第二十二章
竜化訓練は毎日休むことなく行われた。亜爪も加わって屋外修練場を縦横無尽に飛び回る。なかなか進展は見られなくとも、天角も亜爪も、根気よく安道を導いた。訓練の後は這うようにして部屋に戻り、毎晩泥のように眠る。
並行して剣江は学問所で日々、様々な知識を授けてくれた。
龍について。大陸に住む様々な種族について。大陸全土そのものについて。
地図の上に指を滑らせながら語るのを聞いているだけで、世界がどれほどに広いのか、まざまざと見せつけられる。
「この星の誕生は、およそ五十億年前と考えられております」
長い巻物を紐解いて広げながら、あまりに遠い数字を、剣江は淡々と告げた。
「やがて星は冷え、地殻が安定し、この大陸が形を成したのが約二十億年前と推定されています」
指がゆっくりと、年表の端から滑っていく。
「十億年前には、原生爬虫類を含む多くの種がこの地に増え始めました。海から陸へ、陸から空へ。種は姿を変え、枝分かれしていきました」
河川のように広がる線を辿る指を、安道も目で追った。
「その長い流れの中で、五億年前、原生爬虫類の系譜から龍が生まれたと考えられております。群れを作り、知性を発達させ、やがて言葉を持つようになります」
安道は息を呑む。五億年という途方もない時間には、その長さを想像の上ですら描くことができない。
「勇輝子は二代目龍皇。国家としての龍乃国の歴史の始まりは九百年前ですが、これは龍の一代分の時間に過ぎません。僅か二百年の間に数度の世代交代を繰り返し、複雑な法整備や身分制度の確立を成した事実に焦点を当てますと、国家としての成長速度、成熟度はイミリーシャの方が上でしょうな」
九百年。
その数字を聞いた瞬間、不意に安道の脳裏に、以前天角が漏らした言葉が蘇った。
――九百年前の災厄。
あの時は深く考えなかった。だが今、龍乃国成立の時期とぴたり重なるのだと知り、そのことがひどく気になった。
安道はわずかに眉を寄せた。
「……天角様が以前、九百年前の災厄を迎え撃つつもりで、暴虐竜と出会ったと話しておられました」
剣江の指先が、ほんのわずかに止まる。
「九百年前、世界で何があったのですか」
老龍は静かに頷き、年表の脇へ別の書物を開いた。
そこには、大きな翼を広げ、長い尾を振るう怪物の絵が描かれていた。
「九百年前、大陸全土を巻き込む大きな戦がございました」
剣江の声は穏やかなままだった。
「破滅を望んだ竜が、空より星を呼び寄せ、この地へ落とそうとしたのです。大陸全土の種族が結集し、これを封じた。後に世界大戦と呼ばれる戦です」
安道の喉が、無意識に鳴る。
「では、百年前に現れたのは……」
「八百年の後、命からがらに封印を破ることに成功したのでしょう」
剣江は、書物へ視線を落としたまま続ける。
「深手を負ってこの国へたどり着いた貴方の父竜は、数年をこの地で過ごしました」
そこで、剣江の声がほんのわずかに途切れた。
安道は気づく。それまで淀みなく続いていた講義が、そこで初めて止まった。
老龍の視線は一瞬、書物ではなくどこか遠くへ向いてしまったように、安道には思えた。
――なぜ、世界の破滅を望むのですか。
剣江が問いかけた言葉に、長い沈黙のあと、困ったように首を振ったあの孤独な暴虐竜。
「……剣江様?」
安道の声で、剣江は静かに瞬きをした。
「おっと、失礼」
すぐに、いつもの穏やかな顔へ戻る。
「竜は龍の近縁種です。本来であれば、極めて穏やかな性質を持つ。実際、百年前にこの国で過ごしていた貴方の父竜も、九百年前の災厄を引き起こしたと伝えられる内容には全くそぐわぬ穏やかな個体でした。新しい家族を迎えられたと思ったのですが」
「その父……竜が、なぜ……」
穏やかに過ごしていたはずの彼は、ある日突然暴虐竜となった。勇輝子や天角を倒し皇宮と町を破壊し、この国を去っていった。いったいなぜ?
