第二十九章
テオドロスに休む許可を与えた後、宴の後片付けを手伝った安道は、月明かりの元、自室に戻ってきた。疲れているはずであるにもかかわらず、安道は珍しく寝付けなかった。
理由は間違いなく、兄の言葉だ。
お前の活躍に、期待している。
イミリーシャのことを片時も忘れたことはなかったが、ここでまだまだ学ぶことがあるというのに、帰国をせかされているような気がした。
言葉そのものはそれ以上でもそれ以下でもなかったが、何となく安道はイミリーシャがまた戦を開こうとしていると思った。
まさかその相手は龍乃国であろうか。国交を樹立したいといいながら、奇襲をかけるつもりなのでは。そしてその奇襲戦力に、自分が勘定に入っているのかもしれないと思った。
勇輝子達から受けた恩に、刃で返さなければならないのか。
だがそんなことをしても無駄である。龍乃国は全国民が龍になれる。その戦闘力はたとえ一頭でも自分のかなう相手ではないのだ。ましてや人間の兵士など足元に群がる蟻にも等しい。それほどまでに龍乃国の戦力は、常軌を逸している。
……それでも。イミリーシャは、自分を使うだろう。
そして――
龍乃国もまた、自分を道具として使おうとしているのではないか。その疑念が、消えない。
喉が渇く。
水でも、と台所へ向かい、部屋を出て渡り廊下を進む。
角を曲がったその時、庭に影が見えた。勇輝子に剣江、天角である。月明かりの下に焚かれた残り火を囲んで、三頭が宴の名残のように盃を交わしている。
盗み聞きなどするまいと離れようとしたが、自分の名が会話の中に現れていることに気づき、つい聞き入ってしまった。
「それで、安道の休眠状態ってぶっちゃけどうなの? あの子、けっこう規則正しい生活してるけど、成獣化は進んでんの?」
勇輝子の口調は、謁見の時の覇気が嘘のような軽い調子だった。
剣江が、落ち着いた声で応じる。
「うむ。眠りは浅いが、成獣化は進んでおる。背も伸びておるし、筋肉もよく発達しつつある。休眠期明けはまだ読めんが、この分だと早々に明けるやもしれん」
「二年もかからないで? それにあの子、十九歳になったばかりでしょ? なのにもう直立二足形態、休眠期明けたばかりの亜爪と変わらないくらいに見えるわよ。体格は確かに小さいけど」
天角が、半ば呆れたように言う。
「人間ならば十七、八年目には身体はほぼ成熟しておる。身体の成長速度は人間の特性が出ておるのだろう」
「それって、寿命も人間並みってこと?」
「私の見立てでは、人間よりは長く生きるはずだ。だが休眠期の進みがこれほど早いということは、竜や龍ほど長くもあるまい」
なんと言葉を継いだものか、迷いを飲み干すように盃をあおって天角が勇輝子をみた。
「……ゆっきー。あの子、どうするの?」
勇輝子は、手の中の盃に映って揺れる月をにらみつけたまま、動かない。天角が続ける。
「竜人ってことは、ドレイクの仔ってことでしょ? あいつ、あれだけこの国でめちゃくちゃしといて、この百年どこで何してんのかと思ったら」
剣江が、静かに口を開く。
「……西方だ」
安道の心臓が、強く打つ。
「各地に残されていた“鱗の巨躯”の目撃情報。それが一つの流れを持ち、西へと収束しておるそうだ」
勇輝子が、わずかに笑う。
「あの王子様、よくこれだけ拾い集めてきたよね。思わず素が出るとこだった」
――王子。アントニウスのことか。確かに各地の民間伝承を集めさせたと言っていた。
「ふふ……なかなか面白いこと言ってたわね。“人の目と耳は、大陸の網”か」
天角が軽く真似るように言う。
「市井の囁きや、旅人の証言は……龍じゃ拾えないんですって」
剣江が、低くうなずく。
「精度の高い情報網は、確かに利用価値がある」
「その代わり――」
勇輝子が、くすりと笑う。
「自分に力を貸せ、とは恐れ入った」
安道の背筋に、冷たいものが走る。
力を――貸す?
