第十五章
興奮冷めやらぬ顔で浜の上空を鰐尾に続いて共に旋回していると、牙野が腰に手を当てて、空を見上げているのが見えた。相棒の騎禽もおとなしく翼をたたんで佇んでいる。
鰐尾に促され浜に降りる。
「上手に飛べているな。これなら見ていて安心だ」
おそらく、万が一にも事故が起こり、自分が振り落とされたりするようなことがあれば、すぐ動けるように待機していてくれたのだろう。
誰かに気にかけられ、見守られるという経験がほぼない安道は照れ臭いようにも感じたが、牙野の心配りと、指導してくれる鰐尾に礼を言う。
気付けば檻舎の方から剣江と天角もやって来た。
「安道。足の調子はどうだ」
牙野が気軽に聞いてくれる。そもそも龍達に変形を指摘されるまで問題であるとも思わず、長く放置したまま近衛兵団の任務に就いていたので、変形し固まってしまったところで自業自得だと思ってきたのだが、矯正が始まってから目に見えて足の形に変化が起こっている。矯正の痛みからは逃れられないが、少しづつ歪んでいた足先が正しく地面を踏めるようになりつつあった。
「痛みは、ありますが......順調に広がりつつあるかと」
そうか、と牙野が頷き、一度剣江と顔を見合わせて切り出した。
「竜化訓練を始めたものか、決めかねていてな」
安道は姿勢を正す。
「ぜひともご指導をお願い致します!」
牙野は少し笑って慎重に続けた。
「竜として何よりも大切な能力だ。早いところ使いこなせるようにしてやりたいが......」
剣江が後を続ける。
「身体に大変な負担がかかることになります。最初のうちは、力づくで押さえ込まれるようなことも多々ありましょう。私は足の矯正が終わってからを提案したいのですが」
天角も、迷いながら言葉を選ぶように尋ねる。
「でも、剣江先生。足の矯正は数年に及ぶ可能性があるのでしょう?」
「そうだな。矯正で足を使い物にならなくさせるわけにはいかん。この治療に焦りは禁物だ」
「でも、それじゃあ......」
安道は訝し気に尋ねる。
「何か急ぐ必要のある状況なのでしょうか」
「両国永き交誼相結ぶ儀につき、何卒御高配を仰ぎ奉り候。来る春早々、拙国より使者差し立て候段、御聞き届け賜り候わば恐悦至極に存じ奉るんだと」
そこに立っていたのは勇輝子だった。
手には手紙が二通。一通は開封済みであったが、もう一通は封がされたままだ。
近衛兵団の印章が捺されているのは、王族のみが使う青の封蝋だった。
「イミリーシャから手紙が届いたよ。こっちは安道宛」
勇輝子が二通とも渡してくれる。
アントニウスからアンドリに宛てられた手紙にはアントニウスが近衛騎士団長としてではなく王太子として龍乃国を訪れる予定であると書かれていた。
これはのんびりしていられない。使節が着くまでには竜の力を使いこなせるようになっていなくては。
冬が長く、厳寒期には国中が雪に覆われてろくな身動きも取れなくなるイミリーシャでは、外交も戦も春から秋にかけて行動するのが定石である。その期間は一年の半分以下でしかないので、下準備は前の年から、場合によっては何年も時間をかけて行う。
だがそれにしても来春の訪問を予告する手紙を出すにはいささか早いようにも思われた。
まだイミリーシャを出てから——
そこではっと気づく。季節の移ろわない常夏の龍乃国に来て、時間の流れを感じなくなっていたが、既にイミリーシャでは初雪がちらつく頃である。この国に来てから既に、数か月もの日々が過ぎていたことに思い至ったのだ。
「勇輝子様。この手紙を届けに来た者は、今こちらに?」
「おいでよって言ったんだけど、北鱗から少し離れたところに野営してるんだって。皇宮には北鱗の龍が届けてくれたの」
気持ちはわからなくもない。何もかもが見上げるように大きいこの国では、どれほど体格の良い兵士でも、人間は小人も同然である。襲われればひとたまりもないような状況に身を置く勇気を持てなくとも、仕方ない。
龍にその気は全くなくとも、人間にとって龍は、対抗する手段を取り得ない脅威の存在なのだ。
ゆえにこそ、親交を結び強い絆を構築しようとしているのである。
「返事が欲しいっつーんで今書いてるんだけど、安道もなんか書く?」
「はい。厚かましいお願いで誠に恐縮なのですが、筆記具をお借りできませんでしょうか」
安道のその律儀な態度に勇輝子は悪戯心を起こす。
「そなたに龍皇よりの親書を託そう。万難を排し、使者殿に手渡して参れ」
安道はすかさず膝をついて礼を取る。
「謹んで拝命仕ります」
天角と牙野が肩をすくめて笑う。龍乃国の龍皇は、人間を相手にするに相応しい作法やふるまいを、この子相手に練習するのは悪くないかもしれない。
状況を一緒に見守っていた剣江が少し心配そうにしながらもため息をついた。
「来春、王太子殿が来られるまでに竜化訓練を進められたいのでしたら、くれぐれもご無理はなさらずに。休眠期は本来、じっくり体を休めねばならないのですから。足の矯正にも注意を払わねばなりませんぞ」
「かしこまりました。何卒、よろしくお願い申し上げます」
勇輝子が執務室に誘ってくれ、筆記具を出してくれた。
用意されたのは、非常に上質な紙だった。紙越しに景色が透けて見えそうなほどに薄い。明かりにかざしてみると花柄の透かし模様が入っている。筆記に使うのは筆と墨である。
イミリーシャでは葦を削ったペンと羊皮紙が主流である。また安道の身分では、字を読むことはできても書く機会などはほとんどなかった。
また筆で字を書くのには骨が折れた。高級な紙を無駄にする訳に行かないので剣江に指導してもらい、何度か練習をして、ようやく書き上げる。
龍乃国の様子などを書き送ろうとして、いったん剣江と勇輝子にその内容を確認してみる。
国内情報を外部に伝えるのは諜報活動に当たる。これほどによくしてもらっている龍乃国に不利益を及ぼす不義理をしたくないと考えてのことだったが、勇輝子も剣江も笑った。
「別にばらされて困ることなんて、何もないから好きなように書いていいよ」
「鼻持ちならぬことを承知で申し上げるのですが、我が国の戦力は周辺諸国が一斉に仕掛けてきたところで蹴散らすのは誠に容易い。龍の弱点は寒さですが、我々は寒いところにはいきませんからな。知られたところで不利にはなりませぬ」
「甘い物用意してくれるとあたしの機嫌がいいよって教えといてあげて」
それでも一応目を通してもらう。すると勇輝子が言った。
「うちのことは別に何書いてもらってもいいけどさ。自分のことも知らせてあげれば?頑張ってるよって」
「…いえ。そのような些事、陛下や王太子殿下にお知らせするほどのことではございません」
勇輝子は何かを言いかけるが剣江がそれを抑えた。勇輝子が何を言いたいのかおおよそ見当がつくが、安道は敢えて言葉にしなかった。
国王も王太子も、一兵卒のことなどで手を煩わせていい相手ではない。その一兵卒は役に立つとだけ知り置いてくれれば、自身の状況などは余計な雑音に過ぎまい。
勇輝子は不満そうにしていたが、もう一度剣江にたしなめられ、封をした。




