06.
あまりにも静か過ぎる。
森の奥に足を踏み入れた李秀はその異常さを直ちに察した。
木々を飛び交う虫達の羽音。
枯葉を踏み歩く獣達の足音。
葉々を揺らす鳥達の囀り。
それは即ち、森の息づかい。
まるで森が死んでしまったかのようにそれが無い。
「父さん、森の音がしない」
「……お前は村へ帰る用意をしろ。俺は奥まで行って様子を確かめてくる」
李秀は傍らにいた息子に指示を出しながら自らの装具を確認する。
緑を基調としたローブに、若草色のブーツ。その背中には矢筒が背負われ、左手には装飾の類が削ぎ落とされた無骨な弓。
きつく弦を張り、臨戦態勢を整えて傍らの息子へと口を開く。
「いいか? 急ぎ村長の家へ行きこの異常を伝えろ。それが〈狩人〉たる私達の役目であり義務だ」
彼ら二人の存在は村にとっては貴重な〈狩人〉だ。
野兎や鹿、鳥類に加えてモンスターをも仕留めるその腕前は農村であるその村にはタンパク源を得るものであるのと同時に、防衛における戦力となる。
李秀は〈大地人〉としてはレベルが高く、四十二。
この森に住む〈貧狼小鬼〉程度なら軽々と撃退できるほどの強さを持っている。だが、彼自身身の程は弁えていて、精々相対できるのは二匹まで。三匹以上は逃げの一手を迷わず選択する。そういった冷静さもまた〈狩人〉にとっては必要な要素だ。
なぜなら〈狩人〉は〈戦士〉では無いのだからただ敵を倒せばいいというわけではない。食用の部分を如何に傷つけずに倒すか。如何に罠へと得物を誘導するか。常に思考し続ける事こそが一流の〈狩人〉なのだ。
「状況を説明すれば、あの聡明な村長のことだ。〈冒険者〉へ赤札を発布するだろう」
もっとも〈五月事変〉以降、理由は分からないがそのシステムはうまく機能していない。そんなものに頼るのは避けたいところだがこの件に関しては自分達〈大地人〉が解決できる範疇を超えている。ならば〈大地人〉を超越する〈冒険者〉に委ねるしかない。
息子も自分と同意見のようで、静かに頷く。
父親ながらに感心すると同時に少し落胆する。
自らが出来ないことを出来ないと断言することは悪いことではない。
むしろ、このような異常事態時に出来ないことを出来ると言い張り村を危機を運ぶぐらいならば、出来ない事を出来る人間へと事態を委ねる方が賢明だと考える。
李秀自身も若い頃はどちらかというと出来ない事を出来ると言い張るタイプの青年で、死の危機に瀕したのは二度や三度ではない。その都度に屈強で精強な〈冒険者〉によって命を救われてきた。その繰り返しで狼少年は大人になり、村を代表する〈狩人〉になったのだ。
そうやって培ってきた自分の価値観と今この時点でそれを同じくする息子を見て嬉しく思わないわけが無い。自分が教えてきた事がその身についているということに他ならないのだから。
しかし、向こう見ずな所があってもよかったのではと思わずにはいられない。
大人となった自分は少年時代を経てのものだ。だが、息子はその少年時代を駆け足で走りぬけた。
だからこそ、少年時代に得るはずだった失敗のほとんどを息子は置き去りにしてしまった。
それが、後々影響を与えなければいいのだがとは思わずにはいられないのが父親の性というものだろう。
「……父さんも気を付けて」
息子はそんな父親の意も知らずに、森の地図を広げて入り口までの最短ルートを再確認している。
〈狩人〉にとって森とは庭であり家だ。
その脳内には紙に書かれた地図なんかよりも精巧な地図が描かれている。
だがそれでもそうやって確認を怠らない辺りが息子の非凡さの一つだ。
「あぁ。俺も死にたくは無いからな。身の程は弁えている」
「うん。僕も父さんからまだ教わってないことたくさんあるしね」
「そうだな。俺もまだお前と一緒に酒を飲む夢が叶うまでは死なんさ」
そう言葉を交わし、父親と息子は互いに背を向けて走り出した。
――そして、それが親子が交わした最後の言葉となる。
■
李秀はいつもよりも慎重にスキルを使用しながら森のさらに奥深くへと足を運ぶ。
そこは普段では滅多に足を踏み入れないゾーンではある。
森の最奥には神代の遺跡が点在していて〈大地人〉にとって畏れ多い土地となっているからだ。
だが、それに構わず突き進む。
〈狩人〉のスキル〈森の住人〉。極端に自分の存在感を消すことで外敵にに察知されにくくなる――いわゆるステルス状態へと移行し、さらに通常攻撃までならばステルス状態を維持できるという〈隠行術〉を上回る性能を発揮するスキルである。もっとも、その発動条件はそのスキルの名前からも森林ゾーンに限られる。
(あれは……〈貧狼小鬼〉か?)
そして、そこで発見したのは〈貧狼小鬼〉の群れ。
ここに来るまで他のモンスターや野生動物を見なかったのは解せないが、それはとりあえずいい。
ぞろぞろと移動する灰色の群れを目で追い、その数を数える。
(ひぃ、ふぅ、みぃ……)
だが、李秀は二十を数えたところで中断する。
〈貧狼小鬼〉は群れで行動するが、その群れは最大でも二十四匹程度の筈だ。
他の土地ではどうなのかは知らないが、少なくともこの森では二十四匹が最大の数だと記憶している。
(数えるのも馬鹿らしい程の群れだと……ッ!)
