炎のキース
革鎧を失ったベルヴェルクは、上着を開いて懐を晒した。
「これが何か判るな」
「——っとぉ!」
爪が届く間合いまで接近していたハーディだったが、攻撃を加えることなく真後ろへ飛び退る。
「離れた場所からなら爆炎を消してみせた貴様だが、ゼロ距離でも上手くいくかな。是非試してみたいとは思わんか」
この言葉に口を歪めたハーディは、やがて声を立てて笑い出した。
「自爆戦法かよ。いかれてやがるぜ」
「お互い様だ」
開いていた上着を戻すと同時、自然な動作で呪符をばら撒く。すると、複数のベルヴェルクが荒野に出現した。
「ちっ。最後まで遊んでやりてえのはやまやまだがよぉ。ちと時間をかけすぎたらしい。所定の目的は達したからな、蜘蛛女を連れて帰らせてもらうわ」
そこにメリクが合流した。
「めでたい奴だ。逃がすと思うか」
彼は人狼を睨んだまま、ベルヴェルクに告げる。
「ここはお任せを。あなたはスーチェを連れてバレグのところへ」
「……承知した」
一人で大丈夫か、とは訊かない。今作戦のリーダーはメリクなのだ。それに、オレンジに輝く彼の瞳。詳細はわからないまでも、リーダーは新たな力に目覚めたようだ。それに基づく自信が見て取れる。
ベルヴェルクは言われるままに背を向けて立ち去った。同時に、ベルヴェルクの分身たちも呪符となって彼のもとへ戻る。
「おいおい。この俺様と一対一だと? 土蜘蛛ってのはいかれた奴しかいねえのか」
言い終えるのを待つことなく、メリクの全身から無数の細い炎が飛び出した。蛇のようにうねり、縦横無尽に荒野を踊る。それらは不規則な動きと絶妙な時間差でハーディに襲いかかった。
「炎が効くかよ。鬱陶しい」
それらのうち一つを無造作に手で払った途端——。
「ぐあぁ! ばかな、消せないだとぉ」
掌で黒煙が燻り、振り回しても消える気配がない。もう一方の手で手首を掴み、地面で擦って消火しようとして、やめる。
彼の意図を読んだメリクが炎の蛇を先回りさせていたのだ。そうしている間にも、上下左右から蛇が襲いかかる。
人狼は疾風と化して逃げ回る。対するメリクは足を止め、特に動こうとさえしていない。
「こちらとしても時間は惜しい。言い遺すことがあっても聞いてやる時間はない。覚悟しろ」
「しゃらくせえ」
炎の蛇をかき分けて、黒い塊が宙を飛ぶ。ハーディによる遠隔攻撃だ。
しかしそれらは、メリクに届くことなく霧散してしまう。
「竜王の業火よ、不浄の輩を灰となせ」
強烈な輝きを放つ光球が出現し、人狼でさえ目をかばって動きを止めた。
* * *
振り下ろされたナイフが目の前で止まった。
「何のために……」
人狼の口から漏れたのはリュウの声だ。狼の顔が彼自身のそれへと戻っていく。
「無礼を承知で申し上げれば、殿下と私は一人の妹を持つという共通点がございます」
だからこそ今回の作戦に志願した、と穏やかな顔で告げる。
「かつて、私は陛下に救われました。それも、我が妹共々。今こそ殿下にお返しすべき時」
「なに変身解いてんのよぉ。ねぇ、はやくぅ」
身体をくねくねさせながらバネッサが歌う。
「く……」
再び振り上げられたナイフが、今度は躊躇なく振り下ろされる。
キースの腕の下で、彼の右腕を縫い止めていた槍の柄が切断された。
「もう、何やってんのよ」
答える代わりに妖女を睨み付ける。リュウの瞳には今、明確な意志が宿っている。
「はあ、使えないわね」
歌うのをやめ、音を立てて溜息を吐く。
「……まずはてめえから死にな」
低い声で吐き捨てるように言うと大量の青い光弾を浴びせた。
着弾の衝撃。それをキースが感じることはなく——。
妖女と槍の檻との間に割って入り、こちらに背を向けて立つリュウ。その身体から大量の黒煙が立ち上る。
「やりたかったのはこういうことです。危うく忘れるところでした」
悔しいが人としての力だけでは敵に遠く及ばない。そのために人狼の牙を甘んじて受けた。
