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雪山の二人

 森の木々に囲まれた遺跡は、建造物としての外見を保ってはいなかった。内部に入る事は可能だが、自然の洞窟だと言われたら納得できそうなほど、周囲の景色に溶け込んでいる。場所柄、魔物や冬眠中の獣などが棲んでいてもおかしくはない。調査中、それらに出くわさずに済んだのは、エルフ族がこの一帯を管理しているからなのだろう。おかげでカーム率いる調査隊一行は、非常に効率よく当初の目的を完遂した。

 彼らが遺跡から出て来たのは、正午をわずかばかり過ぎた時間だった。

「既知のものから未知のものまで、想像以上のアイテムがありましたね」

 メリクは物静かな口調ながら、その黒瞳に仄かな興奮の色を灯している。彼に振り向いたカームはと言うと、はっきりと瞳を輝かせ、頬が上気するほどの興奮ぶりだ。

「そうだ、帰る前に長老にご挨拶せねば。長老ならば、この中の幾つかはご存知かも知れん」

「お目通りが叶えば、ですけれどね」

「ふむ。もし会えなくとも、何らかの形でお礼を伝えねばな。……ああ、それにしても! 学園に戻ってからの研究が楽しみだ」

 学者たちの意識は、すでに学園での研究へと飛んでいる。しかし、それに水を差すような鋭い声が飛んだ。

 声の主は彼らの護衛——王室警護隊のケンだった。

「何事ですか」

 カームの視線を真正面から受け止めると、ケンは地面を指し示しつつ深刻な表情で告げた。

「ご覧ください」

「こ、これは!」

 雪上の落とし物。それを見て目を剥くカームの横から、メリクが手を伸ばした。

「投擲用のダガーですか。ちょっと失礼、拝見します」

 柄の部分を眺めた彼は、その途端に息を飲んだ。声も出ない様子で、ダガーを持つ手を震わせる。どうやら寒いのではなく、相当な力で握りしめているようだ。

「どうしたんですかぁ」

 暢気に訊ねるバレグに、大人たちは反応しない。見かねたように若い護衛のリュウが答えた。

「柄の部分に、我が国の王家の紋章が彫られているのだ」

 ペガサラス――伝説の聖獣。大陸に存在する宗教のほとんどが異口同音に伝えるところによると、それは羽を持つ馬であり、神々と共にこの世界の誕生に立ち会ったという――、その羽を象った紋章が、ダガーの柄に刻まれている。

 ケンはメリクからダガーを受け取ると、一同に向けて告げた。

「これは第四王子、キース殿下のものです」

「な、なんだってー!?」

 バレグは素っ頓狂な声をはりあげた。興奮のあまり、握り拳をあごのすぐ下に添えて背伸びをするような格好をしている。

 バレグとキースは幼馴染みだ。共に十七歳、リンベール学園の同級生である。

「ぶぶぶぶぶじぶじ無事なんですかー」

 そんなバレグの肩に手を置くと、メリクは穏やかに声をかけた。

「落ち着くんだ。単にダガーが落ちていただけだ。まだ殿下の御身に何かあったと決めつけるのは早い」

 その言葉の信憑性を、大人たちの態度が裏切っている。彼はケンに駆け寄ると、ダガーを覗き込んだ。その顔が見る見る青ざめていく。

「切っ先が、欠けてる……!」

 アーカンドルの王子キースがエルフの少女と仲良くしているのは公然の秘密だ。彼がこの場所にいたのはほぼ確実。その上、切っ先の欠けたダガーナイフが落ちていたのだ。何事もなかったと考える方が無理がある。

「一刻も早く国王に知らせねば」

 カームはそう言うと、口笛を吹いた。

 数秒の後、木の枝が揺れ、鳥の羽音がする。バレグが見上げると、白梟がこちらを目がけて飛び降りてきた。声を上げて尻餅をつく少年に構うことなく、梟はカームの肩に止まって大人しく羽を畳む。