移動した〈貧狼小鬼〉の先にいたのは視界を埋め尽くす程の〈貧狼小鬼〉。
それは不気味なほどに静かであり、まるで号令を待つ騎士のようですらある。
おかしい。
異常だ。
なんなんだ、これは。
元来の気性は非常に荒く、同種同士でも争いが耐えない種族で共食いすらするほどのものだったはずだ。
それが数千匹。
(しかし、これほどの〈貧狼小鬼〉がこの森の何処に住んでいたというのだ……)
〈狩人〉だから解ることがある。
あれだけの数の〈貧狼小鬼〉がこの森に常住していたとすれば、もとより悪食、雑食、暴食と知られる〈貧狼小鬼〉だ。
この森の食料など半日と持たない事は一目で看破出来るほどに明白だ。
よその森から移動してきたと考えても辻褄が合わない。
では、いったい奴らは何処から現れたのか。
(なんだ、あの黒い染みは)
そしてスキル〈鷹の目〉を使用した李秀は一つの黒点に気付く。
その周囲は明らかに〈貧狼小鬼〉の密度が高い。
黒点から影が噴出し、集まり、形を成す。
次々と、続々と。
まるで、そこから〈貧狼小鬼〉が産まれているように。
その、異常ですらない超常。
李秀は頭の中に鳴り響く警鐘を確かに聞く。
今すぐに逃げなければ死ぬ。
何がどうなって死ぬことになるかまでは分からない。
しかし、このままでは何がどうあっても自分は死ぬということは直感で理解した。
「マサカマサカ、人形如キニ見ツカルトハ思イモシマセンデシタ」
だからこそ、他の事に気付くのが遅れた。
「なん……ごふっ!」
自らの背後に立つ異形に。
気付いたときには刃物のようなモノに心臓を貫かれていた。
「誇ッテイイデスヨ。人形ノ身デわたくしタチニ気付イタトイウ事ト、コレ程マデ近クわたくしニ悟ラレズニ近ヅケタ事ハ」
そう言葉を発する異形は、無遠慮に無作為に無感情に言葉と共に何度も何度もその身体を串刺す。
「サテ、頃合イモ頃合イデスカ。――獣ドモヨ、汝ラガ思ウガ侭ニ、願ウガ侭ニ、欲スルガ侭ニ、存分ニ。エェ、存分ニ喰ライ尽クシナサイナ」
既に物言わぬ肉塊へと成り果てたモノへ最後に大きく突き刺す。
異形から発せられた宣誓は妖艶に、無機質に。
ただ、その宣誓は静かに佇んでいた〈貧狼小鬼〉を雄叫びの下に暴走させるのには十分すぎた。
■
「はぁっ……はぁっ……」
李天は必至に森を駆けていた。
李秀に比べれば未だ未熟ではあるものの、彼もまた〈狩人〉。
森の異変には敏感である。
齢十六と経験の浅い彼ですら、今の森の異変をその身に確かに感じていた。むしろ、父親のような経験がないからこそ余計な探求心など持たず、素直に恐怖心を抱えていた。
(急がないと……っ)
だからこそ、必至になる。
村の命運を握っているのはその身なのだと感じていたから。
(僕だって皆を守れるんだ……っ!)
物心ついた頃から父親に連れられて遊んでいたこの森は彼にとっては庭も同然であり、村への最短距離は身体が知っている。先ほど確認した地図と照らし合わせて淀みなく最短距離を彼は我武者羅に突っ切る。
(早くっ! 早くっ!)
彼が急ぐのには理由がある。
村に想い人がいるのだ。
その娘は村でも評判の器量良しで知られるさる貴族の分家筋に当たる村長の一人娘。
村で重宝されているといっても所詮は〈狩人〉。自分と彼女との身分違いは重々承知している。
だから、期待せずに入られない。
村を異変から守ったヒーローならば、釣り合いはとれるのではないかと。
それは李天にとっては都合の良過ぎる話だ。
けれど、期待しないということなど出来はしない。
(急げっ!!)
結局のところ、少年が頑張る理由はそんなものなのだ。
いや、そんなものだからこそ必至に頑張れる。
今までの最速時間で森を抜けた李天は森の入り口に繋いでおいた馬へと視線を向ける。
一息入れる間もなく繋いでいた紐を切り、馬に飛び乗る。
「よしっ!」
李天は手綱を引き、馬を走らせる。
馬もまた乗り手の意思を感じ取り、いやまるでそこから逃げ出すかのような驚異的な速さをもって森を離脱する。
このまま行けば三十分足らずで村まで辿り着ける。
村から『大都』までは早馬で三時間。
これなら何とかなる。
そう確信した矢先。
森から響く暴音を聞いた。
森から溢れ出す幾重にも重なる灰色の波を見た。
「――え?」
それは〈貧狼小鬼〉。
ギラギラとした眼を血走らせ、口からは涎がダラダラと零れ落ちる。
それは瞬く間に李天へと追いつき、そのまま追い越していく。
まるで、目の前のご馳走にしか目がないように。
「ま、待――」
そして瞬く間に李天の村を蹂躙していった。
2015.4.20 改訂