第三十一章
龍乃国にいる間、ずっと世話してきた碧斗を餞別に授けられ、アンドリはイミリーシャに帰還した。
降雪量の増えつつある、アンドリにとってはつらい時期であるが、龍乃国はアンドリに防寒外套と、イミリーシャの近衛兵団の隊服と同じものを体に合わせて誂えてくれた。補助器具を着けたまま履けるように作られた靴もだ。この隊服にも靴にも、懐炉を仕込めるよう内側に細工をしてくれてある。勇輝子が持たせてくれたものだ。
国を離れていたのは一年半ほどだが、その一年半でのアンドリの変わりように、誰もが目を見張った。身長がさらに伸びたこともだが、目の光が以前とは比べ物にならない強さを放っている。以前は周囲の目を窺って息をひそめるようであったものだったが、今はまるで、自分を脅かすものは何もないと知っているかのようだ。
国王アレクシオスに謁見を許され、王の前に跪いて帰還の報告と改めて忠誠を誓う言葉を述べたが、王のほうが完全に気圧されていた。
「あまり脅すな。龍乃国との連日のやり取りで神経をすり減らしていらっしゃるんだ」
言葉は苦言だが、アントニウスはおかしくて仕方ないというように笑っている。
だが、ひとしきり笑った後、すっかり高くなったアンドリの顔を見あげて言った。
「お前の帰還は大きな戦力だ。大変ありがたいが、これで本当にいいんだな」
その問いにアンドリは迷いなく答える。
「はい。俺はイミリーシャの近衛騎士団員であり、臣民です。龍乃国の方々の御恩にも報いたく思いますが、今は祖国の為に」
アントニウスはそれ以上何も言わなかった。
そして第一小隊長改め航空騎禽隊長として隊を組織し実践に投入できるよう準備を命じた。
暴虐竜の破壊が始まったのかと思ったが、そうでなく南の山岳地帯を統べる領主同士が小競り合いを起こしているという。近在の騎士団が治安維持に出動しているが、いよいよ双方の領地軍勢同士の緊張が高まりつつある。
その状況を抑え込むために近衛兵団が投入される見込みであるが、山岳地帯であるため騎禽を実用化したいとのことであった。
アンドリは、重装歩兵第一小隊改め航空騎禽隊と、碧斗を加えた六羽の騎禽を率い、さっそく訓練を開始した。龍乃国で得た技と知識を、人の軍に落とし込んだ前代未聞の部隊編成であった。
龍は戦うとき必ず龍化し、自ら空を駆ける。ゆえに龍乃国において騎禽に戦闘の役割はなかった。寒冷な高空を渡るための乗り物、龍にとって騎禽とは移動手段にすぎないのだ。鰐尾に仕込まれた騎乗方法も、戦闘を前提としていない。
編成は三人一組。操縦手、射手、そして騎手長。
操縦手は、騎禽を御す者だ。知能の高い騎禽に侮られぬ胆力と、繊細な手綱さばきが要る。
射手は、風と揺れを読み、速度を味方につけて空中で的を射抜く。
騎手長は全てを見る。騎手、射手、進路、敵、味方、前後左右、そして上下。迷えば、三人とも死ぬ。
さらにアンドリは続ける。
「鞍も三人が乗る前提で設計する。騎禽との相性、動体視力と、情報処理能力、そして弓の腕を評価し試験的に組み分けを行う」
訓練は王宮裏手の放牧地を使って地上から始まり、やがて放牧地の縁に広がる断崖から空へと移る。
最初の飛行で、何人が悲鳴を上げたか知れない。
どんな戦場でも足場がなかったことなど、ない。どれほどの多勢にも、雨のような数千の矢の飛来も、恐れ知らずだったはずの自分たちの勇敢さは、踏みしめる大地があってこそだったのだと思い知らされるが、風は刃のように容赦なく頬を打つ。
「騎禽の姿勢に逆らうなアリ!」
怒号が届く前に、体勢を崩したアリが空へ投げ出された。凍りついた空気の中で、彼の身体は、風に弄ばれる洗濯物のように回転する。
「――碧斗!」
蒼い騎禽が空を裂いた。アンドリを乗せた碧斗は垂直に降下し、その巨大な肢で落下するアリを捉える。
「もう大丈夫だアリ」
地上に降ろされてからもアリは衝撃に全身を震わせ息を詰まらせていたが、膝をついて覗き込んでくるアンドリに、何とか返事をする。
「お手数、お掛けしてすいやせん隊長......」
「いいんだ。ケガはないな」
