人狼の余裕
メリクからの指示に従い、バレグは〈怨恨の銅鏡〉をエマーユに手渡した。
「それで人狼どもを見て。何かわかったら教えて」
言われた通りにしたエマーユは暫く後方を注視する。
「エマーユ、結界! 〇時」
「しまっ……! きゃ、ああああっ」
真紅に染まる視界の中、彼女の絶叫は馬の嘶きにかき消された。
咄嗟の防御は、馬車を守るのが精一杯だったのだ。エマーユの頬を涙が伝う。
一人乗りの馬たちは馬車側面に控えていたため無事だったが、ここまで馬車をひいてきた二頭の馬たちは——。
「どうしよう、バレグ。あたし、護りきれなかった……」
彼はエルフの少女を抱き寄せ、髪を撫でる。
「エマーユはよくやってる。頼りすぎてごめん。今この瞬間だけ、僕がキースの代役な。……ちんちくりんな代役でごめん」
「バレグったら。二回も謝ってる」
くすっ、と笑みを零す彼女の様子に安心して身体を離し、眼鏡を返してもらう。
「あれ」
彼は眼鏡をかけたり外したりしてエマーユを見ては、首を傾げる。
彼女も首を傾げたものの、それどころではないとばかりに涙を拭う。
「後ろの人狼たち! 四人は身体の内側からどす黒い魔力に冒されているわっ。多分、もと人間よ」
バレグでは読み取れなかった情報まで知覚できたのは、彼女が魔族として強大な魔力を備えているためだ。だが、僅かなこととは言え防御と牽制以外のことに彼女の魔力を割くのは得策ではない。
眼鏡を掛け直しつつ、バレグは質問した。
「四人? じゃ、残りの一人は」
「魔族ね。多分、オリジナルのワーウルフだわ」
ゴーレムと戦闘中のメリクに気を遣いつつ、彼は会話の内容を簡潔に伝えた。返事はすぐだった。
(やはり。敵の人数が増えていたからな。オリジナルの奴は多分、事前の索敵に引っかかっていない)
ゾッとした。バネッサが伏兵を用意していたこともあるが、それ以上に——。
「あいつ、土蜘蛛を消耗品としか考えていない……っ!」
(その四人は多分……、いや何でもない)
メリクが言い淀む。バレグが聞き返すより早く次の連絡がきた。
(すまん。隠し事している場合じゃないな。その四人は〈人狼の狂戦士〉、オリジナルの人狼に噛まれて正気をなくした者たちだ。死ぬまで戦うことしか考えられない状態にある)
「それじゃ、死なない限り戦い続けるってこと?」
(そうだ。……すまん、暫く会話は無理だ。ベルヴェルクと合流し、彼をサポートしろ)
「くそっ!」
バレグは後方を睨みつけると声を張り上げる。
「ベルヴェルク! 中央最後尾がオリジナルの人狼、要注意っ」
「あたしたちは」
「後ろの戦線を支える。馬車を降りるよ」
そんなことをしたら馬たちが、と難色を示すエマーユだったが、バレグは首を横に振る。
「エマーユの結界をもってしても、ゴーレムの光線を凌げるのは最大であと四回。それに僕らが離れれば、馬車を狙う意味はなくなる」
それならキースの加勢に、と言いかけてやめた。バレグの表情から、彼も同じ気持ちだと気付いたようだ。
だがバレグはそれには触れない。言葉にしてしまえば、親友の方へと足を向けてしまいそうだからだ。
「建国の当時から、人狼はアーカンドルの宿敵だ。出会ったからには殲滅する。だから僕も——、戦う!」
そう言ってバレグは、懐から呪符ケースを取り出した。
キースは呪符の使い方について、ごく初歩的なものしか学ばなかった。炎の才能が目覚めたためだ。今のところ、呪符の成功率も炎の能力の成功率も大差ないため、彼は自身の能力に賭けたのである。そこで、彼の呪符ケースはバレグが携行することにしたのだ。
