1 痴話喧嘩
――あぁ、来なければ良かった。
そう思っても時間は引き返せない。由里は夕日の射す教室を、正確に言えば、教室で繰り広げられている痴話喧嘩を見ながら思った。
「だから、」
「『だから』? もういい加減にしてよ。私のこと好きじゃなかったの!?」
「勿論いつになっても好きだよ」
「だったら――」
「そうだなぁ……君が女性である限り俺は好きだよ」
「ふざけてるの!?」
言い争っている彼女の方は確か、隣のクラスの女子生徒だったはずだ。幸いなのか分からないが廊下側に背を向けている彼女は忘れ物を取りに来た由里に気づいていない。
彼氏の方は由里のクラスの男子。名前は佐藤翔。賑やかな由里のクラスでも際立って賑やかな人物だ。
(私どうするべき……? このまま帰る訳にもいかないし)
だからと言って、この修羅場にズカズカと入り込む無神経さもない。
それにしても、と由里は教室の扉に隠れてため息をついた。
佐藤翔は、彼女を宥める気がないのか。
さっきの返答もそうだが「女性である限り好き」なんて相手に対して酷過ぎる。
更に、廊下を向いていた彼には由里がいることに気づいているはずだが、一向に切り上げる素振りもしない。
そうこうしている内に五時を過ぎた。
いまだに彼女の怒りは収まらないようで、恨み事を言う声はヒートアップしているような気さえする。
お前何とかしろ、という意味も込めて少し顔を覗かせて睨むと一瞬、佐藤翔と目が合う。
まさかこちらと目が合うとは思わなくて内心ドキリとすると、彼は場違いな笑顔を見せた。
――――嫌な予感。
「前から言ってたじゃん、俺」
「はぁ!?」
「さっきも言ったけど君のこと好きだよ。でも他の女子も好きだって」
「……好きな子? いたの、他に!」
「そーいう意味じゃなくってさ。俺はフェミニストだから、廊下ですれ違う女子もいいなぁと思うし……そこにいる浅野さんのことも好きだなーって思うんだよ」
浅野という名字はこのクラスに一人しかいない。ついでにこの廊下には由里の他にはいないのだから、必然的に振り返った女子生徒の視線を受け止めることになった。
真っ赤な顔した彼女の視線で体が貫通するような思いがした。
「――さいってい!」
その言葉は彼氏だけではなく由里にも向けられた言葉だろう。
最後にジロリと睨みつけて教室から出て行った。
居心地が悪い。
「…………え、なにこれ」
「あーぁ、やっちゃったな」
「『やっちゃった』じゃないよ。なんで私の名前出したの」
「浅野さん、迷惑そうだったし。教室に用だったんでしょ?」
「うん、忘れ物があって……ってそうじゃなくて」
よりによって人の名前を出すとは。
はぁ、とさっきよりも深いため息をつくと佐藤翔が手招いていた。
「ほーら忘れ物のノート」
「なんで知ってるの」
「俺が浅野さんのお隣さんだから」
「それなら早く言ってほしかったよ」
隣のクラスの女子と体育は合同だから、しばらく空気が悪いかもしれない。
そんなことを考えながら差し出されたノートを取ろうとするとノートが逃げた。
ノートを上に、由里が届くか届かないかの距離まで逃がした張本人は笑っている。さっきの今でよくこんなこと出来るなと由里も微笑んでみた。温かみの欠片も感じられない笑みで。
「…………佐藤くん?」
「こわっ。はいはい、俺が悪ぅございました」
「はい、どうも」
早々に白旗を上げた彼に苦笑。
が、さっきの修羅場を思い出し、いつも通り飄々としている佐藤翔へ控えめに声をかける。
「佐藤くんさ、さっきの彼女さんはいいの?」
「ん?」
「追いかける、とか……?」
「今までの経験上、こんな状態になってまた付き合うのは無理だと思うんだよね」
「……今までの、ね。流石というべき?」
「いやーそれほどでも」
「褒めたつもりはないよ」
カラカラと笑う彼の顔に暗い表情が見えない。
さっきの彼女のこと、そんなに好きではなかったの? そう聞きそうになって寸前で喉へ押し込んだ。偶然その場に出くわした人が言うことではないと思ったし、その後の返答が大体想像できた。
「俺さ、ホント女子はみんな可愛いと思うし誰が一番とかいないんだよね」
「付き合うときに言えばいいのに」
「言ったよ。俺はこんな男ですけどって。それでも相手はOK出したんだから」
想像した通りの返答が出てきた。
その言葉だけ聞いているととんだ女好きだが、彼の場合は違った。爽やかな容姿に好感の持てる笑顔。それが彼の本性を隠しているようで、女子の間でも人気だ。
