第三十九章
会議が終わった頃には、夜が更け、戦場跡は静まり返っていた。先ほどまでは共に火を囲み糧食を分けあっていた人も龍も、今はそれぞれの天幕内で戦いの疲れを癒している。
会議の行われた龍の天幕内を片付け、自身の天幕に戻ろうと外に出たアンドリは、そこに一人佇む人影に気付いた。
「兄上」
踵を合わせて礼を取る。アントニウスは優しげに微笑んでいた。
「本当によくやってくれた。王都にもどったたら論功行賞を行おう」
「身に余る光栄でございます。ですがこの度の戦いで自らの未熟を再確認致しました。一層の精進を重ねる所存でございます」
アントニウスは苦笑する。それは珍しいほど無防備な笑みだった。
そして彼は、口を開こうとしてほんのわずかに躊躇いを見せた。
王を前にしても。兵たちを率いる時も。龍を相手にした時でさえ、一度たりとも迷いを見せなかったのに。
ゆっくりと、アントニウスは安道を見上げる。
「私を、兄と呼んでくれるのだな。アンドロニコス」
その静かな問いは、どんな刃よりも深く安道の胸を貫いた。
安道の表情が強ばらせ慌ててその場へ膝をついた。
「身の程をわきまえぬ発言、ご無礼をお許しください」
だが、その言葉に傷ついたような顔をしたのは、アントニウスの方だった。
そして――アントニウスもまた、安道の前に膝をついたのだった。
そうするとアンドリよりも目線が低くなる。
慌ててアントニウスを立たせようとするアンドリを制し、アントニウスは弟の腕をそっと掴んだ。
「お前が辛い思いをしている時……私は何もしてやれなかった」
目元が、火の明かりを受けて僅かに潤んでいる。
「孤独だった時も……心ない言葉や手に傷つけられていた時も……」
かすかな吐息が漏れる。
「私は、傍にいてやれなかった」
王太子を直視する無礼を自覚しながら、それでも安道は美しい光を湛える兄の眼から、視線を離せない。
「それでも……」
アントニウスは見上げる。
「それでもお前は、私を兄と呼んでくれるのか」
胸が痛い。喉が震える。必死に言葉を絞り出す。
「兄上。当然でございます......」
だが直後、自分の発言に気づいたように慌てて目を伏せた。
「い、いえ……その、お許しいただけるのであれば」
アントニウスはゆっくりと安道の右手を取った。
温かい手だった。
そしてそのまま安道を立たせる。
だが立ち上がっても、彼は手を離さなかった。そのまま一歩近づき、背の高い弟を抱き寄せる。
安道は一瞬、呼吸を忘れた。
この温もりが、自分のものに向けられているはずがないと思ったからかもしれない。
あるいは、手を伸ばした瞬間に消えてしまうものだと、恐れたからかもしれない。
だがアントニウスは、ただ優しく抱き締める。
「お前を守るべきだったのは兄である私なのに」
その声が安道の肩越しに微かに震えているのがわかる。
「それなのに、お前に助けられ……支えられ……幾度となく救われ続けてきた」
抱き締める力が僅かに強まる。
「……不甲斐ない兄だが、これからも私の傍にいてくれるだろうか」
なにもしてやれなかった?
そんなことはない。
アンドリはいつもアントニウスの心に触れ、救われてきた。
「......それこそが、俺の生きる理由でございます、兄上」
自分を見てくれるその眼差し、差し伸べてくれる暖かい手。
もしアントニウスがいなければ。自分は、ここまで生きてこられなかっただろう。
視界が滲む。
アントニウスは震えるように息を吸う。いつも纏う気品も洗練された物腰も、消えていた。そこにいるのは、王太子ではないただの、青年だ。
「アンドロニコス、ありがとう」
何かを返そうとしても、喉が詰まり、声にならない。
アンドリは堪えきれなくなり、アントニウスの肩にそのくしゃくしゃな顔を隠すように埋める。
アントニウスも大きな身体を受け止め、背中を抱き返した。
その二人の様子を、離れたところからドレイクが見守っていた。
アイリーナの遺した子どもたち。ここに彼女がいてくれたら、と考えずにいられない。
ふと振り返ると、ドレイクの背後に龍達が立っていた。牙野、天角、剣江、そして勇輝子。みんな慈愛に満ちた優しい笑顔で笑っている。
ドレイクもまた、目の端が潤むのを堪えるように、ぎこちなく笑った。