「この中には僕にも扱える短冊状のマジックアイテムが少々。他に奥の手も用意したんだ。だから」
先に降りたバレグは、必要ないと知りつつも、後から降りてくるエマーユのために手を差し出す。
「彼女を最優先に守ってやって。……剣だけを頼りに戦ってるスーチェを」
彼の手を取り降り立ったエマーユは、花が咲くような笑みを浮かべる。
「わかったわ」
駆け出すバレグの耳には届かなかったが、エマーユは言葉を続けた。
「決まってるじゃない。二人とも護るわよ」
彼女も駆け出した。戦闘中のキースを気にしてゴーレムをちらりと一瞥するが、今は目の前の敵に集中する。
魔力弾を連射し、リュウの背後を狙う人狼を吹き飛ばす。さすがに頑丈だ、敵は首を軽く振っただけですぐに立ち上がる。彼女は走る速度を上げた。
「待っててね、キース」
地面が近付く。
「……あれ」
足を踏み出し、転倒を避ける。首を振り、すぐにまた駆け出す。これは眩暈だろうか。いや、魔力はまだ充分に残っている。
「きっと、さっき眼鏡をかけたせいね」
そう結論を付け、再び魔力弾を撃ち出した。
バレグが駆けつけたとき、ケンが人狼に押し込まれているところだった。しかし流石は歴戦の警護隊員、怪物の隙を見て反撃に転じる。
「ぬん」
相手の腹を蹴り、バスタードソードを振り下ろす。
血飛沫が飛び散り、人狼の右腕が地面に落ちた。
唐突に疾風が起こった。ケンの周囲に砂塵が舞う。
「ぐあっ」
怪物の爪がケンの背を抉る。軽装鎧が裂け、服の背が血を吸って赤く染まっていく。
疾風の正体は別の人狼だった。あまりの速さに、離れた位置から見ているバレグにも敵の動きが掴めなかった。
腕を斬られた方の人狼が牙を剥き、手負いの荒々しさをぎらつく目に宿して正面から迫る。
二対一。しかも見た目、ケンの負傷は浅くはない。彼らの間合いぎりぎりまで接近し、バレグが叫ぶ。
「闇を祓うは神威の灯火!」
ケースから取り出した短冊状マジックアイテム〈黄竜の灯篭〉を投げつける。複数の爆ぜる球体と化したそれは、数発ずつケンの前後を挟む人狼に命中し、怪物どもを怯ませる。
「もらったっ!」
陽光を反射する太刀筋が残像を引いた。振り抜いたバスタードソードの向こうへと、赤い線が続く。
人狼の身体は音を立てて前のめりに倒れ、その脇に首が落ちた。
「ケン、後ろっ」
バレグの声は最早悲鳴と呼ぶべき叫びであった。叫んだときにはすでに遅い。
伸びきったケンの脇腹に深々と爪が突き込まれている。
「ケン! あああああーっ」
エマーユの光弾が着弾するも、高揚する人狼は防御力が増してでもいるのか小揺るぎもしない。
そして、口を大きく広げる。そのまま、太い牙をケンの首筋に突き刺した。
獣の咆哮がケンの口から轟く。
「ケンさん……っ!」
マジックアイテムを出そうとするバレグの方を向き、ケンが吠えた。
「来るな! 離れろ! 俺様の見せ場だ」
そう言って、彼は震える手で懐から瓶を取り出した。それを見て自らの懐を探るバレグ。
「そ、それは僕の切り札」
何冊も読み漁った錬金術の書籍の中から真実と思しき部分のみを繋ぎ合わせ、ベルヴェルクが持っていた爆薬を独自に改良したものだ。
「へっへ、すまんな。こういうのを小僧に扱わせるのはやばすぎると思ったんでな」