「漏らしましたがね。あんたの下についてから、勲章刻む機会なんざ、すっかりなくなっちまいましたぜ」
「それはすまん。だが次回は用を足してから来い。空中で傘は差せない」
一斉に笑いが起きる。一団はあっという間に気持ちを立て直した。
アンドリは大した奴らだと感心したが、隊員たちが気力を奮い起こせたのは、アンドリの見事な飛翔を見たおかげだとテオドロスは思った。
この隊長の下で飛ぶ限り、最悪の事態でも彼の騎禽が必ず掴んでくれる。
そしてなにより、幼いとすら思っていた若い隊長の驚くべき成長ぶりは隊の空気を明らかに変えた。
少し前までのアンドリなら、ああした軽口にどう返せばいいか分からなかっただろう。本気で謝罪し、隊員たちの間に恐怖を残したままにしていたはずだ。
だが今は、隊を率いるということがどういうことなのか、無自覚ながらも理解しているように見えた。
恐怖は完全に消せなくとも、かつてない強固な信頼が築かれてゆき、やがて信頼は、動きに反映される。
射手の矢は風を裂いて的を射抜き、騎手は騎禽と意思を共有するように、自在に翼を操る。騎手長は、手と足を使った合図ひとつで騎手と射手に的確な指示を出し、他騎と交信して連携を重ねていく。
三人と一羽は、やがてひとつの“機動体”として、空を駆けるのだった。
「……仕上がってきておりますな」
ある日の訓練後、テオドロスが静かに言った。
その視線の先では、編隊を組んだ騎禽たちが、夕曇りの中を滑るように飛んでいる。
「たいしたものです」
「そうだな。本当によくやってくれる連中だ。お前も」
テオドロスは首を振った。隊員たちが見事な成長を見せたのは、隊員たちの努力以上に、これを率いるアンドリの手腕だ。
そう言おうとしたところでテオドロスは、アンドリが振り返って寄越した視線を受け止めた。
「隊長? いかがされましたか」
「テオドロス。一つ試してみたいことがある。念のため、お前も空に上がってくれ」
テオドロスは騎手長、騎手、射手のいずれにも対応できる技術を身に着けていた。
一方のアンドリは一人で飛び、矢を射る訓練を繰り返していた。何かの決意めいたものが全身から立ち上っているような気がする。
「かしこまりました。すぐに支度します」
冬の日照時間は短い。もう光がなくなるまで間もないが、テオドロスは自身で騎禽に跨り、アンドリの碧斗を追い空に上がった。
隊長の意図を汲み取ろうと様子をうかがっていた次の瞬間。
「誰も下にいないな。もし失敗してもぶつかるのは俺だけだ」
「――――!」
言うやアンドリは、騎禽の背から宙に身を躍らせたのだった。周囲を旋回していた隊員たちも肝をつぶした。
テオドロスが自身の騎禽に指示を出そうとした瞬間、音を追い抜いて碧斗がテオドロスの脇を切り裂く。
その両肢がアンドリの両肩を捉えた。吊り下げられた状態から碧斗が速度を上げると羽毛の胸にアンドリの背が密着する。翼を背負った形でアンドリは弓を番え、地上の的をすり抜けざまに射貫いたのだった。
続いてアンドリをその肢に掴んだ碧斗は高度を下げた。
「碧斗!放せ!」
鉤爪の生えた指が開く。今度こそ地面にたたきつけられるかと思った。が、アンドリは佩いた剣に手を掛けながら両の脚で着地を決めると、そのまま矢の的に抜き打ちざまの斬撃を叩き込んだのである。
テオドロスも隊員たちも、今自分が何を見たのか、全く理解できなかった。
「弓を番えるにはちょっと肩が窮屈だが、いけるな」
降りてきた隊員たちに囲まれてアンドリは満足そうに笑ったが、周囲は誰も笑っていない。アンドリは慌ててなだめる。
「すまん、お前たちにこれをやらせようというんじゃないんだ。アリが落ちた時に思いついて。その、碧斗なら手綱を握らなくても、俺の指示をよく理解してくれるし、これなら両手が空くなと。竜化して地上で戦う必要が出た時もすぐ戦闘態勢を取れるんじゃないかと思って」
「隊長殿。んなこたどーでもいいんすよ」
ティゴが身体の大きな上官に怒り心頭で詰め寄った。
「アンタ一体なにやってんですか!オレたちを戦いに出す前に心臓発作で殺す気ですかい!」
怒鳴り声は途中でかすれた。
怒りだけではない。恐怖。安堵。
