第二十章
北鱗から都へ戻った翌日は、朝から蜃気楼が立ち上る暑い日であった。強い日差しの照りつける皇宮の砂浜に、安道は緊張の面持ちで立っていた。
安道と向かい合うのは、龍乃国でも勇輝子に次ぐ戦闘力を持つ女龍、天角だ。
千年の寿命を持つ龍。
本来、龍の姿で卵から生まれ、百年をかけて直立二足歩行の姿を得、精神修練を重ねて、二つの姿を自分のものにしていくのだという。
だが安道は違う。
彼は最初から、直立二足歩行形態の赤子の姿で生まれ、ふとした瞬間に竜化を習得した経緯から、その時機をすでに逸している。
そのため竜化すると理性が飛ぶ。長く竜化していれば、やがて破壊衝動が抑えられなくなる。
それを克服する方法は一つしかない。
剣江の立てた方針は、きわめて単純だった。
なるべく長く竜化させる。そして理性を保っていられる時間を、少しずつ延ばしていく。
そのための訓練相手として、勇輝子が名乗り出たのだが——
「お前は龍皇の仕事が山積みだ」
剣江に冷静に切り捨てられ、天角が代役になったのである。
安道は緊張したまま、波の音を聞いていた。
その肩を、天角がにこりと笑いながら軽く叩く。
「安心して暴れていいわよ。うちの皇宮、勇輝子に壊されまくっては直してるから」
「ねぇ!聞こえてんですけど!」
遠くから勇輝子の抗議が飛んだ。
空の一角に、黒雲がもくもくと湧きかける。
だがその雲がすっと消えたのはどうやら、仲間に腕を掴まれて引きずられながら、菓子を与えられたらしい。
天角は気にも留めず、安道の目をのぞき込む。
「碧斗と仲良くなれたでしょ?」
「……はい」
「竜の姿の自分とも、仲良くしてあげなさい。そう心がけてみてね」
天角が一歩後ろへ下がる。
「——行くわよ」
次の瞬間。身体が砕けるように膨れ上がり、巨大な龍が砂浜を覆った。
風が吹き荒れる。天角はそのままうねるように空へ舞い上がった。
安道も、意を決して竜化した。
骨が軋む。身体が引き伸ばされ、筋肉が膨れ上がる。背中が裂けるように熱い。
そして——
切り落とされた尾の傷痕が、引き裂かれるように痛んだ。
「あああああッ——!!」
叫びが漏れる。
だがそれは、人の声ではなく、竜の咆哮となって空を震わせた。
天角は励ますように、安道の周囲を低く旋回する。
だが——
竜化した安道には、それが羽虫のように鬱陶しく感じられた。
瞳が赤く濁る。敵意がむき出しになる。
安道が地面を蹴った。巨大な竜が空へ跳ね上がる。天角の待つ空中まで到達する脅威の跳躍力だった。
牙は僅かに届かない。天角は笑った。
「いいわよ。少し運動しましょうか?」
着陸した安道にゆっくり近づく。巨大な龍の姿から聞こえてくるのは優しい声のままだ。
「おいで。大丈夫」
暴れ狂う竜が突っ込んでくる。天角はそれを、幼子の手を取るように受け止めた。
安道の牙が天角の爪とぶつかり合う。
安道が牙を剥くのを受け流しながら天角は、声をかけ続けた。
「本当は、自分に降りかかる不条理を、こうやって蹴散らしてやりたいのね」
再び突撃してくる。天角は今度は正面から受け止めた。
「——そういう自分も、自分で受け入れてあげて」
声が届いているかは分からない。
安道は完全に暴走していた。牙が閃く。天角の腕に血が飛ぶ。
それでも天角は怯まない。長い身体を巻きつけ、安道の身体を拘束した。
だが安道は狂ったように身体をねじり、噛みつき、爪を振るう。
それでも天角は、優しく語りかけ続けた。
「負けないで」
その瞬間。
安道の竜の身体が、ふっと崩れた。竜化が解ける。小さな身体が地面に落ちた。
「安道!」
牙野と剣江が駆け寄る。
剣江が脈を取り、呼吸を確かめた。足の状態も確認して小さく息を吐く。
「……大丈夫そうだの。だが消耗が激しい。今日はここまでとしよう」
牙野が意識のない安道を抱き上げた。額の角を安道の額に寄せ、苦しげな顔で微笑む。
「強い子だ」
一方。
天角も変化を解いていた。その腕を、亜爪が支えている。
「なあ」
亜爪が躊躇いがちに天角を見上げる。
「……あいつ、本当はめちゃくちゃ強いんじゃねーか?」
天角は腕から血を流していた。鉄壁の防御力をもつはずの龍の鱗が、食い破られている。
「半分竜だもの」
亜爪が布を押し当て、止血してくれるのを受けながら、天角は苦笑する。
「このくらいは想定済みよ」
亜爪は止血帯を見つめ、顔をしかめた。そして言う。
「次はオレもやる」
天角が眉を上げる。
「……結構しんどいわよ」
亜爪はもう一度繰り返した。
「オレもやる」
そして付け加えた。
「泳ぎの練習だって、まだ終わってねーんだ」
天角は少しだけ笑った。
「……いいわ。援護を頼みましょう」
だが淡々と付け加える。
「ただし。万が一私がやられたら、あんたの役目は——勇輝子を呼んでくること。いいわね」
二人はそれ以上何も言わなかった。
前途多難な予感だけが、そこに残る。やがて二人は無言のまま、皇宮の奥へと引き上げていった。