 書簡をしたためたメリクは、それをケンとカームに読ませ、サインをもらった上で梟の足に結びつけた。

「今日は移動系のマジックアイテムを用意してないからな。こいつに頼るのが一番速い」

 飛び去る白梟に向け、頼んだぞと呟く先生の背中に、バレグが声をかけた。

「あっ、あの! 遺跡で見つけたアイテムの中に有りませんかね? キース……殿下の場所を見つけたり、移動したりできるやつ」

「残念だが、ないな。少なくとも、魔法効果と発動呪文が両方とも判っているアイテムの中には」

 答えるカームの声は口惜しげだ。

 ケンは傍らに立つリュウに目配せすると、場の全員に向けて告げた。

「しばらく、この場でお待ちください」

 訝る顔を向け、視線で問うカーム。彼に答えたのはリュウだ。

「後ろからついてきている連中が、何か知っているかもしれません。ひっ捕らえて締め上げます」

 言うが早いか戦士たちは駆け去っていった。


 若いリュウの方が足が速い。ケンは彼の背中を追う形となった。ぐんぐん離れていくその背中は、頼もしさと同時に危うさをも感じさせる。

 目的の連中はすぐに見つかった。奴らはこちらの様子に気付くや否や、踵を返して逃げ始める。リュウはさらに速度を上げた。

「足下に気をつけろ! ……くそ」

 声が届かない。

 狡猾な盗掘者なら、安全に逃げるために罠の一つくらい用意しているに違いない。リュウは若くしていくつもの実戦をこなしてはいるが、それらはあくまで軍人としての実戦だ。

 傭兵経験を持つ叩き上げのケンは、山賊や異教の過激派、盗賊ギルドの用心棒など癖のある連中と戦ってきた。だが最初から正規軍の軍人だったリュウの場合、正面から戦うのは得意だが、搦め手を好むような連中との戦闘経験は白紙に近い。

 もちろん、連中が盗掘者だと決まったわけではない。また、連中がキース王子の件と関わりがある可能性も、こちらが勝手に想像しているだけだ。しかし、どうやらリュウは後者の可能性で頭が一杯になっており、前者については考えていないようだ。

 先に行かせたのはまずかったか。

 ケンは懐から球体を取り出した。マジックアイテム〈火蜘蛛の群れ〉。その効果は魔法生物を呼び出す召喚魔法だ。体長一メートルに達する数匹の蜘蛛が炎を吐く。炎は紡がれた蜘蛛糸状に広がり、召喚者が敵と定めた相手を取り囲む。いわゆる足止め魔法である。

「出でよ、サラマンチュラ!」

 彼の呪文とタイミングを同じくして、高い笛の音が響き渡る。前方に目を遣ると、笛を吹いているのは盗掘者の片割れだった。

「魔法が発現しない、だと? ……くっ、そういうことか」

 口惜しげに吐き捨て、走る足に力を込める。盗掘者が吹いた笛はおそらく〈幼竜の魔笛〉。呪文を必要とせず、それ自体が奏でる音を発動条件とするマジックアイテムだ。音が届く範囲に存在するマジックアイテムは、魔法効果を無効化されてしまう。

「うおあっ!」

 リュウの叫び声。足首に巻き付いた縄が、彼の身体を真っ逆さまに吊り上げたのだ。縄の逆側の端は、木の枝の高い場所に括り付けられている。

「はっはー! 間抜けなお仲間で残念だったな、兄さんよお」

 盗掘者たちは立ち止まっており、片割れが楽しげに声をかけてきた。もう一人はというと、弓に矢をつがえ、リュウに狙いを定めている。

「どうするよ。こんな盗掘者風情に殺られるのは嫌だろ。武器とマジックアイテムを置いてけば、命まではとらねえぜ」

 その言葉を聞いても、ケンは黙って首をすくめるだけだった。

「おいおい兄さん、そりゃ何の真似だあ?」

 盗掘者の言葉と同時に、彼らの頭上を緑色の光弾が通過した。光弾はリュウの縄を撃ち抜き、彼の拘束を解いた。空中で身体を捻ったリュウは見事に足から着地する。

 光弾の発射元は盗掘者どもの背後。そこには、数人の若者が立っていた。彼らはいずれも肩と膝を露出した布しか着ていない。緑の髪、緑の目。それに加えて尖った耳を見れば、その正体は明らかだった。