目の前で誰かが死にかけるのを見せられた生々しい恐怖。
「隊長殿、せめて……事前に仰ってください……」
テオドロスも青い顔をしている。押し殺しきれなかった感情が噴き出したような声だった。
「さすがのあんたも……死んだと思いましたぜ」
ティゴは舌打ち混じりに悪態を吐き、両手で乱暴に髪をかき上げた。戦場でも軽口をたたく誰よりも勇猛果敢な戦士が、今はその声に、一切の余裕を持てずにいた。
「空から石っころみてえに落っこちやがって……」
掠れた声で言う。
「俺たちにどうしろってんです? 間抜けみてえに見てるだけでいろってんですか?」
アリも、自分が落ちた時よりも震えている。
「オレたち、今……何もできなかったです」
誰も動けなかった。誰も助けられなかった。
「ただ見てるだけで、隊長が地面に叩きつけられるのを――待つしかなかった」
ぎり、と歯を食いしばる音がした。
「あんたがオレに飛んできた矢をその背中で受けた時もそうだった。見てるだけで何もできなかった。あんたが何もさせなかった」
その声は、自分でも抑えきれないほど震えていた。
「命を預けてもいいと思ってる相手が、自分のこたどうでもいいみたいに投げ捨てるのを見せられる気分……少しは考えてみやがれっつーんですよ!」
アンドリはその言葉を受け、小さく身を縮めた。怒られていることが怖かったからではない。
以前なら、この場をやり過ごすためだけに謝っていたかもしれない。
だが、彼らの怒りの下にあるものが何なのか、今のアンドリにはわかっていた。
信頼。忠誠。そして、深い情。自分の命を軽んじることは、その想いを踏みにじることなのだということも。
アンドリはようやく、自分にとっての危険感覚が、彼らの目にはどれほど無謀に映っていたのかを理解した。
龍であれば、あの程度の落下で大騒ぎになることなどまずないが、自分が率いているのは人間の部隊なのだ。
「……お前たちの言う通りだ」
アンドリはようやく口を開いた。
普段ほとんど聞かれないほど沈んだ声だった。
巨大な体に似合わず、叱られた子供のようにしょげて見える。
「軽率だった。許してくれ」
「――チェイレイ隊長殿」
ようやく衝撃から持ち直したテオドロスだった。
ゆっくりと歩み出る。口元には、いつもと変わらぬ柔らかな笑みが浮かんでいる。
――だが。隊員たちの怒りが草水で燃える火なら、テオドロスのそれは、煮えたぎるアグニア火山だ。これは抵抗して焼き尽くされるより白旗をあげる方が賢い。
「これまでの案では、隊長殿と副隊長で騎禽を分ける予定でしたが」
変わらぬにこやかな笑顔で一拍置く。怒りはまだ収まっていないようである。
「改めて提案いたします。私も、碧斗に同乗する形に変更願います」
誰も口を開かなかった。全員が、同じ結論に至っていたからだ。この隊長殿は、戦場でもきっとまた自分の安全に無頓着な無謀をやらかすに違いない。
アンドリは観念したように息をつき、碧斗の首筋を軽く叩いた。
「心得た。よろしく頼む」
ようやく落ち着きを取り戻した近衛兵団航空騎禽隊は雪が降り始めたのを合図に、放牧場を後にした。
そして――
その日が来る。
伝令が、団長令を携えて現れたのは、まだ朝靄の残る朝食時だった。
「アンドリ・チェイレイ隊長並びに航空騎禽隊! ただちに出撃せよとの命令です!」
食堂は一瞬で静まり返った。会話が途切れ、居合わせた兵士たち全員の視線がアンドリたちへ向けられる。
アンドリは、すでに立ち上がっていた。伝令が進み出て、封印付きの命令書を差し出す。アンドリは一度だけ頷き、それを受け取った。
「了解した。航空騎禽隊は直ちに出撃する」
伝令は鋭く敬礼すると、そのまま退出していった。
窓の外で風が旗を鳴らす。覚悟も決意も、そして恐怖も、すでにこの身とともにある。
アンドリが言う。声は静かで、揺らぎがない。
「空を制する我らに敵はなし――その理を、この戦にて証明する。一同、遅滞なく翼を開け」
この号令を聞いて隊員たちは朝食をかきこむと、椅子を蹴って立ち上がった勢いそのまま、食堂内にいるどの隊よりも気合十分で出撃準備に取り掛かった。




