第二十八章
一段高く作られた上座からは、月明かりを受ける宴の全景が良く見えていた。かがり火の明かりの下、庭の端で盛り上がる一段を、勇輝子は目を細めて眺めている。
本当は自分だって安道と呑みたいのに、という思いが溢れかけるが、牙野や剣江、天角に周囲を固められており、仕方なく龍皇の役を続ける。
「よい副官じゃな。あれはそなたが弟御につけてやってかえ」
「はい。テオドロスは幼い頃から私に傍近くに仕えてくれ、騎士団にも共に見習いとして入団致しました同期でもあります」
「一小隊の副官に据えるには、いささか惜しい大駒と見受ける。幼いころからの傍仕えであったのなら、そなたの副官を務めるのが筋ではあるまいか?」
事実を言い当てられ、アントニウスは少し驚いた。そして頷く。
「ご慧眼、恐れ入ります。近衛兵団長の任に就きました折、あれを副官に任じました。その後、アンドリを地方の騎士団から近衛兵団に移した後、第一小隊長に就ける際、面倒を見てくれないかと頼みました」
「しかし、書き付けの上では降格にあたろう?」
「おっしゃる通りです」
「それを受け入れたか」
アントニウスは静かに頷く。勇輝子は盃を傾け酒をゆっくりと含んだ。
「それほどの忠義を捧げるに足る程の、主というわけだね。そなたのような次期国王を得て、イミリーシャは幸いだの」
「未熟者に過分なお言葉、恐れ入ります」
そのやり取りは、終始穏やかであるはずなのに、隙がない。
勇輝子はしばしアントニウスを見つめ、やがて視線を外した。砂浜の先、笑い声の中心にいるアンドリ――安道へと。
その様子を、勇輝子は細く目をして見やる。
「……弟御も、そなたの影を追っておる」
波音が一瞬、強く打ち寄せる。アントニウスは視線を上げず、ただ穏やかに答える。
「私の力不足で、長く辛い思いを強いて参りました。にも拘らず、よく仕えてくれます」
どこか含みのある低い声音に、龍皇はくつりと喉で笑った。
「弟御が望むならば、我が国の民として喜んで迎えるのだがね」
アントニウスは即座に深く頭を下げる。
「重ね重ねのご厚情、お礼の言葉も尽くせません。弟がそう望むのであれば、留め立ては致しません」
声音は、あまりにも滑らかで、自然だった。一切の嘘はない。だが龍皇はその言葉の真意を、違えず読み取る。
安道がアントニウスに忠誠を誓っており、イミリーシャに帰って彼のために働くことを悲願としているのを、勇輝子はよく知っている。そしてアントニウスも、アンドリが龍乃国に残るという選択をしないと、確信しているのだ。
「まこと大した知将だの」
隠そうともせず忌々しげに舌を打ち、物騒な笑みを浮かべた。
「そなたらにその器を授けた母御に敬意を示そう」
空気が、ほんのわずかに変わる。やがて龍皇は、何気ない調子で口を開いた。
「母御のことだがね。出産の折、あれは卵で生まれたかえ」
「……いえ。人の赤子の姿でございました。ただし、人の子とは異なり、鱗と尾を備えておりました」
勇輝子の指先が、盃の縁をなぞる。
「懐妊の間、母御に尋常ならざる障りがありはせなんだか」
「私の知る限りでは、特段の異常があったという話はございません。膨らんだ腹を撫でるよう促された際も、母は穏やかに笑っていたのを覚えております」
アンドリとは九つ年が離れている。覚えている限りの幼い記憶を辿っても、アンドリが生まれてくるまで王宮内は第二王子か第一王女のどちらが生まれるかと、浮き立っていたはずだ。
そう。あの日、何かの理由で乳母にせがみ、アントニウスは母の部屋を訪ねた。
王族ともなると実の親子といえども直に王妃の寝室に飛び込む無礼は、十にならない子供であっても許されない。
乳母が戸を叩き、中から王妃付きの女官が顔を出した。王妃が息子王子の来訪を拒むことはないのを分かっているので、女官は前室にアントニウスと乳母を通し、形ばかり王妃に伺いを立てた。ややあって前室から居間に通されたのが嬉しくて、乳母の手を振り切って駆け込むと母はお茶を飲みながら小さな宝石箱を整理していたのだった。
宝石にはあまり興味を持たなかったアントニウスだったが、たまたま前日に家庭教師と魚の図鑑を見ていた。母が宝石箱から取り出していた平たい飾りが図鑑で見た魚の鱗のようだと思ったことが、なぜか鮮明に思い出された。
「アンドリが少し大きくなった頃、あれの鱗を見てふと――あの日、母が宝石箱から取り出していた飾りを思い出したことがございました」
今思えば、もしやあれは竜の鱗だったのではないか。
「その宝石箱は、今は?」
「申し訳ございません。母の遺品は何一つ許されず、処刑された際に全て処分されたと聞いております」
そこで龍皇は表情を変えた。波の音が、遠く響く。
「母御を失うたのはそなたも同じであったな。不躾を許せよ。母御の魂の、安らかならんことを」
思いがけぬ心遣いだった。アントニウスは、わずかに目を見張る。そしてすぐに、深く頭を下げた。
「ご弔意、誠にありがたく存じます」
勇輝子はそれを一瞥し、何も言わずに視線を外す。
頭をあげたアントニウスはわずかに身を寄せた。声を落とす。
「龍皇陛下。私の記憶からは、お役立ていただける情報を出しかねますが、ひとつお耳に入れたき誼がございます。もしご興味がおありでしたら」
「許す。申せ」
その一言で、空気が張り詰める。
アントニウスの唇が、静かに動いた。
――その内容を聞いた瞬間。
勇輝子の瞳に、雷光が走る。
背後で牙野が眉を寄せ、剣江と天角が呼吸を深くする。
月明かりとかがり火の元、波が一つ大きく砕けた。潮が、満ち始めていたのだった。




