未明の激震
裂帛の気合が闇を裂く。
キースが投擲した棒切れは、前後に並んだ二匹のフォレストスパイダーを串刺しにした。棒はいずれも急所を貫いており、二匹はまもなく絶命した。
半壊した小屋に月明かりが差し込み、割れてめくれ上がった床のそこかしこに転がる化け蜘蛛の死体を照らす。
キースは満身創痍だ。額から流れる血は顎を伝って床に垂れ、服はところどころ裂けて朱に染まっている。
敵は残り二匹。棒切れは残り一本。彼はこちらに背を向けたまま告げる。
「エマーユ、よくがんばったな。結界はもういい。もう一度、串刺しにしてやる」
「だ……め。二匹同時……、まぐれ……よ。そ……れに」
彼はまた新しい傷を受けた。毒が回っていないとも限らない。例の方法で解毒魔法をかけないと、戦闘中に身体が痺れてしまうかも知れない。
しかし、彼女もほとんど魔力切れだ。ただ結界を張るだけならこうはならないが、三〇匹に達する巨大な化け蜘蛛の爪を半日にわたり防ぎ続けたのだ。しかも、時折キースへの治癒魔法や攻撃補助魔法を織り交ぜて。
キースは振り向き、笑顔を見せる。
「もう、瞼半分閉じてんじゃねーか。お姫様はおねむの時間だぜ」
ここまで結界で守ってもらったのだ。最後の二匹くらいは。そう言いたげな彼に対し、エマーユは首を横に振る。
「さっきも言ったろ。好きな女を守るのは喜びだって。お前は黙って守られてろ」
エマーユの閉じかけの目が、その一瞬だけ大きく開いた。
彼は自分で言った通り、凄まじいスタミナでこれまで戦ってきた。王子様である彼にはろくな戦闘経験もないというのに。
それでも、迷いのない瞳が真っ直ぐに自分を見つめている。
——無理しすぎよ。肩で息をしてるじゃない。
それでも、見つめ合う刹那の時間を共有していること、これに勝る幸せは未だかつて経験したことのないものだ。
「う、ん」
目を細めて見せる。上手く笑えたかどうか自信がない。
だが、その返事を聞いたキースは顔に皺が寄るほどの笑顔になった。
「……っしゃ!」
正面に向き直ると、棒切れを腰だめに構えた。
エマーユは合図をし、結界を解く。化け蜘蛛とこちらを隔てる壁が消えてゆく。
残った敵は、三〇匹の中でも執念深い奴らなのだろう。月明かりを受け、それぞれの両目を赤く光らせた。
同時にキースの身体も赤く染まったように見えるのは、蜘蛛どもの視線による照り返しか。
牙を剥いた敵をめがけ、撓めた膝に力を込めた——その時。
唐突な轟音と横揺れ。場の全てのものが床に転がり、視界が流れる。
天地鳴動。
地震。エマーユの脳裏にその単語が浮かんだのは、一頻り揺れた後だった。
ユージュ山は死火山である。彼女もキースも、地震の存在は知識として知るのみだ。
小さな揺れではない。しかも結構長く感じる。
疲れ切っていたときに揺さぶられ、エマーユは這って移動することすらままならない。
揺れが続く中、キースはもう立ち上がっているようだ。彼の気合いと床や壁を割る破砕音が響く。
快哉の叫び。胸をなで下ろす。あと一匹。
ひときわ大きな破砕音。ガラスが割れる硬質な響きを伴った。どうやら窓が窓枠ごと落ちたようだ。
揺れは既におさまっている。
物音が途絶えた。
敵は。キースはどうなった。
周囲の闇が濃くなっていて、視界が効かない。エマーユは身体を起こそうとしたが、なんだか重い。魔力切れでだるいのは確かだけど、それとは違う。
すぐ耳許で呻き声がした。
「キー……ス?」
彼女の上に、キースが覆いかぶさっている。
「蜘蛛は、やったぜ。……ま、地震という……偶然にも、助けられた……けどな」
おかしい。呼吸が浅い。不規則だ。
最後の一匹が、恐ろしく近くに転がっていた。
「っ——! ばか、あたしを……かばったのね!」
「ごふっ」
咳き込んだ直後、湿った音が床を叩く。小屋に吹き込む風が、エマーユの鼻に鉄錆の匂いを届ける。
「キース? い、や」
「どう、やら。相討ちだ……な」
「いやー!」
大声で叫ぶ。疲労が吹き飛んだ。切れかけた魔力が瞬時に横溢するのを自覚する。
身体に力が戻っている。今までになかったことだ。だが戸惑うのは後でいい。この魔力を全てキースの治療に充てるのだ。
パニックを起こしかける気持ちを捩じ伏せ、エマーユは立ち上がる。キースの状態を確認し——。
手を当てた口からは息ひとつ吐くことができない。限界まで見開いた目からは雫が溢れ出た。
