第一章
夏の盛り――とはいえ、山間の北国イミリーシャ王国の王都イミリスノープルは、朝晩の冷え込みが厳しい。
王立近衛兵団の官舎で支給される簡素な夏用寝具は、人間の兵士にとっては十分なものだろう。
だが、重装歩兵第一小隊長――アンドリ・チェイレイには、ほとんど意味を成さなかった。
慢性的な睡眠不足のせいで目覚めは、いつも最悪だ。
それでも、起床に遅れることは許されない。兵士である以上、それだけは絶対だ。
もっとも眠りが浅すぎるせいで、起床のラッパが鳴る頃には、すでに身支度を終えていることがほとんどだった。
今朝も同じだった。夜明けにはまだ早い時刻だったが、目を閉じていられなくなり、やることもないまま、アンドリは肌着を脱いだ。
現れるのは、人間ではない乾いた身体。全身を覆うのは、煤竹色の鱗板。
背に視線を向ける。腰の下には、大きな傷跡が残っている。
生まれた時、尾が生えていたので切り落とされたのだと聞かされた。
なぜ自分だけが、このような醜い姿なのか。
その問いに、答えを与えられたことは――一度もない。
アンドリを産んだ母は、“怪物のような赤子”を産んだことで、不義を断定された。
罪状は、姦通。
たった二文字で片付けられ、内々に処理され、秘密裏に処刑された。
表向きは病死。
それ以上の説明は、誰からも与えられなかった。
(……相手は、龍乃国の民なのだろう)
そう考えるのが自然だった。一度も見たことはない。だが話に聞く南方のその国では、民は皆、巨大な龍へと姿を変え、大空を飛ぶという。
母とともに処分されるはずだった自分は、その“龍の力”を、王と国のために振るうことを条件に、命だけを許された。
それが温情でないことくらい、幼い頃から理解している。
人間の子供なら水桶を運ぶのも覚束ない年齢で、アンドリは龍の怪力を発揮した。
剣術も、格闘も。一人前の騎士ですら、並ぶ者はいなかった。
馬ごと敵を切り倒せる超重量の大剣。それを実戦で扱えるのも、彼だけだ。
死んでもおかしくないと囁かれる常識を逸した過酷な訓練の日々。それでも、アンドリは生き延びてきた。
地方のの騎士団に見習いとして放り込まれ、十五で王立近衛兵団へ。
そして今は、重装歩兵第一小隊長の任にある。
だが団員の中に、彼を仲間と認める者は一人もいない。
「怪物」
「生物兵器」
誰もがそう呼んでいるのを、アンドリは知っていた。
外に出る。普通の人間なら、夏の早朝を爽やかだと感じるという。
だがアンドリには違う。
(寒い……)
内側から、肉を削ぎ落とされるような冷たさだった。
屋外鍛錬場。
思考を切り離し、ただ剣を振る。どれだけ身体を動かしても、爬虫類の身体に体温は灯ることはない。それでも動かさなければ、意識が沈んでしまう。剣の重さだけを感じながら、振る。また振る。
超重量の大剣が、空気を裂いて唸る。
その重圧に押し潰される前に、自分から押し返すように。
(……今日は、失敗できない)
王の即位二十年記念式典。国中が浮き立つ、大祭だ。当然、近衛兵団も警備に当たる。
各国からの賓客は、すでに数日前から集まり始めている。ここで何かあれば、国の威信は地に落ちる。
そして――
今日、最も重要な来賓が到着する。
龍乃国の頂点に立つ、龍皇一行。
民の数は少ないがその全てが巨大な龍へと姿を変え、空を飛ぶという。
その龍達の中でも圧倒的な戦闘力を持つ齢三百の龍皇は、雷雲と嵐を従える大陸最強の存在である。
イミリーシャにも他のどの国にも、その非常識なほどの戦力に対抗できる力はない。
そこでイミリーシャが取った方針は、和親だった。
暖かい南方との交易を実現できれば、冬の食料問題の解決できるかもしれない。
国民の期待は大きい。
(……龍乃国)
アンドリも、わずかに興味を抱いていた。
自分を構成する要素。龍という生き物は、どんな存在なのか。
――だが。
興味を無理やり思考を切り捨てる。知っていい立場ではない。知る必要はない。
自分に与えられた役割は、ただ一つ。
剣を振るい続けることだけだ。
それだけが、生きることを許された理由。
アンドリは“機能”でしかない。
昨夜。
国王と、王太子にして近衛兵団長から命じられた。
「姿を見せるな」
鱗に覆われた醜い顔を覆い、存在を悟らせるな。
配慮ではない。露見した際の損失を避けるための指示だ。
第一小隊は、城の最背面へ配置。
誰の目にも触れぬ場所だ。そのため、他隊より早く集合する必要がある。
東の空が、わずかに白む。もうすぐ、夜明けだ。アンドリは鍛錬場を後にする。
爬虫類の身体は汗をかかず、体臭もない。ただ、冷たい水をかぶれば体調を崩す。
だから濡らした布で拭うだけ。
貴重な薪を使い湯を沸かせるのは、冬場に許可が下りた時だけだ。
井戸水に布を浸そうとした、その時だった。
聞き慣れない、甲高い音が――紫紺の空から降ってきた。
夜と朝の狭間。静かに息を潜めていた大気を、鋭く引き裂くような音だった。
反射的に剣へ手を伸ばし、アンドリは空を仰ぐ。
東の山の稜線から、淡い光が滲み出している。紫はほどけ、藍は薄れ、世界がゆっくりと目を覚まし始めていた。
その南の空を、何かが進んでくる。
色鮮やかな、巨大な鳥の群だ。十羽ほど。遠目にもはっきりとわかる異様な巨体が、確実に距離を詰めてくる。
半数ほどの背に、影があった。朝の光を受け、外套が風に翻っている。そしてその裾から――長く伸びた尾が、垂れていた。
鱗に覆われた尾が、昇り始めた陽を受けてきらめく。
顔は深く被った頭巾に隠され、表情は見えない。
一度も見たことがなくともわかる。龍乃国の一行だ。あの巨大な鳥――騎禽に乗る者など、龍族以外にあり得ない。
騎禽の一羽が、高く鋭く鳴いた。
その瞬間。すべての騎手の視線が、一斉にアンドリを捉えた。
息が止まる。
反射的に身を引き、建物の陰へ滑り込む。
――姿を見せるな。昨夜、そう命じられたばかりだったのに。
龍の一行が、鍛練場へ向かってくることはなかった。
ただ視線だけを残し――そのまま官舎の上空を通り過ぎる。
そして王宮正面へ向け、静かに降下を始めた。
「……お早いお着きだな」
背後から、不意に声が落ちた。
振り返るまでもない。
そこに立っていたのは、近衛兵団長にして王太子――アントニウス・イミリシウス。
彼もまた、龍の一団が消えていく空を見上げていた。
アンドリは即座に膝をつく。
「申し訳ありません、団長閣下。……おそらく、姿を見られました」
返答はなかったが。
ただ、小さく息を吐く気配だけがあった。
(まあ、ずっと隠して置けるものでもあるまい)
小さく肩をすくめて即座に切り替えたアントニウスは、踵を返した。
「お出迎えに行ってくる」
それだけ言って、足を止めずに続けるその顔は、なぜか楽し気だ。
「チェイレイ小隊長。第一小隊を指定位置へ。――急げ」




