第二十一章
安道が目を覚ましたとき、どこにいるのか、すぐには分からなかった。
竜化のあとに目覚める場所は、いつもならばイミリスノープル王宮の懲罰房のはずだった。
手に鎖を掛けられていないことにも、ふと疑問を覚える。
しばらくしてようやく、ここが龍乃国皇宮——勇輝子があてがってくれた貴賓室だと思い至った。
日はとうに暮れている。軽やかな虫の音が聞こえ、夜の暖かな空気が部屋に流れ込んでいた。
身体を包み込む寝床は柔らかく、温かい。
足には夜用の矯正器具。体のあちこちには包帯が巻かれている。
体を起こし、ふと枕元に目をやると、盆に載せられた夜食が用意されていた。小皿に盛られた甘味が、妙に偏っている。
——勇輝子に摘まれたのだろうか。
安道はその甘味をひと切れ口に入れた。芳醇な甘みが、ゆっくりと広がる。
その瞬間、安道は堪えきれず、顔を覆った。
竜の姿になるといつもこうだ。
狂気の暴れるまま、目に映るものすべてを燃やし尽くしてしまいたくなる。
酷い憎しみの理由も、理屈のない怒りの矛先も、何ひとつ分からない。
それなのに、なぜかただ——
世界のすべてが恨めしく思え、目の前に生える一本の花でさえ、踏みにじってやりたくなるのだ。
(俺は……)
胸の奥で、言葉が沈む。
(本当に、暴虐竜なのだ)
いずれ世界を破滅の炎で焼き尽くす。
竜化のあとに必ず与えられてきた罰が、ここにはないことがまるで、贖罪の機会を奪われたかのように思えた。
安道は、深い絶望に囚われていた。
ここには、いられない。この美しい国を、焼き尽くすわけにはいかない。
イミリーシャに、帰らなければ。疎まれても、恐れられても。それでも、帰らなければならない。
このまま出発してしまおうか——
そこまで思い詰めて庭に出た、その時だった。
「……ん?」
天角が縁側に座って甘味を頬張っていた。
「あら。見つかっちゃった」
安道に気づいて慌てて口の中のものを飲み込み、照れたように笑う。
「ゆっきーのこと、さんざんいじっといて何なんだけど……実は私もこれ、大好きなのよねー」
その腕に巻かれた包帯が、目に入り、安道は思わず地面に膝をついていた。
「お身体を傷つけてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
天角は目を瞬いた。
「え?なんで謝るの?」
本気で不思議そうだった。
「竜の姿は戦闘形態なんだから、闘争本能が高まって当然よ。念のために言っとくけど、私達龍も皆同じだからね」
そして笑う。腕の包帯を軽く叩く。
「すごいわよ、安道君。私の鱗を貫ける牙の持ち主なんて、そうそういないんだから」
安道が顔を上げる。天角は甘味をもう一つつまんでぱくりと食べる。
「龍ってね、好戦的だとは思わないんだけど、強い相手と戦うのが結構楽しいのよ。
特に雌はね」
頬を膨らませもぐもぐと動かしながら少し笑う。
「でもね。これはまずい、って思った相手が一頭だけいるわ」
天角はふと思い出したように言う。
「百年前。この国に現れた暴虐竜」
月の光を跳ね返した瞳の輝きに、安道は言葉を失っていた。
「ゆっきーも蓮空も私も戦ったんだけど、爪も牙も届かなかった」
天角は空を見上げ、何か楽しいことでも思い出すように続ける。
「海底火山を噴火させて、世界の終わりってこうなのかなって思ったわ」
安道の声が震える。
「天角様……その竜が……」
天角はあっさりうなずいた。
「うん。きっとあの竜が、あなたのお父さんなんだと思う。あなた今十八歳だったっけ?百年前にうちの国に来た竜がその後どう過ごして、十九年前にお母さんとどう出会ったのかは分からないけど」