剣江は安道の疑問に、首を振る。
「分かりません。いったい、何がいけなかったのか。そもそもなぜ破滅を望むのかも」
剣江は、書物を一枚めくっていた。自然な動作で、講義の内容が別の話題へ移っていく。
「我ら龍は、約千年の寿命を持ちます。統計を見る限り、雌のほうが大柄、長命であり、戦闘力も高い」
安道は頷く。勇輝子や天角、蓮空を見れば一目瞭然である。
「人間を初めとするほとんどの種族は、無用な争いを避けるために血統主義を取り入れました。王家や貴族たちは血筋を根拠にその地位を次世代へ受け継ぐ。その定めが、ほぼ全ての国で採用されておりましょう」
剣江の講義は、何事もなかったかのように続いていく。
「我らは血筋ではなく、戦闘力の高い者から長を選ぶと定めました。必然的に各地の集落を束ねる長や龍皇は、雌が多くなります。もっとも、卓越した力を持つ雄が現れることもあります。私もかつてその力を認められ、この都にほど近い集落の長を務めました。より強い個体が育ちましたので、村長の地位を譲りました」
剣江の口調には、自らの強さに対する奢りも誇張も、長の座を追われたという悲壮感も、まるでない。若い世代が生まれ、より強い龍が育ったことを、至上の幸福ととらえている。
これは龍が個ではなく、種全体に重きを置いていることを表すのだろうと、安道は思った。
「龍の繁殖は、性行為を伴いません。なので龍には生殖器がありません。竜も同様です。雌の鱗を雄が経口摂取しますと、その体内で卵が形成されます」
「……父親が、受胎するのですか」
「はい。ですが成功するのは数百年に一度。龍の出生率は極めて低い。故に、子どもは奇跡の存在、極めて尊い宝なのです」
剣江の声は静かに続く。
「どの雌も、自身の鱗から生まれた子を見分けることはできますが、特定の子のみに偏って執着することはございません。すべての幼獣を、等しく庇護します」
ここでもやはり、血縁より種が重んじられている。家族という概念が、根底から違う。
この国へ来てから、誰も彼もが溢れんばかりに親愛の情を向けてくれる理由が、ここにあるのだと思った。
安道はふと尋ねる。
「……では、竜は」
その問いに、剣江の指がわずかに止まる。
「竜もまた、原生爬虫類から進化したと考えられる龍の近縁種です。ただし、より古く、より原初の形質を残した存在と申すべきでしょうかな。我らはその後に分化し、社会性を強めた系統と見るのが自然でしょう。生態が似ているのも、力の性質が近いのも、そのためと考えられます」
安道はさらに疑問を口にする。
「では、俺はどうやって生まれたのでしょう。俺の母は人間なのに」
剣江は口元へ手を添えた。
「これは、我々にとっても最大の疑問です。おとぎ話の中の異類婚姻譚には子供が生まれた例はありますが、実在を確認されたのは貴方が史上初。初めての混血種は、何もかもが未知です」
剣江はしばし考えるように視線を伏せ、それから慎重に尋ねた。
「……安道殿。母上のことを、どれほどご存じですか」
その思いがけない問いに、安道の目が見開かれる。何とか、首を振って答えた。
「……ほとんど、何も。乳母も……何も語ってはくれませんでした」
ただ、と安道は壁に掛けられた詳細な大陸地図へ視線を移した。
「イミリーシャから見て、西の山脈を越えた先の古い国から嫁いできた、その国を滅ぼす原因を作った女だ、と」
拳を、無意識に握りしめる。
口さがない人々の声。騎士団官舎食堂での噂話や野営中の雑談は、防ごうと思ったところでどうしても耳に入ってくるものだ。
剣江は納得したように頷き、大陸地図の脇へ立った。
指が、イミリーシャの西を押さえる。
「母上のご出身は、おそらくマギーラでしょうな。イミリーシャよりも更に歴史が深く、人間の国の中でも最も古い国のひとつに数えられておりましたが、十七年前、イミリーシャの突然の侵略を受け、滅びました」
安道は今年の春で十八になった。
「山越えの遠征だったにもかかわらず、イミリーシャはマギーラを征服も統治もせず、塵一つ残さず焼き払い、そのまま打ち捨てております」
指先が、そこから動かない。
部屋の空気が、わずかに重くなる。
「当時、不可解な戦であると感じておりましたが、おそらく――」
剣江は地図を見たまま静かに言った。
その言葉の前に、ほんのわずかな間が落ちる。
「発端は、安道殿の母上であったのでしょう」
安道の喉が乾いた音を立てる。
母の話を聞く時はいつも、その罪を嘲る内容だった。
その罪が、今、一国の滅亡と結びついてしまった。
だが、なぜ?
安道は地図を凝視したまま動けなくなる。
剣江はそれ以上踏み込まず、問いも講釈も止めた。
ややあって。
「さて」
声の調子をわずかに変え、剣江は手にしていた書物を閉じる。
「本日はここまでに。明日は、星や雲について学びましょう。気象や天体は、龍の姿で飛ぶにしろ、騎禽を駆って飛ぶにしろ、重要な知識ですからな」
壁に掛けられた地図が、静かに巻き上げられていく。
マギーラの名は、布の内側へ消えた。年表も書物も片付けられていく。
「……龍乃国が作られたのは」
剣江の手が止まる。
「九百年前、暴虐竜と世界大戦を戦ったことに理由があるのですか」
静かな沈黙が落ちた。剣江はすぐには振り返らなかった。
巻きかけていた地図へ片手を添えたまま、老龍はほんのわずかに目を伏せる。
やがて、小さく息をついた。
「……おっしゃる通りです」
慎重に踏み石を選ぶように、言葉を継ぐ。
「長いあいだ、我らは国を持ちませんでした。谷ごと、山ごとに暮らし、境を設けず、気ままに生きておりました。しかし他種族が世界大戦をきっかけに単独であるよりも、集団としてまとまる生存戦略を取るようになりました。旗を掲げ、法を定め、戦いを繰り返して領土を広げ、境を設けるようになった」
剣江の指先が、壁掛けの地図を巻く作業を続ける。
「その流れと無関係ではいられなくなった。ゆえに我らもまた、“国”という形を整えたのです」
そこで一度、言葉が切れた。
安道はなぜか、その先にもまだ続きがあるような気がした。
だが剣江は、それ以上を語らない。壁の地図を巻き終えた老龍の手が、静かに離れる。
そのとき。慌ただしく回廊を駆けてくる気配と同時に亜爪が顔を出した。
「安道!風呂来いよ!いつだったか潜り方教えるって言ったろ?お前、竜化訓練の後、毎回ばたんきゅーでずっと機会なかったからさ!」
「ほどほどで上がりなされよ。夕餉まで間もありませんぞ」
剣江は、柔らかい口調で釘を刺してきた。
亜爪は既に一浴びした後なのか湯気の匂いまで連れてきている。
安道は、反射的に振り向く。好々爺の屈託のない笑顔で、剣江は手を振っていた。
胸の奥に、小さな引っ掛かりが残ったような気がした。
安道は黙ったまま剣江を見る。先ほどの間。あれは単なる思案だったのだろうか。
浮かびかけた不気味な疑問は、形を成す前に霧散してしまい、二度と答えを掴む機会を得られなかった。




