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対決の土蜘蛛

 石造りの浴槽は一〇人以上がゆったりと浸かれるほどの広さだった。たしか、王国内にも国民が格安で利用できる大衆風呂屋があったはずだ。

 王族たるファリヤはもちろん、王宮で生活するニディアもそのような施設を利用したことはない。だが、その施設はきっとこんな感じであり、その日の疲れを癒す人たちで賑わっているのだろう。

 心地良さに目を閉じる。

 しかし残念ながら、せっかくの快適さを心ゆくまで満喫することができない。風呂から上がったら、やけに布地の少ないあの衣装を身に着けさせられるのだ。

 同じ格好をさせられるにせよ、後宮に入る妾妃ならまだいい。一人の男に望まれて、側室とは言え妃になれるのだから。しかし、今の立場はまるで娼婦ではないか。この身が娼館にでも売られてしまったかのようで心細くなる。

 攫われたのが二ディアでなくて良かった。半ば無理矢理そう考える。自分ならキースを信じて待つことができる。あの兄ならきっと放ってはおかない。たとえ攫われたのが自分ではなく、二ディアだったとしても。

 はっとして目を見開く。

 そのまましばらく固まっていたが、やがて首を左右に振る。何を過剰な期待をしているのだ、自分は。いかに怖いもの知らずの兄とて、魔法を封じられた状態で魔族を相手にして無事に済むはずがない。

 十年前、七歳の兄がエマーユをかばい、モノケロスを斃したという。それはこの目で見たわけではなく、聞かされただけだ。自分が五歳だったあの日以来、兄が彼女の憧れだった。次男でも三男でもなく、皇太子たる長男でさえもなく、キースこそが。

 兄が貴族の子弟よりもバレグやスーチェと仲が良いので、自分も彼らと親しく付き合った。兄が奔放に振る舞うので、自分もできる範囲で好き勝手に行動した。

 そんな自分を、キースは時に叱りつけることもあった。それでも、困った時は手助けしてくれたし、一緒に悩んでもくれた。だからこそ、彼にヒーロー像を重ねて見つめてきた。

 しかしそれは、彼にとって重荷だったのではないだろうか。『王室の余り物』と陰口を叩かれても笑っていた兄は、人知れず——ファリヤにさえ隠して——我慢をしてきたのではないだろうか。

「キース兄様……」

 こんな歳になってまで兄様を頼ろうとしてばかりいる情けない妹をお叱りください。

 いつまで夢を見ているのだ、自分は。彼にはエマーユという守るべき女性がいる。自分が荷物になるわけにはいかない。あまりに他力本願な妹では、愛想を尽かされてしまうに違いない。

 滅入る気分を今だけでも忘れよう。大きく伸びをすると、石の浴槽に背を預けて天井を仰ぐ。

「————っ!」

 思わず息を飲み込み、前を隠した。

 誰もいないと思っていた天井。そこに、人がいたのだ。

 老婆だ。頭を下にして、天井に立っている。彼女は、害意はないとでも言いたげにウインクをしてきた。次いで、こちらに向けて手を振る動作をした後、立てた人差し指を口に当てて見せる。

 悲鳴を上げずに済んだのは、ここが敵地だからだ。助けを呼ぼうにも味方がいない。

 湯から上がり、素早くバスタオルを巻いて後じさる。

 脱衣所で控えているメイドに助けを求めるべきか。いや、信用できない。そもそも、この老婆もバネッサの部下なのかも知れないではないか。

 人質にプライベートは無い。もしや、それを思い知らせるために、わざわざ姿を見せて監視しているのでは。そうでないとは言い切れない。

 そこまで考えて、ファリヤの頬が紅潮しはじめた。湯につかったせいもあるが、それだけではない。

 老婆を睨み付け、息を吸い込む。しかし、大声は出さない。彼女がそうするよりも先に——。

 突如、笛の音が響き渡った。

 驚いたファリヤは、吸い込んだ息を声にせぬまま吐きだしてしまう。

「ふん、〈幼竜の魔笛〉か。侵入にずいぶん手間取らされた上、こうもあっさり気付かれるとはな」

 落ち着いたしわがれ声が老婆の口から漏れる。

「姫よ。そなたの兄が気に入ったので先に助けておくつもりだったが、予定変更だ」

「な——」

 何を言っているのか。そう問いかける間も与えず、老婆は言葉をかぶせてきた。

「すまぬが、〈炎竜の枷〉を嵌められておる以上、そなたを連れ出すことができぬ。今しばらく辛抱しておれ」

 それだけ言い残すと、老婆は消えた。実際には素早く移動しただけなのだが、ファリヤにはまるで消えたかのように見えた。天井のどこにも隙間らしきものは見当たらない。完全に姿が見えなくなった後で「また会おう」という声が耳に届いた。