 彼ら——エルフ族の若者たちに剣を突きつけられ、その場に武器を置く羽目になったのは盗掘者たちの方だった。


「ご協力に感謝します。しかし、まさか森の民のみなさんにご協力いただけるとは」

 カームは、エルフの若者たちに丁寧に礼を言った。

「長老の意向だ、礼には及ばぬ」

 若者の中で年嵩の青年が、抑揚のない口調で短く答える。

 彼らの後ろでは、盗掘者たちによる赦しを乞う情けない声が聞こえてくる。それは途中から言い訳に転じた。

「だーかーらー。俺たちゃ、あんたたち学者先生が持ち出したものの中から、ちょっとだけお裾分けしてもらえないかと交渉するだけのつもりだったんですよぅ」

「それが証拠に、盗掘用の装備なんて持ってないでしょう」

 盗掘者たちが一生懸命訴える。

「この私を逆さ吊りにしておいて、どの口が言うか」

 リュウに剣の柄で小突かれ、恨めしそうに黙る二人。

「この寒いのに、盗掘の装備も持たず冬山登山か。普段は結界が張られているユージュの森だ。誰も通らない場所で待ち伏せする間抜けはいないだろう」

 リュウの横に歩いてきたメリクが、腕組みをして温度の感じられない声を放つ。

「我々がこの道を、それも今日通ることを知っていたとしか思えませんね」

「それはたまたま——」

「誰に聞いたっ!」

 盗掘者の言葉を遮り、リュウが凄む。

「ひっ! えと、あの、全身黒ずくめの——」

「なにぃっ」

 逆さ吊りにされたことで相当頭に来ているのか、またしてもリュウが凄む。

「ひぃっ! 嘘じゃないですってば」

 その時、声が上から降ってきた。

「さよう、土蜘蛛じゃな」

「ひいぃっ!」

 エルフ族を除く全員がのけぞった。

「驚かせたことは詫びよう。なにせ、今のわしはご覧の通りただの木。人間と言葉を交わすにはそれなりの準備が必要でな……。こうして声をかけるのが遅くなってしまった」

 歳古りた威厳ある声。森の民の長老であるグリズが沈黙を破ったのだ。

「連れ去ったのは覆面の三人組だ。魔法で移動しおった。……しかし、われらの仲間エマーユも一緒だ。きっとキースどのをお守りすることだろう」

「なんですって? エマーユが」

 これにはエルフ族の若者たちが驚いた。

「心配は要らぬ。あのふたりが一緒におれば、大抵の困難には対応できる」

 その場の者で、いち早く冷静さをとり戻したのはカームだった。

「ご長老、土蜘蛛というのは――」

「知らぬか。学者ともあろうお方が」

「恥ずかしながら」

 バレグが話に割り込んだ。

「土蜘蛛ってなんですかー。キースはどこに連れて行かれたんですかぁ?」

「その昔、他に類を見ない面妖な魔法を使いこなす人間の集団がいた。闇に紛れての闘いを得意とし、マジックアイテムを自作する技術をも持っていたという。それが土蜘蛛一族だ。風の噂で、絶滅したと聞いていたのだがな」

 ケンが呻くように言う。

「魔法で移動と仰いましたよね。移動先を知る手段はないでしょうか」

 これに対し、グリズは即答で否定し、他の者は沈黙をもって否定の意を示した。

 黒ずくめに関する情報を得ようと、リュウは再び盗掘者どもへの尋問を始めた。だが、どうやら何も知らないようだ。

「他人を信用しない盗掘者が、他人から聞いた情報を裏も取らずに行動するというのは不自然ですね」

 腕組みをして尋問の様子を眺めるメリクに不穏な空気を感じ取り、盗掘者は慌てて言い募る。

「そんな! 俺たち本当のことしか言ってないって」

「そろそろ、白梟が国王陛下の元に到着する頃ですね」

 メリクは盗掘者にとりあわず、王城の方角に目を向けて呟く。

「この場所ではこれ以上の進展はないでしょう。この人達が知ってることも知らないことも、王国に戻ってから調べるしかないですね」

 その言葉に、盗掘者たちは肩を落としてぐったりと項垂れた。


*          *          *


 エマーユは背中ごしにキースの鼓動を感じていた――とても落ち着いている。

 キースは人間にしては寒さに対して異常に強いが、さすがにエルフ族のような薄着ではなく冬山登山用に厚着をしている。そのため、こうして背中を合わせていても体温まで感じることはできない。

