復讐の交錯
サワムー湖は海と見紛うほどの巨大さを誇る。アーカンドル王国の北に隣接し、サルトー王国の南端まで広がる湖だ。その面積はアーカンドル王国をまるごと呑み込んで余りある。
山から流れ落ち、サワムー湖を経由して海へと注ぎ込む大河が陸路を分断しているため、湖を挟んだ南北への往来には水上輸送が不可欠だ。距離が長いため、移動魔法による往来はほぼ不可能。陸路で移動し川だけを魔法で越えるという選択肢もあるにはあるが、ろくに踏み均されていない陸路は延々と悪路が続くのみだ。
この悪路で野盗の類いに襲われた場合、どうしても逃げ足が鈍る。その上、川越えのために稀少な移動魔法アイテムを携えているとなれば狙われるリスクがさらに高まる。従って、好んで陸路を選択する者など皆無に等しい。
しかし、だからと言って水路の安全が保証されているわけでもなかった。
サワムー湖は、人と似た外見の魔族が住まう湖として知られていた。その一つにロレイン族がある。銀の髪と赤い瞳を持つ女性のみの一族である。その美しい歌声は船乗りを夢の世界に誘うという。
しかし、彼女らの歌を聞いた船乗りがどうなったかを知る者はいない。歌声を聞いた船乗りは、例外なく帰らぬ人となってしまうためである。
サワムー湖を就航する船がロレイン族と遭遇する確率はさほど高くないが、万一歌声を聞いてしまった場合、船乗りたちは伝書鳩を飛ばす決まりとなっていた。別働隊や他国の船に救援を要請するためである。しかし、伝書鳩を飛ばす時点で——おそらくはロレイン族の歌声を聞いた時点で——、その船の命運は尽きてしまうのだ。
いつしか、救援を求めるはずの書簡に船乗りたちの遺言が書き込まれるようになったのは、自然な成り行きであった。
ロレイン族が何のために船乗りを襲うのか、正確なところはわからない。まことしやかに囁かれているのは、彼女らの種の保存のためという説である。男性が存在しないロレイン族は、人間を喰らうことで赤子を産むという。
食人の真偽こそ定かでないものの、ロレイン族が人間の船を遭難させていること自体は紛れもない事実である。
そのため、有志により何度かロレイン族討伐隊が組まれたが、どれほど周到に用意したところで芳しい成果が得られぬまま今日に至っている。
「でも、二ディア様。この話、あくまで人間側の言い分に過ぎません。人間を食べて子を成すというのは事実ではなく、我らロレイン族にも男性は存在します。決して人間の前に姿を現しませんが」
風呂から上がった後、ファリヤは土蜘蛛と鉢合わせすることなく軟禁中の部屋まで辿り着いた。それというのも、ロレイン族のメイドが通路の先に立って誘導してくれたお蔭である。大半の土蜘蛛が侵入者追撃のため、バネッサと共に出払っている状況も彼女に味方していた。
こんな半裸の格好で、好色そうな土蜘蛛どもの目に触れるなど考えただけでぞっとする。わざわざこんな衣装を用意したバネッサに対しては苛立ちが募るばかりだが、メイドに対しては僅かながら感謝の念を抱いていた。
そのため、話しかけてくるメイドを無視する気にはならなかった。
「では、ロレイン族は人間を殺していないと仰るの?」
「いいえ、殺しましたよ」
あっさりと即答され、ファリヤは目を瞬く。
「でもそれは、自衛のためです。先に我々に危害を加えたのは人間の……。いえ、やめておきましょう。我々と人間、互いに言い分がありましょう。今や一朝一夕には修復できぬ溝が出来てしまっているのです」
「あなたは、人間にも言い分があることを認めてくださるのかしら」
「ええ。ですが残念ながら、それはロレイン族の総意ではありません」
我知らず、ファリヤはメイドをまじまじと見つめていた。バネッサに奴隷と言われても表情一つ変えなかったし、今も淡々と言葉を交わしているのに過ぎない。けれども——。
「二ディア様。私、洗脳などされておりませんよ」
思わず息を飲み込む。それでは、自分の意志で奴隷の立場に甘んじているとでもいうのか。
「ただ、バネッサ様の復讐を……。最後までお手伝いする義務があると考えているだけなのです」
「復讐?」
メイドは珍しく表情を動かした。苦い物を口に含んだ時のようなそれは、後悔なのか懺悔なのか。経験の乏しいファリヤには窺い知ることはできない。そして、メイドはそれ以上言葉を続けようとはしなかった。
たとえバネッサにどんな事情があろうとも、ファリヤには同情するつもりなど微塵もない。復讐などという個人的な感情をぶつけるには、バネッサが振るおうとしている力はあまりに強大なのだ。
「仲間を自ら手にかけるような人が復讐だなどと、笑わせないでください!」
自分の前でマスクを脱いだ土蜘蛛。その顔を思い浮かべたファリヤは、立ち上がって叫んだ。
「正しくないことなど百も承知。我が主も、私も、したいようにする。ただそれだけです」
完璧な無表情に戻って淡々と告げるメイドに気圧され、ファリヤは自らの口中にも苦い物が広がるのを感じていた。