蜘蛛の脚が二本、本体から千切れた状態でキースに突き刺さっている。
一本目の爪は右ふくらはぎを刺し、すねから突き出して床へと縫い止めていた。
二本目の爪は、彼の背に。
背を突き刺す爪は、貫通こそしていない。だがその位置と、彼が口から吐いた尋常でない量の血。息があるのが不思議なほどだ。しかし背の爪を抜こうものなら、あっという間に出血多量で——。
「キース……ああ……」
もはやエマーユの治癒魔法では間に合わない。こんな時、人間ならどうするのだろう。
ふと、キースが握ったままの棒切れが視界に入る。途中で折れ千切れた棒の先端は、最後の蜘蛛の急所に突き立っている。
あの棒は、ブラインドに使われていたもの。
ブラインド——教会。信仰。祈り。
アーカンドル王国の国教は、ハルダイン教だと聞いている。
彼女はごく自然に、胸の前で両手を組み合わせた。
「神様。ハルダインの神様。エルフのあたしが、あなたを頼ります。あたしの命を、キースに——」
「待ちな!」
制止の声は老婆のもの。
そちらを向いて身構える彼女の腰に、縄が巻きついた。
「……っく!」
老婆の反対側——エマーユの背後に一人、昼間の黒装束がいた。そいつに呪符を投げつけられたのだ。
再び正面を見ると、老婆の両脇にも昼間の連中がいる。
「離して! キースが死んじゃう!」
老婆は呪符を取り出しながら言う。
「ハルダイン教は——宗教は魔法に勝る奇蹟など起こさぬよ」
そう言って二枚の呪符を投げる。呪符はキースの上で宙に静止するや、金色の輝きを放った。
それに呼応するかのように、キースに刺さっていた蜘蛛の爪は、脚もろとも金色に輝き出した。やがて脚は光の粒子となって分解され、宙に留まったままの呪符へと吸い込まれていく。完全に吸収すると、呪符も消滅した。キースの傷口からは、血が噴き出す様子はない。
「すまんの。まさか我らの結界が消えるとは思わなかったのでな」
喋りながらキースに近付く老婆は、新しい呪符を取り出した。
二枚の呪符を彼のそれぞれの傷口に乗せると、胸の前で両手の指を合わせて菱形の印を切る。
光る呪符がキースの傷口を癒して行く。その様子を見てひとまず息を吐いたエマーユは、その場にぺたんと座り込んだ。
「なんともタフな王子様じゃの。普通なら即死してもおかしくない怪我じゃというのに」
無言で睨むエマーユの視線を風と受け流し、老婆は話し続ける。
「それに、エルフの助けを借りたとは言え、体術だけでこやつらを三〇匹も斃すとはな」
呪符が消え去った後、怪我の具合を確認した老婆は、概ね満足したように頷いて見せた。
小屋の内外で大きな物音がする。エマーユが見回すと、黒ずくめたちが修繕作業をしていた。その人数はいつの間にか二桁ほどにまで増えている。壊れた窓や隙間の空いた壁に板を打ち付ける者、蜘蛛の死体を運び出す者、数人がかりでベッドを運び込む者。
「怪我の方は問題ない。解毒まではできぬが、こやつらの毒はそう強くはない。ひと眠りすれば回復するじゃろう。目覚めたら食べられるよう、保存食も用意してきた」
黒ずくめたちは二人がかりでキースを抱えると、丁寧にベッドへ寝かせた。
どうやら殺す気はなさそうだ。だが目的がわからない。エマーユは警戒をあらわに、黙って睨み続ける。
「お主らを攫ったこと、謝罪しよう。わしは土蜘蛛一族の族長、ドロシーじゃ。お主を怒らせておるという自覚はある。じゃから王子のダガーナイフは取り上げずにおこう。彼が目覚めたら縄を解いてもらうがよい」
ドロシーが顎をしゃくると、黒ずくめの一人が蓋のない木箱を持ってきた。中身をエマーユに示し、ベッド脇に置く。
そこには、彼らがキースから取り上げていたマジックアイテムと、普通の鋼製のダガーが入っていた。彼が持っていなかったはずのアイテムもある。
「マジックアイテム〈白竜の門扉〉のレプリカじゃ。王子なら呪文を知っていよう。ここはユージュ山の西側。ユージュの森までなら移動できる」
キースが寝返りを打った。そちらを向いたドロシーの目が丸くなる。
「もう血色が良くなっておる。なんという回復力なのじゃ、この王子は」
エマーユは焦れてきた。尖った声で訊く。
「あなたたち、何の目的であたしたちを攫ったのよ」
彼女の視線を正面に受け止めたドロシーは神妙な顔つきになり、一度頭を下げてから話し出す。
