2 伝わらない想い
暖かな日差し。昼食後。日本史の授業。
『居眠りの三原則』がそろった五時限目。二年四組の教室には舟をこぐ生徒がほとんどだった。由里も例外ではなく、資料集の年表を見ていたはずの視線は徐々に下がる。
先生の背後には催眠術師が潜んでいるんじゃないだろうか、とかなりどうでもいいことを考えながらもあくびを噛み殺す。
その時、視界の右端から突然生えた腕にはさすがに眼が冴えた。
窓際に座っている由里の隣と言えば、彼しかいない。しかしその腕は一瞬由里の机に現れてすぐに引いていった。残されたのはルーズリーフの切れはし。
半開きになっていた目を見られてないかとちょっと心配になったが、とりあえず折りたたんであるそれを開く。すると、そこに書いてあった言葉に眠気が完全に飛んだ。
『やっぱり、ふられた』
思わず、授業中だということも忘れて隣を見た。
彼もこちらを見ていて、横を向くとすぐに視線が合った。眉尻を下げて笑う彼には力がなかった。
彼、佐藤翔とはついこの間までただのお隣さんだった。
だが彼が付き合っていた彼女と言い争っている場面に遭遇してからというものの、酷い言い方をされて傷ついた彼女となんとか縁りを戻そうとして頑張る彼の相談役というポジションに変わった。
呼び方も敬称省略して名字呼び。いつしかメルアドも交換して二十四時間相談可能の窓口と化した。
少しは改心したようで以前よりチャラ男というわけではないと思うのだが、彼女には届かなかったようだ。
いくら睡眠学習状態の授業だからといって静かな教室で喋りだすわけにもいかず、シャーペンを持ってルーズリーフの切れはしに向かう。が、なんと書けばいいのやら分からない。
『残念だったね』というのはあまりに突き放した言葉のような気がする。それに『どんまい』もなにか違う。そう迷った末、ガサガサと切れはしに書き込んで横に差し出す。
『頑張れ』
さすがに『いつか分かってもらえるといいね』などの言葉は恥ずかしすぎて書けなかった。でも彼の様子を見る限りだとまだ彼女に想いが寄っているんだろうと分かった。
その応援に彼の返事は返ってこなかった。
***
「ねぇ由里ってさ、佐藤くんと付き合いだしたの?」
「えぇ?」
本日最後の授業、体育の着替え中にそう聞かれて思わず聞き返した。
聞いてきた恵理子はすでに着替え終わっており、長い髪を二つに結び直している。「帰りにどこ寄る?」とでも言うように普通な声だった。
「まさか。なんでそう思ったの?」
「最近後ろでこそこそやってるし。さっきの日本史のときもなんかやってたでしょ」
「……エリって私より前の席だよね。しかも最前列だよね」
「このクラスで私が知らないことはないわよ」
不敵に微笑む藤原恵理子――成績、運動、人脈という全てにおいてパーフェクトな友人に由里は舌を巻いた。この女、死角はないのか。
「確かに最近よく話すようになったけど、別に何もないよ」
「そうかな?」
「しつこいなぁ……エリってそんなに色恋沙汰好きだっけ」
「いつになっても春が来そうにない友に、それらしい人物が現れたらいくら私だって聞きたくなるわよ」
「万年冬で悪かったね」
確かに、由里にはそういう噂は全くない。恵理子はその華やかな外見から噂になることも多々あり、その数は本人も把握できないほどだそうだ。そういう『女子』らしい話題にはほとんどノータッチで過ごしてきた由里には考えられないことである。
確かに今まで付き合いたいなぁと思ったことがない訳ではなかった。しかしそう考えた後で二人で出掛けるなど、告白後のお付き合いを想像するとなんとなく面倒だなぁという気持ちがあった。
周りのカップルの話を聞いていると、一緒に帰るとか週に何度も会うとかメールを頻繁にするという。由里としてはそんな話を聞いたこともあって、気が引けてしまうのだ。
うちはうち、よそはよそ。そう言いきれるといいが、由里がそうでも相手がどうかは分からない。生憎、自分の物ぐさな性格をなんとかするという選択肢はこれっぽっちもない。
こんな自分と付き合っているんじゃないかと疑われる翔も気の毒だ。そう思いながら恵理子に問いかけられてから止まっていた手を動かして体育服に腕を通す。と、丁度チャイムが鳴りだした。
「やばっ。ほら、さっさと行くよ由里!」
「え、ちょっと、まだ日焼け止めが」
「日焼けがなんだ。健康的に焼けなさい」
「自分がもう塗ったからって……!」
あたふたと日焼け止めクリームへと手を伸ばす由里に、諦めろと腕を掴んで歩く恵理子を恨めしげに見つめた。
ぜったい、絶対逆の立場だったら恵理子は授業に遅れてでも日焼け止めを塗ってるに違いない。そして颯爽と、堂々と遅れてやってくるはずだ。
体育祭間近の授業は陸上。日陰から外へと出たときにはあまりの日差しの強さに目を覆った。
ただでさえ色が濃いのに、これ以上焼けさせてどうする!
