扇風機の声
その熱帯夜、私は扇風機の音に、人の声が混じっていることに気づいた。
首振りにしていた。ヴーン、ヴーン、と低く唸りながら、風が左右に流れる。その、いちばん右を向いた一瞬だけ、羽根の音の奥に、囁きが聞こえた。
最初は、言葉になっていなかった。だが、耳を澄ませるうちに、たしかに、誰かが何かを繰り返しているのだと分かった。低い、押し殺したような声で。首が右を向くたびに、途切れ、途切れに。
不気味だと思って、扇風機を止めた。とたんに、暑さで眠れなくなった。仕方なくまた点けると、右を向いた瞬間、また、あの囁きが戻ってきた。
私はスマートフォンで録音してみた。五分ほど回して、布団の中で、イヤホンで聞き返した。
扇風機の唸りだけが、延々と続いていた。声は、どこにも入っていなかった。何度、巻き戻しても。録音の中に、あの囁きは、存在しなかった。
翌朝、私はその話を、何気なく母にした。扇風機が、右を向くたびに、誰かの囁きが聞こえる、と。録っても入っていないんだ、変だろう、と。
母の箸が、止まった。
みるみる顔色が変わっていくのが、わかった。母は、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように、こう言った。
「その扇風機、もう、捨てなさい」
どうして、と訊いた。母は答えなかった。ただ、うつむいて、小さな声で、こう付け足しただけだった。
「……昔ね。この家で、同じことを言っていた人が、いたのよ」
その人が誰だったのか、母は、決して言わなかった。私が何度訊いても、口をつぐんだまま、二度とその話には触れさせなかった。
扇風機は、その日のうちに、母が自分でどこかへ持って行った。家から消えた。
けれど、私はときどき、思い出す。あの、右を向いた一瞬の囁き。あれは、いったい何を、繰り返し私に伝えようとしていたのだろう。そして、母がなぜ、あんなにも早く、私からそれを遠ざけたのだろう。
昔、同じことを言っていた人。その人は、今、どこにいるのだろう。




