、憐れだとも思う。
一人にしてやるべきなのかもしれない。
部屋を出ると、廊下にティアがいた。
たまたま通り掛かり、聞いてしまったのだろう。
ドラウの顔と部屋の中にいるユファレートを、交互に見比べている。
ドラウは、促すように頷いた。
少し躊躇う様子を見せてから、ティアはユファレートの部屋に入っていった。
ティアが声を掛けると、ユファレートは縋り付くように彼女に抱き着き、嗚咽を漏らした。
見届けて、ドラウは扉を閉ざした。
(……良かった)
あのティアという娘がユファレートの友人になってくれて、本当に良かった。
ユファレートは、ティア相手には心を曝け出すことができている。
感情を吐き出すこともできている。
そんな友人がいることがどれだけ掛け替えのないことか、ユファレートは本当の意味でまだよくわかっていないだろう。
齢を重ねれば、あるいは失うことがあれば、それはわかる。
もうすぐ、ドラウもユファレートの側にはいられなくなる。
だけど、ティアがいてくれれば、ユファレートは孤独にならずにすむ。
「ハウザード……」
廊下を、歩く。
また失った。
師を失い、友を失い、息子を失い、多くの弟子たちを失い、ハウザードも失った。
そして、自分は生き残っている。
「僕よりも早く死ぬな……馬鹿者が……」
破壊するつもりだった。
それなのに、ドラウはそんなことを言った。
廊下は暗い。
明かりを灯す気には、どうしてもならなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ティアの胸の中で、ユファレートは泣いた。
ティアは、優しく抱きしめ返してくれる。
二度、涸れ果てたはずだった。
それでも、涙は止まることなく溢れる。
「……なんで……こんな終わり方なんだろ……」
『器』となるハウザードを、倒さなければならなかった。
だけど実際は、ハウザードに助けられて、ハウザードだけが消えただけだった。
こんな結末、望んではいなかった。
ハウザードがいなくなることを、覚悟していた。
それなのに、ハウザードの喪失という事実は、ユファレートに痛烈に突き刺さった。
「……わたしは……知っていたのに……わたしだけは……理解しているつもりだったのに……」
忘れたことはない、ハウザードは優しかった。
どんな話でも、聞いてくれた。
いつも一緒で。
その時間がユファレートには楽しかった。
ハウザードも、楽しかったのだと思う。
控え目だったけど、笑ってくれた。
失ってしまった、ハウザードを。
あの笑顔も、温もりも。
「……なんで……もっと早く気付かなかったんだろ……わたしは……妹なのに……毎日……一緒だったのに……」
もっと早くに、ハウザードの真実を知っていれば、なにかが変わっていたのではないか。
ハウザードを救えなかったか。
別の結末がなかったか。
過去には戻れない。
ハウザードは、戻ってこない。
「……わたしは……わたしは……」
それ以上は、言葉にならなかった。
意味のない呻きであり、ただの嗚咽だった。
ティアは、なにも言わない。
無言で、ただユファレートを抱きしめている。
ティアも、泣いていた。
いつもそうだった。
一緒に悲しんで、一緒に泣いてくれる。
ティアの胸を借りて、ユファレートは泣き続けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ハウザードが死んだことを、ルーアたちは朝食の席でドラウから聞いた。
余り驚かなかった。
ユファレートが、部屋から出てこない。
ティアは、ユファレートの側にいるようだ。
それが、予感させたのかもしれない。
強烈極まりない敵が一人減ったということであるはずだ。
だが、それだけではないような気がする。
傷を隠そうとしているドラウ、傷付いているであろうユファレートのことを考えると、それだけで済ませていいこととは思えない。
二人のために、なにもできなかった。
ドラウからしたら、ルーアは青二才の小僧だろう。
どんな慰めも、薄っぺらいものでしかないのではないか。
ユファレートの涙を止めることが、ルーアにできるとは思えない。
一緒に泣くこともできない。
それは多分、ティアにしかできない。
昼前に、なんとなくルーアは居間に行った。
テラントもデリフィスもシーパルもいた。
この三人も、なんとなく居間に来たのだろう。
まるで意図的に集まったかのようだった。
空いた席がある。
誰も座らない。
日当たりが最も良い席。
テラントもシーパルも、口を開こうとはしなかった。
デリフィスは、戻ってきたばかりの自分の剣をわずかに鞘から抜き、刃を見ている。
敵が一人減っただけだ、ルーアは呟いた。
軍人であるはずだった。
そして、敵がいる。
仲間の感情に流される必要はない。
流されてもいいのだ、とも思う。
居間の扉が開いた。
ドラウだった。
元々痩せた老人だったが、ここ数日で更に小さくなった。
「みんな、ここにいたんだね」
穏やかに囁くように言いながら、居間を歩く。
自分の席を引き、座る。
「ちょうど良かった。君たちに話が、というよりも、頼みがあるんだ」
「頼み?」
ドラウは泣いたのだろうか。
ふと、疑問として思い浮かんだ。
「僕は、旅に出るつもりだ。生涯最後の旅になるね」
最後。
その単語が、心に触れた。
「ユファも、連れていく。君たちにも、付いてきてもらいたくてね」
「どこに行くんだ?」
「アズスライ」
「……アズスライ?」
ホルン王国北部にある、『火の村』と呼ばれる村。
鍛治が盛んであり、土葬ではなく火葬が行われる。
そこがドラウの過去に関わる村であることは、エスから聞いた。
「僕にとっては、第二の故郷とでも言うべき所になるかな……」
遠くを見るような眼差し。
いかなる想いが、そこにあるのか。
なにか目的があって、向かうのか。
ドラウの最後の戦いは、きっと終わった。
勝利という形で終わらせることが、できたといえるのだろうか。
ドラウの最後の戦いは終わり、最後の旅が始まる。
一月の末だった。
ここは北の大地、ドニック王国。
春は、まだ遠い。