 あのときのピンチに比べたら、こんなものなんでもない……。

 今のところ、周囲に覆面男たちの気配はない。エマーユは束の間の回想に浸った。




 あの日も冬だった。

 エマーユが七歳になって間もない日。たまたまひとりで遊んでいた彼女は、森の中を見慣れない男の子が歩いているのを見つけた。

 同じく七歳のキースが、ひとりで山をのぼり、森の入口まで入ってきたのだ。

 ずっと森の中で暮らしていたエマーユには、同い年の女の子の友達はいたが、男の子の友達は上も下も二つ以上離れていた。

 九歳ともなれば男の子は荒っぽい遊びを好むのでついて行けないし、五歳の子が相手ではエマーユの方が物足りない。

 遊び足りない彼女は、知らないうちに自分たちの結界の外まで来てしまったのだ。

 そんなエマーユの目の前に、ちょうど同じくらいの年格好の男の子が現れた。

 仲間たちはみんな、緑の髪と緑の目をしている。だが、今彼女の視界の中心を歩いているのは金髪碧眼の男の子。話しかけたい。声を聞きたい。

 だから彼女は、キースの周囲に大人がいないことに何の疑問も持たず、彼の目の前に飛び出していった。

「こんにちはっ! あたし森の民のエマーユ。よろしく!」

 まずは挨拶。エマーユは七歳になったのだ。礼儀だって心得ている。

「あなた人間? 耳、尖ってないものね」

「わわっ! あ……」

 男の子はびっくりして、寒さで赤くなっていた頬をさらに赤くした。

「うん。ぼくはキース! よろしく、エマーユ」

 幼いふたりが仲良くなるのに、それ以上の言葉は必要なかった。

 エマーユにとってはあとで知ったことだが、キースには兄が三人、妹が一人いる。しかし、キースだけは他の兄弟と母親が違うのだ。

 しかも、キースの出産は難産で、キースの母親――王の第二夫人は出産と同時に亡くなったという。

 長兄は、キースが七歳のときにはすでに一五歳で、皇太子としての落ち着いた物腰を身につけつつあり、母親の違うキースにも他の兄弟と分け隔てなく接してくれた。

 しかし、当時一二歳と一〇歳の兄はちょうどいたずら盛りで、長兄の目が届かないところでは、しばしばふたりがかりでキースをからかった。

 この日のキースはたまった鬱憤を爆発させ、二人の兄を殴って家出してきたのである。

 七歳の子どもにとってはきつい山道のはずだった。しかし、キースはそれをものともせずに登ってしまった。兄に仲間はずれにされていたキースには貴族よりも平民の友達が多く、七歳にしてすでに貴族の子どもに似合わぬ体力を身につけていたのだ。

 しかも、麓から森の入口まで大人の足で三時間のところを二時間半で登ったのである。

 長時間の山登りは、キースの気分をすっかり紛らせた。この時のキースは、王や王妃、長兄や侍従にどれほど心配をかけているかということに気が回らず、とにかく厚着はしてきたものの、水筒以外はろくに持ち物も用意せずに城を飛び出してきたのだ。

 大真面目に、森でしばらく寝泊りするつもりでいたのだ。

 このときの二人は、そんな事情を語り合うこともせず。キースとエマーユ、遊ぶことしばし。

 何の前触れもなく、幼い二人のすぐそばで獣のような咆吼がとどろいた。

「ウォーガ⁉︎」

 ウォーガとは食人族である。遠目には筋骨逞しい人間に見えなくもないが、人間やエルフの成人男性の一・五倍もの背丈を誇る怪物だ。手には棍棒を持ち、全身毛むくじゃらで粗末な腰布のみを身に着け、耳まで避けた口から鋭い牙をのぞかせている。そんな怪物がダラダラと涎を垂らして幼い二人を凝視しているのだ。

 その距離、わずか一〇アード。

 彼らは普段、もっとずっと山奥でフォブロルなどの小動物を食べて生きている。しかし今日はたまたま餌にありつけなかったのか、森の入口まで降りてきていたらしい。

 普段のエマーユならば、ウォーガがいくら足音を忍ばせたところで雪を踏む音を聞き逃すことはない。

 しかし、今日は新しい友達と夢中で遊んでいたためか、うっかり接近を許してしまった。

 獲物を値踏みするように舌なめずりしているウォーガを見て、キースとエマーユはその場に凍り付いていた。

 ——いけない! 逃げなきゃ!