「人間の王座争いに、龍を巻き込むつもりよ」
「あんな寿命の短い生き物が権力握ろうったってほんの数十年の遊びだろうに、しょーもな。そもそも王太子でしょ。争うも何ももう決まってんじゃん。別に手を貸すまでもなくない?」
勇輝子が肩をすくめる。剣江が、笑って盃を傾けた。
「“もう決まっておる”と見えるのは、外からだけだ。王太子といえど、足場は盤石とは言えぬのだろう。どこで誰に足を掬われるか分からぬのが、人の世というものなのだ。あの者、あえて口にはせなんだが――国も一枚岩ではあるまいな。いらぬ混乱を招かぬための血統主義であろうが、傍流の野心を砕き、国を隅々まで統べるには……まだ時が足りておらぬようだ。火種が、すでにどこぞで燻っておるな」
その笑みは、どこか底知れない。
「……でもさ」
天角が、少しだけ声を低くする。
「その“遊び”が戦になるなら、話は別よね」
剣江が頷く。盃に酒を満たしながら言葉を継ぐ。
「戦の炎は、間違いなく――あの竜を呼ぶであろう」
その一言で、空気が冷えた。
――思い出す。百年前。
崩れかけたような足取りで這うように、ひとつの影がこの地に現れた。
血に濡れ、鱗は剥がれ、尾は裂けていた。
ただ一頭の、竜。
その姿を見た瞬間。胸の奥が、凍りついた。
――来てしまった。誰もが、そう思った。
避け得ぬはずの“その時”が、ついに訪れたのだと。
龍乃国は、そのために在るはずだった。九百年前に封じられたはずの暴虐竜の復活に備え、抗うために築かれた国。
……だが。そのための備えは――まだ整っていなかった。
それでもなお、あの時、自分たちはどこかで、侮っていた。
傷だらけだったからか。あまりにも、静かだったからか。
その慢心が、今も身を焼くほどの後悔として燻っている。
低く、掠れた声。
――止めてみせろ。この、おれを。
心臓を掴まれたように、誰も動けなかった。
――お前に、それができるのなら。
今も耳の奥に残って消えない。
消えない。
消えない。
月が、にわかに黒雲に呑まれた。
光が落ちる。闇が、滲む。
「……百年前のような不覚は、もう取らない」
その言葉は誓いであると同時に、拭いきれぬ悔恨の残滓でもあった。
今手元には甘味がない。剣江はため息をついて酒とつまみを軒の下にひっこめた。雷鳴が唸り、雨粒が落ち始める。
「そのためには安道を、あいつの手にだけは渡せない。百歩譲ってイミリーシャに置いといてもいいけど、でもそれじゃあいつに襲ってこられた時、ろくに対処できないに決まってるし」
会話の内容は安道にはほとんど意味が分からなかったが、何か不吉で不気味な気配がする。親切で温かい優しさに溢れているとばかり思っていたこの国には、知らない裏の顔が、自分を利用した何らかの企みが、確かにある。
「なんとかうまく、こっちの戦力になってくれるといいんだけど。それにはまずイミリーシャを手懐けた方が無理が少なくて済むかしら」
剣江は難しい顔で首を振る。
「両国の絆を確かなものにしてから取り組むのが理想であろうが、今からでは到底間に合うまい」
剣江が、難しい顔で雨夜の空を見上げる。
「戦が始まれば、恩も義理も情も役には立たん……あの寒い国に肩入れしていては、こき使われて力尽きるのみだ」
安道は体の内側が冷えていくのを感じた。
勇輝子の軽く笑うその笑顔が、不気味に見えるのはいったいなぜだ。
彼らは彼らは嘘をつかない。なのに、真実のすべてを語ろうとしないのは、いったいなぜだ。
――もしどちらについたらいいか分からなくなったら、イミリーシャの利益を最優先にするんだ。
――今は君の主君の為だけに行動しなさい。
そう言ってくれたのは牙野だ。彼の言葉を聞いた時、頭を撫でてもらった時、どれほど心が軽くなったことか。
だがその言葉も、自分を手懐けるための手管だったのだろうか。
早く成獣化を果たし、竜の力を習得して、イミリーシャに帰らなければ。
戦が近づいている。今こそ、国の役に立たねば。
自分の居るべき場所はイミリーシャなのだ。たとえ歓迎されていないとしても、忠誠を誓ったのだから。
なるべく気配を消し、雨に紛れてその場を離れた安道だったが、三頭の龍は確かに安道の後姿を捉えていた。




