第十章
「帰ったか、勇輝子」
本殿内の一部屋に案内されると、低く落ち着いた声が迎えてくれた。
年配の男龍だった。
鱗は若い龍たちよりも深い色を帯び、ところどころに鈍い艶を宿している。角は太く、根元に幾重もの層を刻み、長い年月を重ねた木の年輪のように重厚だった。
目元は穏やかだが、奥に沈む光は鋭い。きっと長い時を生き、多くのものを見、知ってきたのだろう。
勇輝子の顔がぱっと明るくなる。
「ただいま、剣爺。お留守番ありがとね!」
響きの柔らかい含み笑いを漏らし、剣爺と呼ばれたその龍は、ゆっくりと安道へ視線を向けた。
「勇輝子からの先触れを受け取り、お待ちしておりました。このじゃじゃ馬龍皇の相談役を務めます、剣江と申します」
「あのさー、揃いも揃って一回あたしのこと貶すの、どういうことなの? さもこれがウチの伝統みたいに」
勇輝子の抗議を、誰も取り合わない。
安道は、どう振る舞えばよいのか分からず、立ち尽くす。
恩ある龍皇をどう擁護すればよいのか——そう思う間もなく、牙野が軽く肩を叩いた。
「剣江殿はこの大陸で最長命の生き字引だ。大陸の諸種族にも通じておられる。人間についてもな」
「竜人を診るのは、さすがに初めてですが」
剣江は微笑を崩さぬまま、安道の前に立った。
「できる限り、お役に立ちましょう。おかけなされ」
促されて座りながら、安道は興味深げにあたりを見回す。紙を張った引き戸を脇に寄せ、大きな開口部にはすぐ外に繋がる縁があり、その向こうに池と木立が広がっている。外の光がやわらかく差し込み、緑が揺れて見えた。潮の気配と、庭の草の匂いがかすかに混じる。
室内には低い机がいくつも並んでいる。机の上には巻かれた書物、綴じられた冊子、書きかけの紙片が積み重なり、石の文鎮で押さえられていた。
壁沿いには木の棚が天井近くまで組まれ、そこにびっしりと本と箱が並ぶ。
梁からは束ねられた薬草のようなものが吊るされ、ゆるやかに揺れていた。窓辺にはすり鉢、乳棒、小刀、匙。
診察は穏やかに始まった。
脈を取り、瞳にまぶしい光を当てて覗き込み、鱗の色艶を確かめる。
「低体温は、心配ありませんな。回復しております。道中、湯に浸かる機会を得られたのが良かった。よい判断です」
勇輝子が胸を張る。
「でしょ?」
「……鱗の艶落ちは、適切に食事を取っていれば戻ります。また日中はなるべく陽に当たりなされ」
剣江は淡々と続ける。
「休眠期は、すでに始まっております。眠気を感じたら抗わぬこと。寝床か、暖かく安全な場所で休むように。無理は禁物です。水分をよく取り、心穏やかに。頭痛や吐き気があれば、薬を処方します」
安道はひとつひとつ、律儀にうなずいた。
次に剣江は、安道の足に目を移した。
鱗の下で、骨の並びが不自然に押し込められているのがわかる。
本来なら緩やかに弧を描くはずの甲が、途中で無理に折り曲げられたように盛り上がっていた。
「……長く、窮屈な靴をお召しだったようですな」
痛みは?という問いに安道は反射的に答えてしまう。これまでずっとそうしてきたように。
「ございません」
「ないのではなく、慣れておるだけでしょう」
剣江の目が鋭く光る。剣江は両の手で足のたわみをそっと押し広げる。
その瞬間、安道の呼吸が止まった。じわりと奥から痛みが滲み出る。
「……っ」
剣江はすぐに手を緩めた。
「骨は完全に固まってはおりません。まだ望みはあります」
勇輝子が身を乗り出す。牙野もほっとした様子だった。
「戻る?」
「竜も龍も、成長の折に骨格が組み替わる。休眠期は変化の時。その回復力に期待できるかもしれん」
剣江は静かに続ける。
「毎日温浴を長めになさいませ。湯でよく温め、血を巡らせる。湯の中で十分に温まりゆっくりとほぐしなされ。無理はせぬように」
机の横から、細い木片と布を取り出し、安藤の両足にあててみる。
「併せて矯正用の器具を作りましょう。夜はこれを当て、骨をわずかずつ広げる。日中は軽い装具で支え、歩行の負担を減らしましょう。少しずつです」
安道は自分の足を見る。
「……やってみます」
「よろしい」
剣江は穏やかに頷いた。勇輝子と牙野がほっと息をつく。
「さて。我ら龍には翼は生えませんが、竜は総じて翼を持つ種です」
剣江の目が、わずかに細められる。
「休眠期が明ければ、変身時に前肢にあたる骨格が変化し、皮膜が形成されます。もっとも——」
穏やかな声が、わずかに低くなる。
「竜人であるあなたに、どこまで竜の特徴が現れるか。率直に申し上げて、予測はつきません」
安道は黙って聞いていた。
翼が生える。それが自分に関わる話だとは、どこか現実味がない。
剣江は続ける。
「そして......尾については、さらになんとも申し上げられませんが、ひとつお伝えするならば」
切り落とされた尾の痕に、視線が落ちる。
「翼が生えても、尾が再生せねば——あなたは飛べません」
慎重な宣告だった。
「竜は飛翔時、尾で均衡を取り方向を定めます。尾という舵を欠けば、思う方へは進めません」
安道は、ほとんど動揺しなかった。飛ぶことなど、もとより考えたこともなかったのだ。
だが。
勇輝子の瞳の雷光がはじける。勇輝子にとって尾の切除はよほど許し難い蛮行だったのか、俄かに黒雲が沸いた。
牙野はその変化を横目で捉え、すかさず菓子を手繰り寄せて勇輝子の口に押し込む。
「あ、あの……俺のために怒ってくれて、ありがとうございます。俺は、その……飛べなくても。もしよろしければ、騎禽の乗り方を、教えていただけませんか」
勇輝子の怒りを少しでも和らげたくて、思わずそんな言葉が口をついて出た。
途端に、勇輝子の顔がぱっと明るくなる。
「もちろん! 式典で暴れちゃったあの子ね、慰めてあげようと思って連れて帰ってきたんだ。 あの子を、安道にあげるよ」
「……あの騎禽には、悪いことをしてしまいました」
表情を曇らせた安道を見て、勇輝子は慌てた。なにしろ自分が指示して起こした茶番だったのだから。
「大丈夫大丈夫! 少しずつ仲良くなればいいよ」
牙野も、事情を既に聞いている剣江も、何も言わないが、どうにも危なっかしい龍皇の様を見て、ひっそりとため息をついた。