淡々と語るリュウの声は平静だったが、その立ち姿からは力が感じられない。
「リュウ? おい、リュウ!」
狂った笑い声がキースの声をかき消す。
「金髪のお兄さん、やっぱ王子様だったりするわけぇ? たとえそうだとしても、ガキのために命を投げ出すとか信じらんなぁーい」
「命を投げ出す、だと」
まさか。人狼の姿の時は平然とその身体で光弾を受け止めていたではないか。
「だめだ、リュウ! 人狼に戻れっ」
「その命令は聞けません。どうやらあの姿でいる限り、奴の歌声に逆らえないようなので」
「死んでしまっては何にもならないっ」
その叫びに振り向き、口の端から血を垂らしながらも爽やかに微笑む。
「ありがとうございます。殿下からそのようなお言葉を賜るとはこの上ない幸せ。そうであればこそ尚更、この命に代えても殿下の壁となって見せます。どうか、その間に一時撤退——」
最後まで言い切ることができなかった。
鈍い音が耳に届く。鋭利な金属が衣を裂き、肉をも穿つ音。
地面から突き出した数本の槍。それらの穂先がリュウの身体を刺し貫いたのだ。
理解するまでに刹那の時間を要した。目を限界まで見開き、瞳孔が縮む。伸ばす手は槍の檻に阻まれてリュウに届かない。
少年の絶叫が谺した。
そこへ駆け寄るエマーユも叫ぶ。
「キース! まだよ、まだ、できることがきっとあるっ」
一挙動で槍の檻を薙ぎ払い、彼女はキースの背に抱きついた。
「落ち着いて。あなたは炎のキース。あなたにしかできないことがある」
「炎……」
腹に置かれた彼女の手に触れ、少年は一度目を閉じた。一つ頷いて静かに目を開く。その瞳を強烈なオレンジ色に輝かせると、朗々と呪文を唱える。
「竜王の業火よ、不浄の輩を灰となせ」
図らずも、メリクと同じタイミングだった。彼のそれに倍する大きさの光球は、もはや太陽と表現すべき輝きを放つ。
荒野に出現した二つの太陽が今、荒野に集う全ての者たちを圧倒する。
急速に拡散するキースの太陽は、メリクのそれと融合するや荒野全体を真っ白に染め上げる。
それは、友人と熱く語らう魂の炎。
それは、家族を暖かく癒やす暖炉。
それは、罪人を厳しく責める猛火。
ファリヤは胸の前で両手を握りしめた。
バレグの震えは完全に止まり、深呼吸でもするように身体を大きく伸ばした。
ベルヴェルクに抱えられていたスーチェは自力で降り、太陽を見つめた。全身の傷は見る間に癒えていく。
みな一様にリラックスした表情で大地を踏みしめる。
「どっかで見てんだろ、スコール! 撤退だ、俺様を連れて行きやがれぇ」
炎の蛇に巻き付かれ、全身から黒煙を立ち上らせながら、なおもハーディはしぶとく叫ぶ。しかし、応える者はいない。
「ふざ、けんな! 俺様が、人間、ごときにいぃっ」
膨れ上がる光球の端が、ハーディの目に触れた。
液体が蒸発する音とともに、眼球が消滅する。
最早声を出すことすらかなわず、這いつくばって光球から逃れる。光球に呑み込まれた腕を抜くと、肩から先が消滅していた。
やがて這うための手足を失って——。ハーディが存在した痕跡は、この世から消え去った。
一方、妖女は青い光を身に纏い、光球の中でいまだ抵抗を続けている。
「なめるなぁ! 火など、水の敵じゃないっ!」
苛立ちをそのまま声に込め、バネッサが叫ぶ。
対照的に、キースとエマーユは泰然と並んで立っている。
キースの腕と、リュウの身体を刺し貫く槍が空気に溶けるようにして消滅した。その場に膝を屈する警護隊員。彼のそばにエマーユが駆け寄り、ヒーリングの魔法をかけ始める。
地面が揺れ、何本もの槍が突き出てきた。が、穂先が見えたそばから空気中に溶けるようにして消滅してゆく。
「認めないぞ。お前のような甘っちょろいガキがこれほどの力を……。セイクリッドファイブは全てを奪う存在だ!」
キースはオレンジ色に光る瞳でバネッサを見据えた。