流石に先程の彼女はそう思わないだろうが。
「それでも『女性である限り』ってのは酷かったと思うよ」
「あれ、ちゃっかり聞いてた?」
「聞こえたの、聞こうとしてないよ」
「そっかそっか。んーでも俺は浅野さんも好きだよ?」
「そういうことじゃなくって。女性だったら誰でもいい、みたいなこと言われたら彼女さんがよく思うわけないじゃない」
「へぇ、よくわかるね」
佐藤翔が感心したように言うが、これは特別なことではないと思う。
彼氏彼女の関係であれば相手の特別な存在でありたいと思うのは普通だろう。
由里は別に誰とも付き合ってないし、付き合いたい人もいない。それでも普通に友達との間もそういうのがあると思う。
「誰でもいい」というのは「君じゃなくてもいい」と言われるようなものだから。そう言われたら酷く傷つくに決まっている。
そこまで言って目の前に立つ彼の様子を伺うと、ポカンと不意をつかれたかのような顔をしていたから由里は焦った。
同じ女として、彼女の思いが伝わってほしいと思った。だが必死になったあまり、自分の考えを押し付けるように言ってしまったかもしれない。
そのことに気づくと恥ずかしさで顔に血がのぼった。
「あの、ごめん。ペラペラと喋って」
「…………」
「私、帰るね」
何も返事を返さない彼から逃げるように後ろを向く。
しかし、一歩踏み出す前に腕を掴まれた。
「待った」
「ちょ、ごめんなさい。無神経だった。いくらお調子者でも限度はあるものね? 本当にごめんなさい!」
「なんで謝るの?」
「……おこってないの?」
「全然。むしろ…………うん、何て言うか」
そう言って言葉を濁す彼が気になって後ろを見上げる。
と、由里は自分の目を見開いた。
「なに赤くなってんの」
「え、俺、赤くなってる!?」
「耳まで真っ赤」
佐藤翔が赤くなるところを初めて見た由里はしげしげと見上げる。
本人はそうやって見られたくはないようでうろたえていたが、そういうところも由里には新鮮だった。
「怒ってないんだったらどうしたの」
「いや、その。浅野さんの話聞いてたら、すごいな、と思って。俺もそう考えればいいけど、つい……軽いことポンポン言っちゃうから」
駄目だな、と眉を下げる彼は小さな子供のようだった。男子だから勿論背も肩幅も由里より大きいのだが、雰囲気が最初とは違っていた。
目は口ほどに物を言う、という言葉を思い出した。彼の今の目はどうすればいいのか分からない子供の目だ。
だからだ、と思う。普段は絶対にやらないことをしたのは。
いまだに由里の腕を掴んでいた手を腕から放す。これにピクリと彼の手が強ばったが、それを放るのではなく自分の両手で包みこんだ。
「まぁ人間すぐには変われないからね。ゆっくりでいいから考えてみる、とか」
「…………もし、また傷つくこと言ったら?」
「相手追いかけてでも言いなおせばいいんじゃないかな。一人じゃどうにもならなかったら私も協力するよ?」
一人で考え込んでいても泥沼化するだけだから。
どうかな、と言う由里への返答はない。
が、さっきの沈黙とは違うのは分かった。包んでいた大きな手に力が入る。きゅっと力強く握られて安堵の笑みが浮かんだ。
「……ありがとう、浅野さん」
「うん。また偉そうなこと言っちゃってごめん。私が役に立つかどうか分からないけど」
「そんなことないよ! こうやって言ってくれるだけで俺、勇気出るから」
「なにそれ」
見上げた彼の表情に暗さはない。
ただ照れたように笑う彼は今まで見たことがない表情だ。それを見て、良かった、と思う。
すると、不意に握っている手とは反対の手も添えて、両手を使って由里の手を握り締めた。
「今度はなに?」
「勇気をもらってる」
「はい?」
「これから謝ってくるから」
「――そっか」
誰に、とは言われなくても分かった。
不安げに揺れる目はまだある。けれど彼が彼女へ謝りたいという気持ちがあるなら、それは伝わるだろう。
最後に由里の方から「勇気注入!」とより一層強く握る。慣れないことをするから顔は赤いが気づかないフリをした。
「ほら、いってらっしゃい」
「おう。じゃ、また明日な浅野」
「頑張ってよ、佐藤」
笑う翔の背中をバシッと叩き、教室から追い出す。
小走りに去っていく背中をしばらく見ていたが、日が更に傾いていることに気づき、慌てて由里も教室を出た。