 先に我に返ったキースは、震える膝に無理やり力を込め、エマーユの手を握る。

 怯える獲物の様子を見て楽しんでいるかのように、ウォーガは鋭い歯を見せつけるように剥いてガチガチと噛み鳴らす。

「逃げ……逃げなきゃ」

 そう呟くキースの震えが、繋いだ手を通してエマーユに伝わる。彼女自身も同じくらい震えていた。

「ま、魔法で……っ!」

 幼いエマーユでも、人間はマジックアイテムなしでは魔法を使えないことを知っている。

 道具なしで魔法を使えるエルフ族にしたところで、エマーユの年齢ではまだ覚えたての魔法がいくつか使えるに過ぎない。それでも。

「あたしが守らなきゃ」

 決意を口にする彼女の横顔を、キースは大きく見開いた目で見つめた。

「こっちにこないでぇっ!」

 彼女の叫びとともにウォーガの足元の雪が割れ、地面から何本もの草が伸びる。

 草はウォーガの膝から腿にかけて巻き付いた。

「今よ! 逃げるわよっ!」

 エマーユはキースの手を引き、森の奥を目指して走った。結界にさえ飛び込めば、ウォーガはすぐにこちらを見失うだろう。

 だが、稼げた距離はわずか数歩。

 あっさりと草の戒めを引きちぎり、ウォーガが追ってくる。

 圧倒的なスピードで追ってくる!