* * *
バネッサは〈幼竜の魔笛〉を高らかに吹き鳴らす。それが戦闘開始の合図となった。
先制はゴーレムだ。風を切る音が唸りを上げ、巨人の豪腕が地面に突き刺さる。
爆音と共に飛び散る砂礫。
上空では刃と刃がぶつかり合う高い音が鳴り響く。
張り巡らされた蜘蛛糸を足場に、敵も味方も空中に留まって刀を振るい、手裏剣の応酬を繰り広げている。
人数も練度も、ドロシー率いる土蜘蛛一族が勝っている。しかし、これまでのところ戦況は拮抗していた。やはり、ゴーレムの存在と地の利がバネッサ率いる真の土蜘蛛衆に味方しているのだ。
夕闇を切り裂いて、巨人の目が輝いた。
「着地っ! 姿勢を低くっ!」
戦場に溢れる様々な音を上書きし、ドロシーの大声が突き抜ける。
空中の土蜘蛛めがけ、怪光線が迸る。
巨人が首を振り、地面に逃れた土蜘蛛を睨む。
その動きに合わせ、二筋の凶悪な光の刃が戦場を蹂躙する。
悲鳴が上がり、血飛沫が舞う。
二人分の身体が炎に包まれた。否、片方は木片だ。
「ちっ、一人は変わり身をしくじったね」
味方に落伍者。ドロシーはごく一瞬、目を閉じた。
そこに光線が降り注ぐ。
「長!」
「狼狽えるんじゃないよ未熟者がっ」
地面で炎上する等身大の木片。そのかなり上空で老婆が声を張り上げた。
「いいかい、敵から目を離すんじゃないよ! 一人でも生き延びて、メリクと——、キース坊やに合流するんだ」
耳障りな高笑いが全員の鼓膜を震わす。バネッサの声だ。彼女は巨人の肩から一歩も動いていない。
「諦めんの早いわねぇ。手応えなさすぎて退屈しちゃうわぁん」
そこへドロシーはじめ複数の土蜘蛛が肉薄し、至近距離から手裏剣を雨あられと投げつける。
手裏剣の全ては正確な軌道を描いてバネッサに命中。しかし、ただの一つも彼女の体に刺さることなく、高い金属音と共に弾き返されてしまった。
「うっふん。無駄よん」
ドロシー含め数名の土蜘蛛が蜘蛛糸で空中に留まり、残りは着地した。
余裕の笑みを崩さぬバネッサを睨みつけ、ドロシーが腕を真上に伸ばす。
爆音が轟き、ゴーレムが片膝を地面についた。膝のあたりで爆炎が上がっている。
ドロシーは、ベルヴェルクたちの戦闘を分析していたのだ。
「きゃあー、落ちるーん」
言葉と裏腹に、バネッサは危なげなく巨人の肩に座ったままけらけらと笑う。
「ほらぁ、どうすればゴーレムが止まるか知ってんでしょっ。もっと寄って来なさいよぉ、逃げないでいてあげるんだからあ」
ドロシーは挑発に乗らず、静かに腕を振り下ろした。
岩場の陰から大量の矢が射かけられる。何本かはバネッサ麾下の土蜘蛛に、それ以外の大半はバネッサに。
高速で殺到する矢の先端では、赤々と炎が燃えていた。
真の土蜘蛛衆が二人ほど、変わり身も間に合わぬまま炎に包まれている。
「あらぁん。熱い男は嫌いじゃないけどぉ、暑苦しいのは勘弁願いたいわぁ」
数本の火矢がバネッサに直撃するも、松明を水中に突っ込んだかのような鈍い音がした。次の瞬間、全ての矢は弾き返され、炎が消えた状態で地面へと落下していった。
「まだだ。デカブツは足が弱いっ」
ドロシーの声を合図にしたかのように、巨人の歩みが止まる。
「考えたわねぇ。蜘蛛糸で足下固められちゃったわぁん」
狙うはゴーレムの額。だが真正面から挑んだら光線の餌食だ。土蜘蛛一族たちは巨人の背後へと回り込む。
「ああ、それから——」
バネッサが何かを言いかけた時、背後の地面から土蜘蛛の苦鳴が聞こえた。
一族が回り込んだ場所に落とし穴が掘られていたのだ。穴の中からは血臭が漂ってくる。
まとめて三人、一族の土蜘蛛たちが罠に墜ちた。
そして、底に設置されていた竹槍で身体を串刺しにされてしまったのだ。
「そこら中に罠を仕掛けてあるから気を付けてねぇん」
空中に留まり歯噛みするドロシー。水泳の影響もあり、ろくに体力が残っていない。仲間たちもあっという間に半減した。次に巨人の目が光ったとき、あの光線を上手く避けられるだろうか。
「……かくなる上は」
覚悟の言葉と共にバネッサを睨みつけると、短剣を取り出した。
「我が路を示すは雷神の光球」
「長! おやめください」
呪文に気付いた一族の土蜘蛛が、狼狽えて声を張り上げる。
「なーに? 耄碌しちゃったのかしらん。呪文なんて無駄よぉ」
ドロシーは短剣を振り上げて——。
「————っ!」
自らの胸に深々と突き込んだ。
「長ぁ!」
「何しとるかのろまども! 一人でも生き延びろ」
叫びながらも、ドロシーの身体を点滅する光が包み込む。時折爆ぜるような音を立てては明るく輝き、老婆の顔面に濃い陰影を描く。
「バネッサよ。貴様だけでも道連れにしてくれる。土蜘蛛最終奥義、屍反斬」
上空に飛び上がり、雷霆と化した老婆が真っ直ぐにバネッサを襲う。
「ロレイン族め、息子の仇っ!」
ゴーレムの両目から光線が迸るも、雷霆には歯が立たない。
地面に突き立つ光の柱。
強烈な光が夕暮れのサワムー湖畔を白一色に塗り潰した。




