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巨人の飛翔

 戦場となっている荒野から離れること約三ディード。銀髪の紳士が一人、サワムー湖の水面上に直立していた。ドレン卿である。

 無人の湖面で誰憚ることなく片眼鏡を外し、右目はブラウン、左目は淡く発光するブルーというオッドアイの素顔を露わにした。

「バネッサめ、好きにやっておるわ。わかっているのか。写本が燃えたら褒美はお預けだというのに」

 並の人間ならば肉眼で見える距離ではない。しかしドレン卿は、まるでその場にいるかのように戦況を観察しているのだ。

「主。回収して参りました」

 ドレン卿の隣から男の声がした。黒い靄が狼の形に凝集し、すぐに人の形へと変わる。やがて人狼がその姿を現し、ドレン卿同様湖面に立つ。さらに狼の頭部は見る間に変化して、グレーの髪と虹彩の反転した目を持つ長身の青年となった。

「ご苦労、スコール」

「爆死させるには惜しい、美味そうな少女でしたがね」

 ワーウルフは生来自制とは無縁の魔族。その自分が言いつけに従い女に手を出さなかった。

 言外に忠誠心を主張する使い魔だったが、それにはろくに関心を示すことなくドレン卿は告げる。

「バネッサには殺し方にこだわりがあるようなのでな。下手に干渉したらヘソを曲げられる。これも奴との契約のうちだ」

 ところで、と一切間を開けることなく言葉を続ける。

「ここからだとゴーレムが邪魔でよく見えぬ。貴様の相棒の首尾はどうか」

 そう訊きながら、ドレン卿は差し出された写本を懐に収めた。

「ハーディには物足りないようですが、そこそこ楽しんでおるようです」

 ふむ、と生返事をすると、初めて青年に顔を向ける。

「当初の目的は果たした。バネッサにはまだ利用価値がある。貴様は引き続き監視。あの女以外は死のうが逃げようが知ったことではない。だが、万が一あの魔族ハーフが調子に乗り、自滅でもしそうになれば、その時は」

 戦場に向き直って命令をくだす。

「引き摺ってでも連れ戻せ。最悪の場合はブラウニーストーンだけでもだ。よいな、スコール」

「はっ」

 次の瞬間、青年は黒い靄に姿を変え、荒野へと飛び去っていった。

 それを見送り、いつもの片眼鏡をかけようとして、ふとその手を止める。目を細め、口の端を歪めた。

「ほう、あの少年……。しぶといな。おや、金髪だったのか」

 眇めた目に猛禽の鋭さを宿し、声を立てて笑い出す。

「なるほど、そういうことか。これはまだ目が離せぬ」


*          *          *


 ゴーレムが雄叫びを上げる。

 その腹の中、泣き疲れてぐったりと首を垂れたファリヤは、かすれた声でひとりごちた。

「爆発まで、せいぜいあと一分ほどね。兄様、ファリヤもすぐに後を追います」

 いきなり視界が揺れた。刹那の振動がおさまると、先ほどまでと比べて地面が近くに見える。

「な……、なに」

 放心ぎみだったにもかかわらず目を見開く。どうやら、巨人が膝を折って身を屈めたようだ。

 なんなの、と呟く声は轟音にかき消された。その音は、彼女の知識にある中では台風のそれに近い。

 巻き起こる砂埃は開けっ放しの巨人の腹部に入り込むことなく、むしろ遠ざかるようにして立ち上る。まるで巨人が台風の発生源であるかのように。

 数秒後、再び地面が遠のいた。もとの高さをあっさりと超え、さらに地面が遠くなる。

「ま、まさか」

 巨人の身体が空中に浮き上がっていく。

「きゃああああ」

 腹を下に向けた。地面が真下に見える。視覚的な恐怖は絶大だ。その一瞬、間近に迫る爆死のことさえ頭から飛んだ。

 飛んでいるのだ。巨人が、空を。

 だが、すぐに頭が冷える。

「兄様。最期はおそばで逝きたかった……」

「縁起でもない」

「ひゃあっ」

 間近から兄の声。幻聴ではない。兄の声を聞き紛うわけがない。

「兄様っ」

 弾んだ声を上げる。

 そこへ、黒髪かつらが飛んでしまったか、いつもの金髪に戻ったキースが乗り込んで来た。彼女の目の前で爆炎に呑み込まれたのは確実だ。それなのに火傷はおろか、着衣に焦げ跡の一つも見当たらない。ただ、脇腹に染み込んだ血痕が痛々しく、ファリヤは愁眉を曇らせる。