 雪のクッション越しに、重たい音が地面に響く。

 ウォーガが棍棒を振り下ろしてきたのだ。すでに追いつかれつつある。

「きゃあぁっ!」

 キースがエマーユを抱き上げて走り始めた。別々に走っていたときより、なぜか速度が増している。

「ちょ、ちょっとっ」

 いきなり抱き上げられてもがくエマーユの視界に、再び振り上げた棍棒をいままさに振り下ろさんとしているウォーガの姿が飛び込んできた。

「左っ! 左によけてーっ!」

 どうして責めることができようか。ウォーガはエマーユから見て右側に棍棒を振り下ろそうとしていたのである。

 指示通り左によけたキースの足元の雪を、その下の地面ごとウォーガの棍棒が抉る。

 かろうじて直撃は受けずにすんだものの、キースがよけた先は下り斜面になっていた。

「うわー!」

 ふたりは雪の斜面を滑落していった。

 割とすぐに滑落が終わったので、エマーユは頭を振って頭上を仰ぎ見た。ここから滑り落ちた場所までは馬の体長にして十頭分ほどの高さだ。

 エマーユの耳が、ウォーガの行きつ戻りつする足音を捉える。どうやら、こちらに降りるのを躊躇っているようだ。

 いかにも口惜しげなウォーガの咆哮が轟いた。

 涎を垂らしつつ、しばらく斜面の下を覗き込んでいたが……。

 やがて遠ざかる足音。

「いったーい。ちょっと擦り傷できちゃったみたい」

 安心して、エマーユが口を開く。

「でも、ウォーガのやつ、あたしたちのことあきらめたみたいね」

 用心深く斜面の上の様子を耳で探りながら、キースの姿を探した。

 彼はエマーユの尻の下でうつ伏せにのびていた。

「あ、ごめーん」

「へーきへーき。エマーユ、傷、いたい? ぼく、傷、ぐすり、少し持ってる、よ」

 口の中に雪でも入っているのか、キースは変なところで言葉を切りながら答えた。

 言いながら身体を起こし、ポケットを探ったキースだったが、目当ての傷薬はなかなか見つからない。

「ごめん。落としちゃったみた……!」

 済まなさそうにエマーユの方を見たキースの頬が赤く染まる。

 エマーユは、お互いのおでこがくっつくほど近くまでキースに顔を寄せていたのだ。

「キースの方がひどいケガしてる!」

 顔中あちこちから小さな出血をしている上、口の中を切ったのか唇の端からも血が流れている。これではしゃべるのも辛いに違いない。

 エマーユは、これまでまだ一度も成功したことのない、ヒーリングの魔法を試してみた。

 キースの口からの出血、顔の出血が少しずつ治まっていく……成功だ。

 キースの傷を治すために意識を集中していたエマーユは、背後の気配に一切の注意を払っていなかった。

 唐突に――。

 キースの傷が完全に癒える前に、エマーユは彼に突き飛ばされていた。

「きゃっ。なにするのよっ」

 キースに突き飛ばされ、尻餅をついたエマーユ。治してあげてるのに酷い、と文句を言いつつ目を開けると、そいつがいた。

 圧倒的な迫力を持つものが。

「モ、モノケロス!?」

 馬に似ているが、額には細くて長い一本の角を生やしている。飛行と雷撃の魔法能力を持ち、非常に好戦的な性格だ。ウォーガよりも数段強力な魔獣である。

 しかしエマーユは、モノケロスへの恐怖など一瞬で吹き飛んだ。

 モノケロスの角は、キースの腹に突き立てられていた。

 エマーユの足元の雪が朱に染まる。彼女はすぐに事態を理解できずにいた。

 数秒の後――

「キース! キース! いやあああ!」

 身体が熱い。

 しかし、エマーユの足元を赤く染めているもの――それは、彼女の想像したものとは違っていた。

 「キース……。キースが燃えている?」

 パニックを起こしかけたエマーユの耳に、落ち着いた力強いささやきが届く。

「エマーユはぼくを助けてくれた。こんどは、ぼくが助ける番」

 キースの身体が赤く光り始めた。

「ま、魔法?」

 同時に、モノケロスの角も白光を宿す。

「だめっ!」

 エマーユはあわてた。モノケロスは、噂に聞く雷撃能力を発動しようとしているに違いない。

「させない」

 キースの落ち着いた声。

 特に何かをしたようには見えない。しかし、モノケロスの角の光が消えた。

 エマーユは目を疑い、何度も瞬く。好戦的なはずのモノケロスが、鼻を鳴らすような音を出している。臆病な馬さながら、怯えているのだ。

 キースが叫んだ。

「うおおおお!」

 七歳の少年らしからぬ、裂帛の気合。

 同時に、赤い輝きは彼の全身を包む炎と化してモノケロスに襲い掛かった。

 獣の毛と肉を焦がす臭いが漂う。

 湿った音を立て、モノケロスが雪の上に倒れた。

 ほんの一瞬の出来事だった。

「……」

 しばし放心するエマーユ。その目の前へとキースが倒れ込んだ。もう、炎もなければ熱さも感じられない。

 モノケロスの死体と、そいつが焦げた臭いだけが残っていた。

 さっきの炎は何だったのか。キースはマジックアイテムを持っていたのか。しかし、呪文を唱える様子はなかった。

 エマーユは考えるのを後回しにして、俯せに倒れたキースを仰向けにすると必死で呼びかけた。

「キース、キースっ!」

 キースはすぐに目を開け、しっかりした声で答えてきた。

「エマーユ、だいじょうぶ?」

 自分が大変なときに、相手の心配をするなんて。エマーユの目は涙で濡れた。

 彼は腹を刺されていたのだ。こうして意識があるのなら、自分の拙いヒーリング魔法でも治せるだろうか。

「えっ?」

 しかし、キースの腹部は、服もそのままならば出血の跡も見られなかった。


「殿下ーっ!」

 先ほどキースたちが滑落した斜面を、自らの意志で滑り降りてくる青年がいる。

 黒髪黒瞳の若い男――人間だ。

「エマーユっ!」

 森の民の大人たちも滑り降りてくる。

「エマーユ、目を離していてすまん。結界に破け目ができていた。モノケロスが近づいていたのに、誰も気付かなかった」

 それには応えず、キースの方を見る。彼は黒髪の男に担ぎ上げられていた。

「エマーユが、ぼくを助けてくれたんだ」

 キースはそれだけ言うと、ぐったりと目を閉じた。呼吸は安定している――眠ってしまったようだ。

「違うの! あたしのほうが、助けてもらったの!」

 そのあと、黒髪の青年が頭を下げ、森の民の大人たちに何かを言った。大人たちもそれに答えていたが……、正直言って、大人たちの会話はエマーユにはよくわからず、何を話していたのか覚えていない。

 ただ、子供が危険な目に遭うと、大人は何かと規則を作って縛りたがるものだ。話の成り行きを心配したエマーユは、我慢できずに口をはさんだ。

「あたし、これからももっとキースと遊びたいよ」

「子どもの遊びを禁止するつもりはないよ」

 穏やかに笑う森の民の大人の言葉を受け、黒髪の青年も首を縦に振った。

「我が国王陛下も、殿下には城外でもなるべく自由にさせよ、との仰せです。問題ないでしょう」

 彼女は心底ほっとした。




 そこでエマーユの回想は途切れた。

 ここは、普通の民家の部屋のようだ。覆面男たちのアジトなのだろうか。

「キースには指一本触れさせない。今度こそ、あたしが助ける番」

 エマーユは決意を固めていた。

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