覆面の襲撃者
その声はくぐもっていて、やや聞きづらかった。それもそのはず、目だけを露出した覆面を被っている。
「エルフに用はない。どけ、女」
エマーユはキースから離れると、表情を消してゆっくりと立ち上がる。
続けて立ち上がったキースを背にかばうようにして、覆面の人物を睨み付けた。声と体型から判断する限り、おそらく若い男であろう。立ち上がって対峙すると、男の背後にもさらに二人、似たような覆面の人物が剣を構えている様子が視界に入った。
今、エマーユの髪は風もないのに波を打ち、さらに緑の瞳は強烈な光を帯びる。その光は少女の整った顔立ちに濃い陰影を与えた。
「このあたしに『どけ』ですって? あなたたち、何様のつもりかしら」
先ほどキースにとびついたときと同じ、鈴の鳴るような美しい声。しかし今回は、氷の刃のような冷たく鋭い響きを帯びていた。
彼女の足下から、雪が螺旋状に巻き上がる。攻撃魔法の兆候だ。エルフは魔法の発動条件として呪文の詠唱を必要としないのだ。
「えっ、なに?」
それまでエマーユの背後に控えていたキースが、彼女の正面へと踏み込んできた。
「待て、エマーユ。こいつら変だ」
殺気が感じられない。
言葉にしなかったキースの感想は、彼女もなんとなく察してはいた。ひとまず彼を立て、攻撃魔法の発動を延期する。
しかし、殺気は自己暗示によって消すことも可能だ。だから彼女は警戒を解かず、魔法発動の停止ではなく延期を選択した。
「変だ……、こいつらの格好」
「ふぇ?」
キースが指摘するように、三人の服装は少々特殊だった。
覆面は別としても、黒光りする布を全身にぴったりと張り付かせている。身体の線がはっきりわかるその姿は、布を纏ったというよりも全身を墨で塗りつぶしたかのような印象だ。いや、そもそも布なのかどうかも怪しい。
服ではなく、鎧なのか? そう呟くキースの小声は、すぐそばに立つエマーユがなんとか聞き取れる程度だった。何のことかわからず小首を傾げると、キースは首だけ彼女を振り向いて告げる。
「前に、魔法や武器の攻撃を防ぐ、鎧なんかよりずっと軽い服があるって噂を聞いたんだ。マジックアイテムの一種かも。だけど」
視線を正面に戻し、言葉を続ける。
「見てるこっちが恥ずかしい。全裸の方がまだマシだ」
「そう?」
彼の感想を聞いてもエマーユはきょとんとしていた。この森のエルフは、麓のアーカンドル王国とは比較的友好な関係を築いている。しかし、人間の服装には疎いのだ。
そんな気の抜けた会話を聞いても特に焦れる様子を見せず、最初に声をかけた覆面男が再び声を出す。
「言い方が気に食わぬのであれば謝ろう。我々はそちらの男に用がある。大人しく同行するなら命は保証する。エルフのお嬢さんにはご遠慮願いたい」
表面上は丁寧な言葉遣いでありながら、有無を言わせぬ口調を隠しもしない覆面男に対し、エマーユの我慢は限界に達した。
「三人がかりで剣を構えておきながら、命の保証だなんて信用できるわけないじゃない。一体何の用なのよ!?」
エマーユには遠慮する気などさらさらない。延期していた魔法の準備は即座に完了した。再び足下の雪が巻き上がる。今度はキースも制止してこない。
「こちらの都合で結界を解いていたのは事実だけど、ここはあたしたちの縄張りよ。今すぐ出て行って」
「聞き分けのないお嬢さんだ」
覆面たちは互いに顔を見合わせると、キースたちを取り囲むように散らばった。
「はっ!」
気合いと共に、エマーユの口から白い息が漏れる。
同時に、覆面男たちが立っていた辺りが炸裂した。ほぼ等身大の雪煙が噴き上がる。
「当たれ、当たれえっ!」
二度、三度。腕を伸ばしたエマーユが、掌から緑色の光弾を連射した。その度に雪煙が噴き上がるものの、覆面たちは余裕でそれを避けてしまう。残像を残すほどの勢いで、滑るように移動しているのだ。
一体どんな訓練をすれば、人間が雪上をこれほど速く動けるというのか。
「やった!」
エマーユが快哉を上げた。
覆面男の一人が、光弾を腹部に受けて雪煙の中に倒れ込んだのだ。拍手するキースに微笑んで見せ、残りの覆面男たちを順に睨みつけて宣言する。
「大人しく立ち去りなさい。そうすれば命は保証するわ」
意趣返しをして満足したのか、エマーユは覆面男たちにも笑顔を見せた。
「さっきの攻撃なら手加減したから。もし怪我したのなら立ち去る前に治してあげる」
「心配無用だ」
雪煙が収まると、そこには光弾が直撃したはずの覆面男が平然と立っていた。
「え、嘘っ!」
瞠目する彼女の視界の端に、ダガーナイフを投げるキースの姿が映る。釣られたようにナイフの軌跡を目で追った。
ナイフは、そちらに走りこんでいた覆面の肩口へと吸い込まれるような軌跡を描いて命中した。確かに、切っ先が命中したのだ。それなのに。
高い金属音の余韻を引いて雪上に落ちてしまった。
エマーユは口に手を当て固まった。
「すまぬが遊んでいる時間がない。二人まとめて連れて行く」
覆面たちは絶妙な間合いを保ち、キースたちを取り囲む位置をとって立ち止まった。その隙のない動きは訓練された戦士のものだ。山賊や盗掘者の類いではなさそうなことは、エマーユにも察しがつく。
「くっ……」