最後の抵抗として影と影の間を歩いていたが、結局最後はグラウンドへ出た。
「じゃあ、いつものグループに分かれて。記録は授業終了後に書いてもらいますからね」
笛を鳴らした先生に大半の生徒が気だるそうに動き始める。ただ走るだけならまだいいのにハードルはなぁ、と小さくため息をつく由里もその一人だ。
同じ班になった三組女子と順番を待ち続けていると、他のレーンで人のどよめく声が聞こえてそちらを向く。そして同じように感嘆のため息をついた。
「わぁ……すごい、はやい」
単語をつなげただけの言葉に返す人はいなかったが、思わずそんな言葉が漏れた。
そのレーンでも他のレーンと違わず、誰かが走っていた。だが、まるで障害物などないかのようにすばやく、軽やかにハードルを飛び越えてゆくその姿は見惚れてしまうほど綺麗だった。陸上部でもない、ただの帰宅部である由里が言うのも変だが、あのフォームこそお手本だと思った。
もしかしたら私が走るよりもハードルで駆けてゆく彼女のほうが早いかもしれない。そう思いながらぼんやりと完走した彼女を見る、と、その顔を見て「あ、」と気づいた。
にっこりと青空をバックに笑う彼女。その姿は由里の脳内で見覚えのある風景にすり替えられた。
バックに映るのは日の落ちかけている焼けた空。暗がりの教室で、こちらをギラリと睨む強い眼差し。そう、確かそんなだった。そしてどうして彼女がそんな瞳を向けているかと言うと……。
「そういえば、吉村さんって佐藤くんと別れたんだってね」
「え、なんで? いいカップルだったのに」
「『あんな酷い男だったなんて信じられない』って。吉村さんこの前から愚痴言ってるよ」
「うーんでもそれだけで爽やか男子、佐藤とスッパリ別れるなんて。さすが魔性の女」
「こら、もっと声落として!」
同じように彼女――吉村里枝を見ていた三組女子がこそこそ話す内容を聞いて、確信した。
彼女が佐藤翔の元彼女。この前に見たときは一瞬(しかも睨みつけられた)だけでじっくり見る暇もなかったが、改めて明るい場所で見ると彼女がいかに可愛らしい顔をしているか分かった。
まんまるで黒目が勝っている目に長い睫毛。さらさらと風になびく髪に縁どられた白く、小さな顔。にこりと笑う顔は以前見たおっかない形相を微塵も感じさせなかった。
恵理子も美人だが、吉村里枝に美しいという言葉は当てはまらないような気がする。例えるならば恵理子は凛々しい百合の花、そして吉村里枝は小ぶりなピンクローズといったところか。温室育ちで、外に放り出されたら生きていけないそんなイメージ。そこまで考えて自分が吉村里枝を否定的に考えていることに気づき、顔をしかめた。
どうやら翔に親身になり過ぎてしまっているようだ。だって、由里は知っているのだ。どんなにカッコいい彼が言葉を尽くしても、彼女は言葉を受け付けなかったことを。翔が不安げに何度も相談していたのを覚えているから。由里も確かに以前の彼は考えものだと思う。酷い言葉を彼女に放ったのは翔だ。だが、謝罪の言葉も聞こうとしなかったと報告されたときは驚いた。最初はまだそれも仕方ないかと思っていたが、いくら経っても軟化することのない彼女にやきもきした。
それにしても、『魔性の女』というのはどういうことなのか。それが気になって、さらに小さくなった彼女たちの会話が聞こえないかと耳を澄ませたが「はいはい、時間ないよー。自己ベスト更新するようにみんな頑張ってー」という先生の声でかき消された。
ざわついたまま感想を言い合う女子に先生がパンパンッと手を鳴らして切り替えさせるが、しばらくは自分たちが見た光景にどこか興奮したままだった。
ちらり、と練習の合間に吉村里枝を見ていた由里だったが、その間、二人の視線が合うことはなかった。