序章
春の夕空に溶けていくように、一頭の竜が遠ざかっていく。
大きな翼を弱々しく羽ばたかせ、ボロボロの体を、引きずるように。
それを見送るのは、竜の――息子。
人の倍はあろう巨躯に具足をまとい、鱗板に覆われた手には、血に濡れた愛用の重剣を握っている。
実の父竜を斬ったその大剣は、夕焼けよりもなお紅かった。
周囲では、イミリーシャ王国王立近衛兵団の兵たちが、勝利の鬨を上げている。
突如襲来した暴虐竜を、撃退した――その歓喜に満ちた声だ。
アンドリ・チェイレイは、ゆっくりと振り返った。
聳え立つのは断崖の急峻な岩場を土台に築かれたイミリーシャ王国のイミリスノープル王宮。そのバルコニーには仲間達が、自分の戦いを見守ってくれていた。
母だけを一にする人間の実兄は、誇らしげに頷いてくれる。
兵たちの目があるからだ。いずれイミリーシャ王国の王位を継ぐ王太子として、勝利を讃えねばならない。
けれど。手すりを掴むその指が、激情を押し殺すように、かすかに震えているのを、竜の目を持つアンドリは、見逃さなかった。
(……兄上)
王国の平和を守る決断が、弟に――実の父竜へと刃を向けさせた。他に選択肢のなかった決断だったが、それが彼を苦しめているのだと分かる。
そして、その隣。
兄の倍以上はあろう巨体を持つ、ひときわ巨大な女龍。龍乃国を統べる龍皇。
近縁種である竜の自分を、ここまで導いてくれた大恩ある龍皇も、涙を堪えている。彼女もまた、自らの力不足であの孤独な暴虐竜に居場所を作ってやれなかったこと、アンドリが父竜を退ける筋書きになってしまったことを、悔いているのが痛いほど伝わってくる。
イミリーシャと龍乃国は正式に国交を樹立し、手を取り合って世界に破滅の炎をもたらす暴虐竜の脅威に立ち向かうと合意したのだ。
見事な戦いを見せた指揮官に興奮冷めやらぬ様子で兵達が喜びを分かち合おうと取り囲んでくる。
配下の働きを笑顔で労ってやりながら、アンドリ•チェイレイは心の内を誰にも悟らせないように微笑んだ。
ずっと独りで戦ってきた。長いこと、雪嵐の吹き付ける断崖で孤独に立ち尽くしてきた。
今ではこれほどたくさんの仲間に、いつも自分を気にかけてくれる王太子の兄に、誰よりも強く優しく、導きの手を差し伸べてくれる龍皇に、囲まれている。
幸せを噛み締めながらも赤く染まった西の空をつい見上げてしまう。あの巨大な竜体はもう、夕日のなかに消え、竜の目をもってしても捉えることはできなくなっていた。
寂しくない、と言えば嘘になる。
龍達は自分を心から迎え入れようとしてくれたが、龍は竜の近縁種に過ぎず、真の同胞とは呼べない。
兄を含め人間達からの信頼も勝ち得るに至ったが、彼らはあくまで別種族だ。
ようやく巡り会えた父竜だけが、鱗を分けた唯一の肉親だったのに。
だが自分には成すべきことがある。
バルコニーを見上げて、アンドリは踵を合わせ、姿勢を正す。龍乃国龍皇とイミリーシャ王太子に最敬礼を送る。
(陛下。兄上。どうか、悲しまないでください。俺は、大丈夫ですから)
いつでも、自分などに心を砕いてくれた兄と龍皇には、感謝してもし尽くせない。そんな二人が今も胸を痛めてくれているのが心苦しい。
(これでよかったんです。父さんも、同じ思いでいるはずです)
胸の奥で、言葉を噛み締める。
そして、ふと。
遠い記憶がよみがえった。
すべての始まり。
あの夏の早朝――
龍乃国の龍皇一行が、イミリーシャを訪れた日。
あれから、どれほどの歳月が流れただろうか。