安道は息を呑んだ。天角の身体が大きく膨らんだ気がした。物騒な笑みを浮かべ、瞳が一層輝く。
「次は負けないわ」
その強い光を、今度は安道に向ける。
「正直なところ、今はまだ、あなたを倒すことは簡単なのよ。休眠期が明けたら、竜のあなたは私たちの誰よりも強くなると思う。力をつける前に、私たちの脅威になる前に、今のうちにやっつけちゃった方が賢いとは思うわ」
安道の肩が震えた。天角は平然と続ける。そしてにやりと笑う。
「でも、休眠期が明けたあなたに挑んでみたい気持ちもあるのよね」
その言葉を、安道はとても受け止めきれなかった。
「何言ってるんですか!」
拳を握る。
「俺が本当に——貴方がたを皆殺しにするかもしれないじゃないですか!」
声が震える。言いたくない、でももう止められない。
「そんな好奇心で判断を誤って、国が滅びることになっても!」
息が荒くなる。
「……それでも笑っていられるんですか!」
沈黙が落ちた。安道の胸の奥では、まだあの感情がうごめいている。
竜になったとき、自分の中で暴れ狂う憎しみ。あれは、自分のものだ。
その底の見えないほどの憎悪が——この美しい国を、丸ごと炎に沈めるかもしれない。
それが、何より恐ろしかった。
だが対称的に、天角の笑顔は晴れやかだ。
「確かに国が滅びちゃ困るんだけど。だから次はもっと渡り合えるようになっていたい」
そして安道を見て、楽しそうに笑った。
「あなたにも協力してほしいの。次にまたあの竜が来たら、今度はもっといい勝負をしたいから」
安道は首を振った。
「……理解できません。俺は、その竜と同じことをするかもしれないんですよ」
「同じ行いね。確かにそうかも。あの暴虐竜、私たちを殺さなかったのよ。全滅させようと思っていたら、できてたでしょうにね」
天角は少し考えるように空を見上げた。
「あの竜がこの国に現れた時……たぶん、封印を抜け出したばかりだったのよ」
彼女の声が少し柔らかくなる。
「もう、辛うじて形を保ってるような有様だった。翼はずたずた、尾も潰れていて、牙も爪も全部砕けてた。全身、傷だらけでね」
天角は静かに息を吐いた。
「正直、生きてるのが信じられないくらいだったわ」
安道は何も言わずに聞いている。
「私たちはね、九百年前に封じられた災厄を迎え討つつもりで向かったの」
天角は小さく笑った。
「……それなのに、目の前にいたのは、あんなのだった」
その声に嘲りはない。ただ、古びた悲しみだけが滲んでいた。
「勇輝子と剣江先生が、付きっきりで看病して……それで、なんとか持ち直したの」
夕風が、髪の先を静かに揺らす。
「……あの時は、本当に嬉しかった。新しい家族が増えて」
かすかな笑みが戻る。
「宴を開いて……何年くらい一緒にいたかな。本当に穏やかで楽しかった」
だが、その笑みはゆっくりと消えていった。
「でも私たち、あの竜がどんな苦しみを抱えていたのか、本当には分かってあげられなかったのね」
視線がわずかに伏せられる。
「完全に油断してたのよ……それで、あっさり負けちゃった。言い訳の余地もない」
天角は安道へ視線を戻した。
「あまりにも簡単に負けすぎて、馬鹿みたいだった。だけど」
彼女の視線が、遠い水平線へ流れていく。
「……あの竜、私たちにとどめを刺さなかった」
声がさらに静かになる。
「私たちをぎりぎりまで追い詰めて、最後には……止まったの」
潮風が、開け放たれた縁側を静かに吹き抜ける。
「……私たちの気持ち、少しは届いていたのかなって、信じたいのよね」
その口元に、またかすかな笑みが浮かんだ。
「あなたにも届いてるといいんだけど。安道くん」
安道の目がわずかに見開かれる。
安道は目を見開いた。
