第三十五章
「魔法使いたちを、殺してしまったのか」
すさまじい風切り音とともに響いた声は、絶望の深淵から聞こえてくるようだった。
竜化している自分が見上げるほどの巨体。空を覆い隠すほどの巨大な翼、鞭のようにしなる長い尾、頭から背には鋭い棘の列が並んでいる。
全身を覆うのは、煤竹色の鱗板。
これが、暴虐竜、俺の父親。
これは。これはだめだ。
これは、世界の頂点に君臨する生き物だ。これと相対してしまったら、生き延びる術はない。
勇輝子に睨まれたアレクシオス王も、こんな気分だったろうかと自分でもバカバカしいと思うようなことを考えていたら、頭上から声が降ってきた。
「もう休眠期が来たのか。随分早かったな。となれば、寿命も短かろう」
「...ええ。今日が俺の命日でしょうね」
せめてもの皮肉を返す。勇輝子が勝てなかったこの竜に、自分の力など及ぶはずもない。どう見てもこの場に活路はない。だがイミリーシャ王太子だけは落ち延びさせねばならない。テオドロスと相乗りするアントニウスに言った。
「......お逃げ下さい兄上」
「お前はどうする気だ」
「...騎禽ならば王都まで半日で辿り着けます。陛下と共に少しでも遠くへ」
「答えになってない。お前はどうする気だアンドリ」
何を答えようとも、大して役には立たないという意味にしかならない。祖国の為に帰ってきたつもりだったが、結局自分は近衛騎士団員としても兵器としてもあまり役には立たなかったなと、申し訳ないような気持ちになった。
「...多少の時間は何としても」
稼いでみせます、と言葉を終わらせることが出来なかった。風を切って飛んできたのは、竜の尾だ。アンドリの竜体が、蒸気の吹き出す大きな割れ目に叩き落とされる。
「アンドリ!」
「団長閣下! この場は引きます!」
テオドロスが、手綱を引こうとする。アントニウスはそれを制した。
「命をかけている弟を見捨てて、イミリーシャ王となる私が尻尾を巻くわけにいかん!」
「王となる御身なればこそ貴方様は死んではなりません! チェイレイ隊長の言った通り、王都に戻ってご安全な場所へ!」
「暴虐竜の復活がなった以上、この地上のどこにも安全な場所などありはせん!私を降ろせ!お前らは王都に飛べ!」
するとアンドリが落ちた割れ目が地響きを立てて盛り上がった。爆発音とともに、マグマが吹き上がる。そして暴虐竜と同じ姿をした生物が鎌首をもたげ、割れ目から這い上がってきた。
二頭目の竜は咆哮を上げた。翼が迫り上がり、長い尾が揺れる。
「休眠期が明けたか。祝福を」
「ありがとうございます」
竜の姿をしているので表情は作れないが、アンドリは心の中で少し笑った。龍達がここにいたら、きっと同じように祝福の言葉をくれた事だろう。
暴虐竜ドレイクが祝福の言葉を贈ってくれたことには驚いたが同時に、言葉そのものは、単純に嬉しいことに思われた。
アンドリが動く。休眠中とは打って変わって体が軽い。
思い切って翼を広げ、飛び上がった。これまで持たなかった尾が、自然に動く。初めて正しくバランスを取り無理のない体勢でいられることが、これほど楽だったのかと気付かされる。
「高く飛び過ぎるなよ。高度が上がるほど、気温は下がる。体に良くないぞ」
一瞬で追いつかれ、その大きな翼の羽撃きに体勢を崩される。堪えようとしたところですり抜けざまに長い尾の強烈な一撃を食らって再び地面に叩きつけられた。
遊ばれている。
その気になれば一撃で自分の喉笛を食いちぎることができるはずである。とどめはいつでも刺せるが、手に入れた玩具を楽しみたいとでも思っているのか。
竜化した状態では表情がないはずなのに、アンドリはドレイクが嬉しげに笑っているように見えた。
笑っている彼を見て、なぜか自分も嬉しいような気がした。
死と滅びの権化を前にして、自分は気が触れてしまったのだろうか。
「父さん」
なぜかふと、彼に呼びかけようとしてその言葉が出た。ドレイクはピクリと反応する。
「本当に、貴方はおれの父さんなんですか」
「......あの娘が他から竜精鱗を授けられていないのならな」
竜精鱗とはなにか、授けるとはどういうことか、具体的なことは分からないが、それが自分の出生に繋がる鍵であり営みであることは想像できる。アイリーナは竜の力の一片を切り取ることに成功したのだと魔法使い達は言った。
だそれは、本当にこの父竜を倒すためなのか。
夢で見た母は、笑っていた。その母が指し示した父は後ろ姿だった。
「母さんは、どんな人でしたか」
ドレイクは意表を突かれたように黙った。何と答えたものか、迷っているように見えた。考えを廻らせているのか、少しの間沈黙し、やがて言葉を選ぶようにゆっくり口を開いた。
「おれは人間の美醜はわからんが、心根の美しい娘だった。勇敢でもあった。この暴虐竜の姿を前に、少しも恐れなかった。お前とお前の兄のように」
アンドリはふと背後を振り返った。空に浮かんだままでは今の戦いの爆風に耐えられないので、小高い丘の上に降り立ってマグマを避けながら、アントニウスは戦いを見守っていた。できることが何もないのはわかっていたが、それでもアンドリを独りにさせるつもりはなかった。
「母さんの話を、もっと聞かせてもらえませんか」
「おれを倒せたらな」
「......絶対に無理じゃないですか。せめてかすり傷一つ付けたら、くらいにまけてもらえませんか」
ドレイクは目を瞬かせて、そして大笑いした。アンドリも笑う。暴虐竜を相手にこんな物言いができるのは、きっと龍乃国で勇輝子達と、楽しい会話をずっと交わしてきたからだろう。たった一年半だったが、勇輝子達がくれた経験が、アンドリに力を与えてくれる。今でも勇輝子達が守ってくれているようだった。
何とか流れを変えられればと思ったが、ドレイクはひとしきり笑った後、再び戦意を取り戻した。
ここまでか。
ドレイクが行動を起こそうとした、その時だった。
噴煙立ち上る空が、更に暗くよどんだ。冬の寒空に雷鳴が轟き、ドレイクの身体に電撃が落ちた。