「そうか。俺とは根本的に考え方が違うようだ。分を超えて求める者は例外なく破滅する。ある年寄りの言葉だ」
それを聞き、エマーユは微笑んだ。エルフの長老グリズの言葉である。
「ほざけ。破滅するのはお前たちだ」
地面が揺れ、バネッサの身体は地中へと埋まってゆく。
「土は燃えない。残念だったな」
「どうかな」
手を取り合うキースとエマーユ。そこにメリクが駆けつけた。寄り添う三人の周囲に紅蓮のオーラが立ち上る。
絶叫とともに、蜘蛛女が地面に転がり出た。
「ぐ……が……、くそがっ」
煮えたぎる地面は今や溶岩の様相を呈している。
青いオーラで身を守りつつも、バネッサの周囲からは絶え間無く水蒸気が立ち上り始めた。
「諦めろバネッサ。もうお前に勝ち目は——」
キースの言葉を奪うようにして、
「ないですな」
青年の声がした。
しかし姿は見せず、声だけを残して疾風がかけぬけてゆく。
直後、怨嗟に満ちた妖女の絶叫が轟いた。
左手首から先を失った彼女が、切断面から赤い液体を滝のように噴出させているのだ。
「エマーユ!」
「はいっ」
たまらず治療を命じたキースだったが、バネッサ自身がそれを拒否した。
「寄るな。敵の情けは受けん。……おのれスコール。おのれドレン! あたしはこの世の全てを怨む。全てを呪う」
青いオーラはどす黒く変色し、彼女の周囲で渦を巻く。
「噴流の竜王よ! 我の魂と引き換えに報復の力を与えたまえ。仮初めの姿と偽りの刃をもって蹂躙の栄誉を授けたまえ」
手首から流れ落ちる滝はその色を変えた。青黒く輝く液体は流れ落ちるのをやめて固まると、手の形へと収束した。
「お前たちにもいずれ破滅の恐怖を与えてやるっ。でもあたしには、その前にすることができた」
新たな手を得たバネッサは、その左手で地面を殴りつける。
激震と共に穿たれた穴に、妖女は躊躇いなく飛び込んだ。
揺れがおさまっていく。全ての敵の気配も消えていく。
誰も敵を追う者はいない。追うだけの余力がないのだ。大量に血を失ったであろうバネッサと同様に、キースたちも魔力切れ寸前だったのである。
「ドレン、と言ったのか。あの蜘蛛女……」
大陸に住まう人間なら、その名を知らぬ者はほとんどいないだろう。北の大国を統べる冷血の宰相。
キースは苦い物を噛んだような顔でサワムー湖に目を向けた。湖の向こうには、スカランジア帝国の広大な国土が広がっている。
* * *
変わらぬ姿勢でサワムー湖に立つドレン卿。その隣に、スコールは忽然と現れた。
いつもの片眼鏡をかけて左目を隠した紳士が呟く。
「やれやれ。成り行きとは言えバネッサを敵に回すことになったか」
スコールは提げ持つバネッサの左手からブラウニーストーンをほじくり出すと、破損した左手の残骸を湖に投げ捨てた。
「奴がアークルード・ライダーとして目覚めたからには、この魔石は単なる脱け殻に違いありますまい。主の計画に障りが出なければよいのですが」
「ふむ。いくつかの修正は余儀無くされることだろう。だが、案ずるほどのことではない。真の目的は大陸の支配などではなく、その先にあるのだからな」
「そうでしたな」
「それより、グラウバーナ・ライダーだ。まさかこれほどのものとはな」
その感心したような声色に、主の弱気を疑ったスコールが窺う視線を向ける。
しかし、続いてドレン卿の口から漏れ出したのは、愉しげな笑い声だった。
「それまでろくに力のなかった者が新たに手に入れた力というものは、子供の玩具と同じなのだよ」
「は。玩具、でございますか」
「左様。使わずにはおられぬ。それも思う存分、な」
細めた右目では三ディードも離れた荒野に集う者たちを見ることができないが、それでもドレン卿の視線はそこにいるキースを真っ直ぐに突き刺しているかのようだ。
なおも暫く荒野の様子を窺った後、傅く青年の背にドレン卿が跨る。疾風と化した彼らは北へと飛び去っていった。