「あなたも、自分で変身を解いたでしょう。式典のとき、お兄さんの声をちゃんと聞き分けて戻ったわよね。今日だって、私の言葉を聞いていてくれてたわ」
安道ははっとした。
竜化しているとき、赤く濁った眼はひどく視野が狭まる。そんな中でいつも探しているのはアントニウスの声だった。
今日の訓練でも、気の狂いそうな衝動と戦いながら天角の声に、兄と同じ想いを感じ取っていた。
天角は安道の顔を覗き込み、柔らかく笑った。
「あなた、本当に強いのね。今までの苦労を考えれば、あれほどの激情を抱えて当然だと思う。でもあなたはそれを抑え込んできたんだわ。そうじゃなかったら、人間の国なんてどれほど大きくても、くしゃみするより一瞬で吹き飛んでるわよ」
そして、まっすぐ安道の目を見た。
「何もかも壊したくてたまらないと思う自分を、否定しなくていいわ。でも今日までそうしなかった自分も、ちゃんと認めてあげて」
安道は視線を落とした。
「……これからも、そのままでいられるとは限らないじゃないですか」
天角はあっさりとうなずいた。
「その通りね。でも、もし本当にそうなったら、その時また考えましょ。その時までに、私たちも強くなるわ」
そう言って、残っていた最後の甘味をひとつ口に放り込む。
安道にはわからない。どうして龍達は、世界の破滅をもたらすという竜を前に笑っていられるのか。
天角は少し困ったように笑う。
「きっとこれって、文化の違いってやつよねえ。じゃああなたの育った文化で分かりやすい言葉にしてみましょうか」
頬張った甘味を飲み下し、立ち上がった。
「守りたい人を傷つけるかもしれない事が怖いなら、ここでその力の使い方、身に着けていきなさい。それだけの牙と爪があるなら、研ぎ澄ましなさい。あなたの守りたい人が、どこよりも安全な場所にいられるように。その人のために、ここまで来たんでしょう」
天角の言葉は理解できる。だが、胸の奥に居座る恐怖は消えない。
自分の中にあるあの憎しみ。あれが、いつかこの身から溢れ出て、己すら焼いて世界を滅ぼすのではないか——。
懐かしい景色が見える。
青い海が、果てしない草原が、針葉樹林に変わり、急峻な山岳地帯へと変わる。山間をうねる街道を見下ろして進む先が、雪に煙る。雪景色の中に佇む荘厳なイミリスノープル。その町中で、重装歩兵第一小隊の仲間たちがこちらを見上げて手を振ってくる。王宮の裏手に回り込んで放牧場に着地すると近衛兵団長アントニウスが立っている。
その懐かしい景色が、血のように赤い炎に染まった。
慌てて頭を振り、その景色を振り払う。
答えは一つしかないのだ。
どれほど恐ろしくてもここで訓練を続けることだけが、身の内に滾る炎を鎮める唯一にして最善の道だ。
それがいずれ、兄の役に立つ道に繋がっていくはずだ。
安道はゆっくり息を吸った。声を絞り出そうとするが、喉が震えて言葉にならない。
少し間を置いて、顔を上げる。
「……必ずや」
恐怖。迷い。そして、龍たちへの尽きない感謝。それらが溶け合った美しい奔流が、雫となって次々と地面に落ち、小さな跡を作っていく。
天角は笑って静かに身を屈める。自分の額の角を安道の額へそっと寄せた。
大きな手が安道の頭を包み、そのまま抱き寄せる。鱗板に覆われた天角の身体は柔らかくも暖かくもないが、世界中のどこよりも安全な心地よい場所のように思われた。
「一緒にがんばろね。強くなったとこ、見せてやりましょ」
立つべき場所に帰るために。立つべき場所で、立ち続けていられるように。
「......ありがとう、ございます」
自身への恐怖は消せなくとも今は歩を進める。決意を伝えようとするように、安道は目を閉じた。