ケンは蒼白な顔色をしながらも、悪戯な少年のように笑って見せる。次に彼は、自分を噛んだ人狼に抱きつくようにしてがっちりと締め付けた。
もがく人狼が鋭い爪を備えた手でケンを繰り返し殴りつける。その度に肉が抉れ血が滴るが、ケンの力は緩まない。大声で叫ぶ。
「エマーユ! この瓶を! 撃ち抜けえぇ」
「ケンさん、だめっ! あたしが治癒魔法かけてあげるから、そいつから離れてっ」
「だめだ、俺は噛まれた! 今もどんどん正気がなくなっていく。俺に名誉を! 早くっ」
叫んでいる間にも、ケンの背と脇腹の傷が塞がってゆく。新たに付けられた傷でさえ、順に塞がってゆく。顔に毛が生え、骨格がゆっくりと狼のそれに変わろうとしている。
「俺が俺であるうちにっ」
だがエマーユは顔を両手で覆ってしまい、とても魔力弾を撃てそうな状態ではない。
「ケンさん、僕がやる」
決然と顔を上げ、呪文を詠唱する。
「闇を祓うは神威の灯火」
至近距離から狙撃したバレグの魔法は、正確に瓶を撃ち抜いた。
荒野に鮮烈な爆炎の花が咲く。
強烈な爆発が巻き起こり、火炎の渦はバレグをも飲み込んでしまう。
視界いっぱいに広がるオレンジ色の渦を前にして、赤毛の少年は「改良は成功だ。でも逃げ遅れちゃったな」と他人事のように感じていた。
「エマーユ! 何をするっ」
他の人狼どもと剣を交えていた三人が異口同音に叫んだ。
森の民エルフ族は炎が弱点であるはずだ。それなのに駆け寄ったエマーユは、一切の迷いなく爆炎の中に飛び込んでしまったのだ。
「バレグ! エマーユ!」
そちらに首を向けたスーチェへと、人狼の爪が迫る。
高い金属音。人狼の爪はスーチェを捉えることなく、手裏剣に阻まれた。
正面の敵にクレイモアの切っ先を向けたまま、ベルヴェルクが手裏剣で援護したのだ。
「おーお。余裕かましてやがるなあ、この俺を相手にしてよお」
喋ったのは、ベルヴェルクが相手をしている人狼である。それがオリジナルのワーウルフなのだろう。
そちらに刃よりも鋭い視線を据え、低い声でベルヴェルクが告げる。
「貴様が本気でないからだ。この私を相手にしておいて遊びで済むかどうか、試してみるか」
これを聞き、喋る人狼は口を開け、両目を左右非対称に眇めて見せた。やがて大声で笑い出す。
「おうお前ら。第二ラウンドの前に小休止だ。待て待て、すーぐ全力で戦わせてやっから。慌てんじゃねえよ」
どうやら狂戦士たちは、正気をなくした後もオリジナルの命令を聞くようだ。唸り声を上げつつも、一応は大人しくなった。
笑いの衝動を抑えた後も、オリジナルは愉しげな様子でベルヴェルクに告げる。
「でけえ口を叩くじゃねえか人間風情が。こっちは俺を含めて三人いるぜ。お前らも同数ではハンデにならねえだろ。助けてやるから全員で来なよ」
鋭い爪を備えた手で、人狼は器用にもぱちんと指を鳴らす。すると、あろうことか炎はたちどころに消えてしまった。
「ほう、フレイムエルフときたか。珍しいやつもいたもんだ」
「あれが……エマーユ?」
赤毛の少年を支えて立つ少女がそこにいた。バレグの目は半開きで、顔や服が煤けているが、ひとまずは無事のようだ。
一方、エマーユは着ている服も目の色も元のままだ。服に目立った損傷がないばかりか、剥き出しの手足にさえ火傷跡の一つも見当たらない。
だがその容姿はと言えば。特徴的な尖った耳は、人間のそれと同様の形へと変化している。彼女の長い髪は今、黄緑色ではない。鮮やかなオレンジ色に輝いているのだった。




