1 TAKE OFF
チャイムが鳴る。三時間目は算数だ。
小柄な古田先生が教壇に立つと、抜き打ちテストを行うことを宣言した。甲高い声で、このテストがいかに重要なものであるかを説く。
鳥越武は、まるで先生の話を聞いていなかった。その目は、前方に座る一人の女子生徒からそれない。
目立つ赤い髪飾りで艶やかな髪をまとめた、すらりとした体つきの少女。美人だった。ここからでも、彼女の項が白磁のように白いのが分かる。彼女は伊良野沙智。
今、彼女は全身から敵意と拒否の空気を発している。武の視線に気付いていて、それを無視しているのだ。
彼女が、武のターゲットだった。
さる休み時間、武は彼女に接触した。大した理由はない。入学以来、関わったことのない彼女の、人間力を試すためのようなものだ。
それに対して、彼女は過剰に反応してきた。武の軽い挑発に、可憐な女子に似合わないほどの激しさで反撃してきたのだ。
武は打ちのめされ、敗北のしるしを残された。誇りは傷つけられた。今や、クラスのみんな、いや、学年全体が武の敗北を知っているだろう。
彼女はやりすぎたのだ。
眼鏡の下、武は彼女を睨む眼力を強めた。学校という、閉じられた社会で、なめられたらおしまいだった。弱さを知られると、クラス中の学生が、暴力や陰湿ないじ
め行為を仕掛けてくる。弱者は食われる運命にあった。
やり返さねばならない。目には、目だ。
伊良野沙智に同等のダメージを与え、その高慢な鼻をへし折らねば。武は決心した。
彼我の戦力差を確認する。
武自身は、度の強い眼鏡をかけていて、いつもひねくれた顔つきを浮かべている。他人としゃべるときは、ぼそぼそと喋り、そして同じように独り言を喋った。あら
ゆる科目の成績は、順位を下から数えたほうが便利だし、スポーツと名のつくものに縁はなかった。いつも一人でいる。そういう男子生徒だ。
クラスメイトは、武の敵に回ることはあっても、味方になることはない。
対する沙智の方だが、武の弱点をそのまま長所にしたかのような、完全無欠な生徒だった。
常に取り巻きを従え、顔が綺麗なのでクラスの男子どもはめろめろだ。学校側への受けも相当によく、先生連中は声を大にして彼女を褒め称え、表彰していた。そして、学級委員なる恐ろしくつまらなそうな役職に就いていた。
ほぼすべての点で負けていると言える。
だが、空軍戦力はどうだろう。
テスト用紙が回ってくる。
武は筆箱を開く。上部には鉛筆が並ぶが、武はそれには触れずに、さらに奥へと指を差し入れた。
丁寧な手つきで、小さな戦闘機を取り出した。小さいといっても、暇潰しにちょっと作ったプラモや菓子についてきた玩具というレベルの物ではない。
全長二センチ、全幅一ミリちょいという大きさながら、つくりは精巧で、今にも空を飛びかねない気象をその機体から発している。芸術の部類にまで達していると言っていい、見事なまでの出来栄えだ。小さいながらも、空飛ぶ狩人としての迫力を備えていた。
コクピットにはちゃんとパイロットまで座っている。
『ふでばこ航空団』。武の保有する自慢の航空戦力であった。彼女を完膚なきまでに倒す、理想の戦力だ。
沙智に、彼女の長所を生かす間も与えず、一撃で叩く。空戦に特徴的な、仮借ない奇襲をかけるのだ。気付いたら、敵は敗北していることだろう。
「覚悟しろよ、沙智!」
武は輪ゴムを手に取った。筆箱の先端に輪ゴムを引っ掛け、小さな戦闘機を飛ばすカタパルトとする。平坦な筆箱の表面は、さながら空母の飛行甲板だ。
限界まで戦闘機と輪ゴムを引いてから、武は手を離した。
「ヴェンジャー1、テイクオフ!」
小さな戦闘機は筆箱の表面を疾走し、縁を越える。ふらふらと失速しかけるが、そこでエンジンが火を噴いた。排気口からオレンジ色の炎を吹きつつ機首を上に向け、たちまち高度を上げる。垂直尾翼と主翼の先端から水蒸気が帯を引いた。
戦闘機はゆったりと機体を傾けて、武の周りを旋回する。