手加減せずに魔法を撃てば、あるいは活路が開けるかもしれない。しかし二本の腕で同時に二人を攻撃しても、一人は自由に動ける格好だ。
悔しげに唇を噛むエマーユの背中に、キースが背中を合わせた。
「俺だけならまだしも、エマーユまで連れてくってんなら黙ってられないな。……ったく、荒事は苦手なんだがなぁ」
キースが背中越しに長剣を渡してきた。その刀身に、すかさず攻撃強化の魔法をかけて返す。
「ありがとエマーユ。お前はこれ使え」
代わりにダガーを受け取ると、それにも同じ魔法をかけて身構える。
「抵抗は無駄だ」
覆面たちは三人同時に動いた。彼らは剣を左手に持ち替えると、切っ先を上にして背に隠してしまう。同時に体の前にかざした右手には、短冊状の紙片が握られていた。
それらの短冊もマジックアイテムなのだろうか。アイテムについての知識が乏しいエマーユだが、ゆっくり考えている場合ではない。敵が呪文を唱える前に攻撃だ。彼女の足元から雪が舞い上がる。
同時に、キースの朗々とした声が響く。
「万物は造物主の御心のままに」
それは呪文。彼の掌の上で拳大の球体が破裂し、消滅した。
マジックアイテム〈造物主の掟〉。その効果は呪文阻害だ。キースが使ったのはレプリカだが、マジックアイテムの持ち主が正確な呪文を唱えても魔法が発動しなくなる。
「さあ、これでしばらく魔法は使えないぜ。……俺たち人間は、な」
「ふ」
小さな、しかしはっきりとこちらの耳に届く声で、覆面男が冷笑を漏らした。
その余裕の態度を訝る暇さえ与えず、覆面たちは三人同時に短冊を投げつけてきた。それはひらひらと宙を舞う紙片に過ぎず、見る者に何の脅威も感じさせない。
短冊で注意を逸らし、斬りかかる腹づもりだろうか。
ならば短冊を無視し、三人が背に隠した剣をこそ警戒すべし。
キースが長剣を、エマーユがダガーを構えたその途端——
「なっ」
短冊は縄状の物体に変化し、頼りなく宙を舞う様子から一転、恐ろしい速さでこちらに迫ってきた。
三つの縄はそれぞれ頭上、足元、腹の高さを目がけて飛んでくる。ジャンプして避けるのも、雪面を転がって避けるのも封じられた。
それぞれの得物で払い落とそうにも時すでに遅し。
キースとエマーユは互いの背中を合わせたまま、為す術なく捕縛されてしまった。
どういうことだ、と独りごちるキースを気遣うのは後回しにして、エマーユは覆面男たちを睨む。
「森の中で森の民を捕まえられるなんて思わないで!」
彼女の瞳が輝き、雪が舞い上がり始めたその時。
「う……、あぁっ!」
きつく閉じた瞼の内側で、極彩色の光が踊り狂う。縄で縛られた胴体を中心に、全身を不快な痺れが駆け巡る。
「くあ、あうっ……」
キースもろとも雪上に倒れ伏すと、空気を求めて激しく喘いだ。
「エマーユ、よせ! 魔法を使うな」
今になって思い出す。キースのその言葉は、彼女が魔法を使う直前、自身の叫び声でかき消したものだった。彼は縄——短冊から変化したマジックアイテムの危険性をある程度予測していたようだ。
「おい、無事か?」
なんとか呼吸を整え、「平気」と返すまでに数秒を要した。
次の瞬間、キースが怒声を張り上げた。
「何しやがる。エルフには用がないんじゃなかったのか!」
苦痛を与えるのは本意ではないと前置きし、覆面男が話しかけた。
「君だけを連れ去ろうにも、このお嬢さんが黙って帰してはくれないだろうからね。……ああ、魔法を使うと今のようになるが、命の危険はないよ。なあに、魔法を自粛して頂ければ問題ない」
後半はエマーユに向けた言葉だ。ようやく全身の痺れが治まった時、彼女の耳に歯軋りの音が届く。キースが覆面男どもを睨みつけているのが雰囲気でわかった。
「この服の防御力が無効化されたよ。どの程度まで遡れるのか判らぬが、過去に唱えた呪文まで阻害するとはね」
歯軋りをやめたキースが苦々しく問う。
「魔法が効いてるのか? じゃあ何故だ。どうしてこの縄——短冊には〈造物主の掟〉が効かなかったんだ。そもそも、いつ呪文を唱えやがった……」
歩み寄った覆面のひとりがキースに話しかけた。
「短冊ではない、呪符だ。教えてやろう。我らが扱うは符呪法。声ではなく、文字を発動条件とするマジックアイテムなのだ」
「符呪法――」
おうむ返しにつぶやくエマーユを無視し、それまで会話に参加しなかった覆面男が呟くように言う。
「準備できた。移動する」
彼はキースにもエマーユにも目もくれず、他の覆面男たちに呪符を手渡した。
三人でキースたちを取り囲むと、呪符を自らの額に貼り、胸の前で両手の指先を合わせて菱形の印を組む。
ほどなく、周囲の景色がぼやけ始めた。どうやら、今回の呪符には瞬間移動の魔力が込められているようだ。
その場から消える直前、キースは長老に目配せをした。
――じいちゃん、エマーユのことは任せてくれ。
それは、声に出しての言葉ではない。だがエマーユは、キースが長老に向けて発したメッセージを確かに感じることができた。
だから彼女は笑みを浮かべる。たとえ魔法を封じられ、囚われの身となっても。
「キースが一緒だもの。不安なんて感じてやらないわ」
五人の姿が、古代遺跡の前から忽然と掻き消えた。
「任せたぞ。キース……なあに、心配はしておらぬ」
後に残された森の民の長老グリズ――見事な枝ぶりの大樹が、独りつぶやいた。