「蜘蛛糸がなかったらこうしてへばりつくこともできないところだぜ」

 その言葉にはっとして、ファリヤは早口の懇願口調で告げる。

「兄様、爆発まであと十秒あるかどうかです、お逃げください、お願いっ」

 蜘蛛糸というのが何のことかはわからないが、兄があのお婆さんのような体術を身につけているのは確実。その蜘蛛糸とやらを使えば、兄だけなら逃げられるのではないだろうか。

 そう思って一気にまくし立てた後、口を噤み目を見開く。キースの目が光り出したのだ。しかもいつもの青色でさえない。燃えるように鮮やかなオレンジ色である。

「グラウバーナ・ライダーの名において命ずる。炎龍の眷属よ、我が糧となれ」

 それは呪文だろうか。彼の声に呼応するように、ファリヤの手足に嵌められた〈炎竜の枷〉が光り出す。

「嘘。いまは〈幼竜の魔笛〉の影響下で、バネッサの操作だけしか受け付けないはずなのに……」

 やや遅れて、ファリヤの胸部も光り出す。そこにはたしか、お婆さんの紙片を隠しておいたはずだ。

 そこでようやくファリヤは、現在の自分の格好を意識した。またしても爆死の恐怖が飛んでしまう。

「や、あの、兄様。あ、あんまり見ないで……」

「大丈夫、見慣れてる」

「な、何を仰るの——」

 唐突な浮遊感に言葉を呑み込む。

 戒めが解かれているのだ。いつの間に。

「きゃ」

 ばさりとはためく絹の感触。視界を覆うは巨人の腹部。今ファリヤは、背を地面に向けた姿勢に入れ替わっている。

「はぅ、キース兄様……っ」

 脇と膝裏を軽々と支えられ、息のかかる距離にキースの顔がある。たとえ半裸であっても、いや、そうだからこそ余計に。ファリヤの顔は火照り、ろくに目を合わせることさえ叶わない。

 所在なげに彷徨う視線は自らの服に落ち着き、浮かぶ疑問がそのまま声となって漏れた。

「ええっ」

「な。見慣れたエマーユの服にそっくりだろ。着衣に変化する呪符があったことにも驚かされたが、まさかそれをファリヤが持っていたとはな」

「っ……、そんなことより! 爆発がっ」

 おかしい。時間はとっくに過ぎているはずだ。

「もう大丈夫だ。あのアイテムは俺の力に変わった。炎竜は俺の眷属だ」

 ファリヤは首を傾げた。兄が何を言っているのかわからない。しかし、手足の枷が消失したのは事実であり、ひとまず安心なのは間違いない。

「じゃ、早くメリクさんたちと合流しなきゃ」

「ああ、だがこのゴーレムをなんとかしないとな。エマーユの結界だけではいつまでも保たない。おっと、その前にファリヤ。寒くないか」

「え、いいえ。そう言えば全然」

 問われ、彼女は不思議がる。服が変わったとは言え、手足は剥き出しのままだ。それなのに全く寒さを感じない。

「よかった。多分グラウバーナは魔石ではなく、俺の血なんだろう。傷口から感じる痛みなんか吹き飛ぶくらいに熱を感じるぜ」

「兄様! それって危ないのではっ」

「擦り傷だ、ツバつけときゃ治る。それよりゴーレムだ。こいつが地上に降りる前に行動を起こす。その間、お前を蜘蛛糸で俺の背に括り付けるが……。我慢してくれな」

「は、はいぃ」

 間近で囁かれ、ファリヤに否やはない。消え入りそうな声でそう返事をするのがやっとだった。

 負ぶさり、蜘蛛糸できつく締め付けられる。きつくないか、との兄の問いに対し、嬉し恥ずかしいです、などと噛み合わない返事をしてしまった気がするが、よく覚えていない。

「そう言えば、このデカブツ。一体どこに向かって飛んでいやがる。なかなかエマーユたちのところに着かないじゃないか」

 キースがそう言った途端、彼らの身体は腹部室内の一方へと押し付けられた。

 巨人が咆哮を轟かせる。

 どうやら錐揉み回転を始めたらしい。

 ファリヤの絶叫はほどなくおさまる。意識を手放してしまったのだ。

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