「……なんなのよ」

 腰を落とし、石造りの床にぺたんと座り込む。ほぼ同時に、脱衣所からメイドが駆け込んできた。

「ニディア様。ご無事で」

 動作こそ機敏だが、無表情かつ抑揚の無い声で話しかけられた。

 どうやら、入浴の最中まで監視されていたわけではなさそうだ。安心し、無言で首を縦に振る。

「何者なのよ、あのお婆さん」

 たしか、自分に向かって『姫』と呼びかけた。よく覚えていないが、『兄』という単語も告げられたような気がする。こちらの正体を知っているのだろうか。

「わかりませんが、我が主と敵対する者であることは確かです。だからと言って、ニディア様のお味方とは限りませんので勘違いなさらぬよう」

「言われなくてもわかっています」

 珍しく饒舌だと思えば不愉快な言葉をかけられ、つい不機嫌になってしまう。彼女が差し出す手を断り、自ら腰を上げた。

 メイドと一緒に脱衣所へと向かう途中、掌に違和感を覚えた。顔の前に近付けてみて目を見張る。いつの間に張り付いていたものか、そこには小さな白いものがあった。湯に濡れていながらも破れる様子のない紙片だ。先程の老婆の顔が脳裏を過る。ウインクする際、軽く手を振る動作をした。まさか、あの時にこの手をめがけて投げつけたというのか。

 直感が告げる。誰にも見せるべきではない、と。ファリヤは例の衣裳に着替える際、胸を覆う布の中に紙片を隠すのだった。

 裸同然の自分の姿を見下ろし溜息を吐くも、覚悟を決めて背筋を伸ばす。そのまま通路へ出ようとするファリヤだが、先を歩くメイドが手を横に広げて遮った。男たちの会話が聞こえてくる。

「聞いたか、姐さんの通達」

 大きめの声からは隠しきれぬ興奮が伝わってくる。

「ベルヴェルクの野郎と戦闘になったら、武勲を挙げた奴が最初に人質とヤる権利がもらえるってよ」

 思わず抗議の叫びを上げそうになったが、ファリヤは口に手を当てて堪えた。次いで、肩を抱くようにして胸を隠す。

「奴が降参し、素直に情報を寄越す場合は人質は眼鏡の旦那のものになるらしい」

「マジかよ、俺あの娘好みだぜ! こりゃ、ベルヴェルクの旦那には戦う気で来てもらいたいな!」

 遠ざかる足音を聞きながら、ファリヤは拳を握りしめた。どちらにせよ、奴らにはベルヴェルクを生かしておく気がないようだ。

 胸に隠した紙片を意識する。どこに隠そうと、布を剥ぎ取られたらおしまいだ。だが、三日後の期限まではきっと大丈夫。今はそれ以上考えないことにした。


*          *          *


「ふう、寄る年波には勝てぬわ。よもやこの歳で寒中水泳をする羽目になるとはな」

 夕暮れ迫る寒空の下、全身から水を滴らせた老婆——ドロシーが呟く。

「よりによって湖底のアジトとは。バネッサめ、ロレイン族を仲間に引き込んでおったか」

 彼女の傍らに控える土蜘蛛が、その手に持った呪符から熱を放射している。蒸発していく水蒸気を目で追いつつ、「だが好都合だ」と続けた。

「総攻撃で、にっくき水棲魔族ごと潰してくれようぞ」

 息子の仇だ、と絞り出す声と共に彼女の瞳の奥で昏い炎が燃えている。

「奴め、スカランジアの軍師と手を組んでおったな。これを王子に伝えてヴァルに恩を売るのも悪くない」

 そのとき地面が揺れ出した。

「ち、追っ手か。さすがに早いね。……移転魔法の呪符は?」

 ドロシーは傍らの土蜘蛛に聞く。

「数が足りません。〈幼竜の魔笛〉の影響を受けていない待機組の呪符は、ほとんど書き換えの効かないものばかりです」

「どうやら」

 戦うしかないようだね、と呟くと同時に、彼女を庇うように姿を現した土蜘蛛たちが取り囲む。

 地面が盛り上がり、巨人ゴーレムが姿を現した。夕日を遮って影を落とし、土蜘蛛たちを睥睨する。巨人の肩には女が腰掛けていた。バネッサだ。

「うっふん。逃がさないわよ、師匠」

「当時から、お主の師になった憶えはない。……ここで潰す」

 見上げる老婆と見下ろす妖女。互いに細められた瞳が放つ視線の稲妻が、両者の中間で激しい火花を散らした。

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