「ベース・タケシ、こちらヴェンジャー1。エンジンよし。出力系オールグリーン。快調だ」
ヴェンジャー1のパイロットが低い声で武に報告した。彼はベテランだ。そのタッグネームは『リード』。
後部座席に座るのは、レーダーと航法、そして火器管制を担当する若手の『ハスキー』だった。
「大将、今日は大胆なファッションですね」
ハスキーがバイザー越しに武を見下ろして言った。武の顔が屈辱に歪む。
「ターゲットの仕業だ。十五分前、休み時間中にあの女にしてやられた。あの女のスカートをめくってみたところ、奴は怒り狂って襲いかかってきた」
「なんでスカートなんかめくりました?」
ハスキーが火器システムのチェックを行いながら、首をひねる。
「高度に政治的な判断に基づいてだ!」
女子を相手取るときには、一番の方法がスカートをめくることだと武は確信していた。世の女子には、笑い飛ばす大物もいれば、泣き出す肝の細い奴もいる。小学生の世界にも明確な力関係は存在する。
クラスメイトの効率よい情報収集として、この儀式的な挑発行為を重宝していた。
だが、伊良野沙智は挑発に対し、武が想定していなかった激しさで反撃してきた。モップの柄で武を殴り倒すと、武のズボンとパンツを脱がせて、カッターナイフでそれを切り刻んで、校庭の端の焼却炉に投げ入れて灰にしてしまった。
武がその様子を苦々しげに語った。
「……それで腰巻き姿なのですかい。徹底的にやられちまったんですね。それも女子に」
現在、武は雑巾を腰に巻いて、辛うじて男の名誉を守っている。
小学生男子の挑発行為に対する苛烈な反撃。慣習もパワーバランスを保とうとする暗黙の了解も無視した力だ。彼女の存在は武の目に脅威的に映った。
ハスキーは哀れむように頭を振って、前席を向いた。
「スカートめくるだなんて、よく分からんですね。カマでも掘ろうとしたんですかね。ファックしたければ風俗行けばいいものを。そうでしょう、リード?」
「俺だってタケシの全ての行動を把握しているわけじゃないんだ」
前席のリードが答えた。
彼は、飛行時間二千時間を越える古強者。武が小一のときからの付き合いで、ふでばこ航空団一のベテラン・エースだ。
リードは自分が武器であることを十分に理解している。武器は政治を考えるためにあるわけではない。敵を滅ぼすためだ。武がパンツを履いていようといまいと、彼
が命じればリードは敵に襲いかかり、可能な限りの打撃を与える。そう人間が作られていた。
「とにかく、気張って飛ぶぞハスキー。目ぇ、見開いとけ」
最近のリードは、ハスキーのような若手を後ろに乗せて、実戦の中で育成していた。
「ヴェンジャー2、テイクオフ!」
武がヴェンジャー1の僚機を離陸させた。リード達が見守る中、ヴェンジャー2は見事なテイクオフを見せる。
輪ゴムカタパルトは、輪ゴムの劣化が早く、出力も武の腕に頼るという、不安定な代物だ。しかし、武は政治的、経済的理由のため筆箱に、より洗練されたレールガン・カタパルトやスチーム・カタパルトを装備できずにいた。
確かに、そういったものがあると便利だし、何よりもクールだ。だが、ふでばこ航空団のパイロット達は、腕で装備の壁を打ち破る。それが可能なように己を鍛えている。
「こちらヴェンジャー2。オールシステム・グリーン」
ヴェンジャー2のパイロット、『ガイア』が落ち着いた声で報告する。リードは編隊を組むため自機をヴェンジャー2に寄せて、僅かに下方へと占位した。キャノピーの向こうで、ガイアと、後部座席の『ブサ』が手を振る。
翼が触れ合いそうなほど密接な編隊を組んで、筆箱の上をかすめ飛んだ。
「シャップーヤ!」
ハスキーが興奮して叫ぶ。
「よいフライトを。よい狩りを。グッドラック・ヴェンジャー」
武が敬礼する。
「サンキュー、ベース・タケシ」
二機は機体を揺らしてバンクすると、一路ターゲットへと向かった。