「実は我ら土蜘蛛、不覚にも家宝を盗まれてな。マジックアイテム〈ブラウニーストーン〉という名の宝石じゃ」
永続魔法の一種である土蜘蛛の結界は、〈ブラウニーストーン〉による魔法効果だという。一旦魔法効果を発現させれば、あとは術者やアイテムなしでも効果が続くものと考えられていた。ところが、実際は結果が証明する通り。アイテムが盗まれた途端、結界はフォレストスパイダーに簡単に突破されるほど脆くなり、今や消えかけている。
だが、強力なアイテムであることに変わりはない。具体的な魔法効果は不明だが、攻撃系の魔法効果も発現できると伝えられているらしい。
「それは我ら土蜘蛛一族の口伝に過ぎぬ。じゃが真実である可能性がある以上、座視するわけにもいかぬ。我らのように結界として使うだけならこうまで必死に取り戻そうとはせぬのだが」
ここ最近、アーカンドル王国をはじめ、学者によるマジックアイテムの研究は盛んになっている。〈ブラウニーストーン〉を手に入れた者は早晩、攻撃兵器としての利用方法を探り当ててしまうかも知れない。そう語るドロシーの顔は苦渋に満ちていた。
それに同情するつもりはないが、幾分やわらげた声でエマーユが質問する。
「でも、その〈ブラウニーストーン〉が結界の内側にあったのなら、それってそんな簡単に盗み出せるものなの?」
「外部の者にはまず無理じゃろう。恥ずかしいことじゃが……。身内か、もと身内だった者の犯行と見ておる」
ドロシーは彼女から視線を逸らすとキースを眺める。
「随分前のことだが、我らと袂を分かった者がアーカンドル王国におるのでな」
老婆が細めた目からは表情が消えた。身に纏う雰囲気が変わるのを感じ、エマーユはぞくりと背を震わせる。
「ヴァルファズル王の本質は好戦的な剣豪。それで、その者と王が結託し、〈ブラウニーストーン〉を盗んだに違いないと。そう、頭から疑ってかかったのじゃ」
この人、キースの父と何かあったのだろうか。その疑問はひとまず置き、声に出しては別のことを訊く。
「それで、疑いは解けたのかしら」
「いや。ただ、可能性が限りなく〇に近付いたとは思っておる。なにせ、『真の土蜘蛛衆』などと、我らに真っ向から喧嘩を売るような名を名乗る痴れ者が現れたのでな」
それともうひとつ、と言うドロシーの目は、エマーユに謝罪してみせた時の温度に戻っている。
「その者——ベルヴェルクの娘が、件の痴れ者どもに攫われたと聞いてな。結局、我らこそが一番の痴れ者だということじゃな」
半日にわたる戦闘で傷んだ床がぎしりと軋む。続けて、衣擦れの音が聞こえる。そちらに目をやったエマーユは、見開いた目をすぐに細めた。
「おはよ、キース」
「なんと! お主、もう起きられるのか」
大きく伸びをした金髪少年は、一度だけ眠そうに目をこする。エマーユに微笑むと、ドロシーを見据えた。
「誰の娘が攫われたって? 婆さん、その話詳しく聞かせてくれ」
* * *
ユージュ山は死火山だ。
突然の地震に、人々は軽いパニックを起こしかけた。ユージュ山が噴火する。そんな流言も飛び交った。
屋外に飛び出た人々は夜闇に包まれた周囲を見回した。どうやら崩れた建物もなければ怪我人もおらず、ユージュ山も普段通りの静かな佇まいだ。人々はすぐに落ち着きを取り戻した。
しかし噴火の流言を信じて、広い講堂兼屋内運動施設を持つ王立リンベール学園へ避難する人々もいた。
地震に際して学園を閉鎖するわけにはいかない。国王はそう判断した。警護隊の面々はキースの行方に気を揉んでいたものの、しばらくは避難者たちの誘導に当たるしかなくなってしまった。
そんな中、学園内の職員宿泊室で早くも仮眠していたカームは突然の地震に飛び起きた。揺れが収まるのを待ち、バレグの部屋へ駆けつける。
「バレグくん。無事か」
返事がない。
考えてみれば、今日は雪山に登山している。険しい山道ではないが、荷物を背負って往復六時間歩いたのだ。眠くない方がおかしいだろう。
「ふむ。私もバレグくんを見習って、ここは寝ておくか」
アーカンドル王国に住む大半の者は実体験として地震を知っているわけではない。カームのような学者でさえ、余震の可能性に気が回らない者の方が多いのだ。
そんな王国をさらなる激震が襲ったのは、夜が明ける直前のことだった。