嗜虐の妖女
振動が続く中、地面から複数の槍が飛び出した。
リュウはその中の一本の穂先を足場にして片足で立ち、空中で身を翻すとバネッサへと肉迫する。折り曲げた脚を絶妙なタイミングで伸ばし、顔面を捉えた。
しかし、鈍い音とともに地面に倒れたのは木片だった。リュウは慌てる様子もなく斜め後ろを睨み付け、そちらへと木片を蹴り飛ばす。
「見えているぞ、バネッサ」
人狼の動体視力と反射速度が土蜘蛛の変わり身を上回った。木片はバネッサ目がけ、正確に飛んでいく。
それを右手で無造作に払いのけると、彼女は左手の甲をこちらへ向けて艶然と微笑む。
その口から流れ出す澄んだ旋律。
動きを止めたリュウは、頭を両手で抱え込むとその場に両膝をついた。苦しげに呻く声は、獣の唸り声へと変化していく。
歌声はやがて、笑い声に変わった。
「狂戦士がいっちょまえに意志なんて持つんじゃないわよ。ほら、まずはあの金髪のお兄さんからやっちゃいなさいな」
獣の遠吠えが響き渡る。
リュウだったはずの人狼は、背後を振り向くと両目を赤く光らせた。
その視線の先には、こちらへ走ってくる金髪少年の姿があった。
「待たせたな、リュウ。——バネッサ! 俺たちはお前を止める」
迷いなく人狼へと駆け寄ったキースが声を張り上げる。
バネッサは薄笑いを浮かべて応じた。
「あぁら、勇ましいこと。お姉さん濡れちゃうわぁ」
弧を描き、剣が遠くの地面に転がる。ひどく時間が引き伸ばされたようだ。金属音が耳に届くまでに、刹那の間があった。
キースがその場に膝をついたのは、それが自分のものだと認識した後だった。見開いた目で脇腹を見下ろす。直前の怪我とは逆側に、人狼の爪が深々と突き込まれていた。
「リュウ……」
爪を抜いた人狼は、狼狽えたように後退りした。
「まぁだ理性が残ってるなんて。しぶといわねぇ」
バネッサはそう言うと、再び歌い出す。その途端、人狼は頭を抱えて呻き始めた。リュウの声と獣の声が入り混じり、一つの声帯を求めて覇権を競い合う。
「リュウ——」
「させないわよん」
ダガーを投げようとしたキースの腕が止まる。地面から突き出した槍に貫かれたのだ。地面を滑っていくダガー。その横には呪符ケースも転がっている。先ほどメリクから受け取ったものだ。それらは、人狼の足元で止まった。
「ぐ……。リュウ、オリカルクムだ。ダガーと呪符ケースで両耳を塞げ」
先ほどから断続的に地面が揺れているが、一際大きく揺れた。地面から突き出した槍が、キースの周囲を取り囲む。
「楽しいわぁ。楽しませてくれたお礼にいっぱい遊んであ・げ・る」
バネッサはキースに流し目を送ると、人狼に対して命令口調で告げる。
「ほら人狼。そのお兄さん、あんたの元上司かなんかなんでしょ。若いのに威張ってるものねぇ。早くそのナイフ拾って」
人狼は言われた通りにナイフを拾う。呪符ケースを拾う様子はない。覚束ない足取りで、槍の檻へと近寄って来る。
「立場ってものをわからせてあげなさぁい。あたしの目の前で、そのお兄さんをあちこち切り刻んで見せてぇ」
彼女がそう言って中断していた歌を再開すると、人狼は檻のすぐ横で立ち止まった。
「俺は、そんなに威張っていたか」
王子として生まれながら、兄たちと違って王侯貴族との接点は極めて少なかった。公務も少なく、学生としての立場を謳歌してきたのだ。自分は余り物。しかし、無自覚に親の威光を振りかざすことがなかったかと言うと、自信を持って否定することができない。
「リュウ。あなたにとって俺は、仕返しの牙を向けるべき相手なのか」
その言葉に人狼は反応しない。無造作に振り上げたダガーが陽光を反射して、冷たく輝いた。
* * *
エマーユが戻ったとき、ファリヤは身を起こしていた。震えるバレグの背をさすっている。
「寒いの?」
人間ほど寒暖差に頓着しないエルフではあるが、自分とほぼ同じ服装のファリヤよりもずっと厚着のバレグの方が寒がっているのは奇異に感じる。
答えないバレグの代わりにファリヤが首を振ってみせた。
バレグの口から漏れる、うわ言のような呟きが、
「僕が、殺した。ケンさんを……」
エマーユの胸を突き刺した。
赤毛の少年に正面から抱きつき、頭を撫でる。
「ごめん。頼まれたの、あたしなのに。辛い役目を押し付けちゃった」
「わっぷ! なんだこの状況」
突然叫んだバレグに肩を掴まれ、引き剥がすように押し返された。
「まだスーチェも、たぶんキースもピンチだ。ぼうっとしてる場合じゃないよね。……ってあれ、ファリヤ。気がついたの」
「え、今さら?」
ファリヤはことさら大袈裟に苦笑して見せる。会話の流れから何があったか察しているだろうに、それに触れない気遣いができるのだ。
感心したエマーユは彼女と目を合わせて軽く頷くと、バレグの目を真正面から覗き込んだ。
「バレグ、防御アイテムは残ってるわね。補助魔法かけるから、ファリヤの護衛は任せるわよ」
そう言うと、彼女は戦場を見回した。爆炎や砂埃が酷く、ここからでは状況を把握できない。本当は今すぐにでもキースのそばへ駆けつけたい。
「あたしはどう動けばいい? 指示ちょうだい」
バレグはポケットから取り出した眼鏡をかけた。どうやら〈怨恨の銅鏡〉はまだ無事だったようだ。
「かけっぱなしだと僕の魔力が枯渇しちゃうからね」
どれどれ、と声に出しながら戦場を見回す。
「敵は——。人狼の方は残り一体。炎が……、メリクさんが押してる」
スーチェの安否を尋ねようとして、やめる。〈怨恨の銅鏡〉は、限界はあるが敵を特定するためのアイテムであり、味方の状態まで識別できるわけではないのだ。
何より、一番気にしているであろうバレグがそれを言わないのだ。たぶん彼女の安否は掴めてはいない。
「バネッサの方は……、な、なにっ」
「どうしたの」
二人の少女に同時に詰め寄られて狼狽えつつ、バレグは早口に告げる。
「バネッサのそばにも人狼が!」
息を飲むファリヤとは対照的に、エマーユは落ち着いて答える。
「それ、リュウさんよ。バレグを助けてくれたの」
途端にバレグの表情が険しくなる。
「獣人現象を引き起こしても正気だったと言うこと?」
「そうだけど」
それがどうしたの、と首を傾げるエマーユに対し、バレグは焦れたように言い募る。
「エマーユはキースのもとへ、早く! リュウさんは——、人狼は信用しちゃダメだ!」
〈怨恨の銅鏡〉が特定するのは敵の所在。それは、かつてリュウだった人狼を明確な敵だと認識している。
「キースっ!」
叫ぶが早いか駆け出して行くエルフの少女。
「兄様は無事なの……?」
「うん、エマーユがついてるから」
そう言って微笑んだあと、バレグはもう一度バネッサの戦場へ目を凝らす。
「うわあっ」
鮮烈な炎が輝き、バレグだけでなくファリヤも目を開けていられなくなった。




