第八章
二日、三日と空の旅を重ねるうちに、安道ははっきりとした世界の変化を感じ始めていた。
風がやわらぎ、空気が次第に暖かく、そして濃くなっていく。
冷たさで肺が痛むこともなくなっていた。
山肌を覆うように続いていた針葉樹林は、いつしか背を低くし、やがて途切れる。見たことのない青々とした草木が生い茂り、色鮮やかな花々がそこかしこで咲き誇っている。
四日目、眼下に広がったのは、安道がこれまで一度も見たことのない光景だった。
起伏の少ない大地が、果てしなく続いている。
国土のほとんどを山岳地帯に覆われているイミリーシャの外に出たことがなく、放牧地よりも広い場所を見たことがなかったので、こんな平らな場所が世界にはあるのかと、圧倒される。
その日、龍乃国の領内に入り、小さな集落に宿を借りた。
迎えに出てきたのは、皆、龍族だった。
すべての民が全身に鱗を纏い、角を額に生やし、背後では尾が揺れている。男も女も安道より背が高く、そして誰ひとり衣を身に着けていない。
「ゆっこ、おかえりー。人間の国、どうだった?」
「ちっちゃくて可愛かったよー。装飾とか衣装とかすんごい細かくて、芸術細工って感じ。でも寒かったわー」
気軽なやり取りを聞きながら、安道は周囲を見回した。
家屋や井戸といった造り自体は、イミリーシャで見慣れたものと大きくは変わらない。
だが、その寸法がまるで違う。
龍族のために建てられた建造物は、装飾こそ控えめで武骨とも言えるが、人間の国の三倍はあろうかという大きさだった。
イミリーシャでアンドリは、おそらく最も背が高く、天井や梁に頭を打つこともしばしばだった。その自分が、ここでは小人になったような気分である。
「あれ? この子は?」
龍乃国は、全国民を合わせても千頭ほどしかいない。 ほとんどが顔見知りなので、誰がどこに住んでいるのかを全員がお互いに把握しているという。ゆえに、見慣れない存在がいれば、すぐに気づく。
「びっくりするでしょ。なんと竜人の子だよ。人間のお母さんから生まれたんだって。イミリーシャで兵隊さんやってたから、引き抜いてきちゃった」
あまりにも勇輝子の軽い説明に、一行は眩暈を覚えかける。集落の龍たちも目を見開き、随行してきた牙野たちに視線を向けたが、彼らが揃って無言で頷いたのを見て、無理矢理納得したようだった。
「龍乃国へようこそ、竜人さん。新しい家族をお迎えできて嬉しいよ」
そう言って前に出てきた女龍が、朗らかに名乗る。
「ここは北鱗集落。私は村長の蓮空です。好きなだけ滞在していって。勇輝子に振り回されすぎて疲れたら、いつでもうちに来てね」
「別に誰のことも振り回してないんですけど!」
すぐさま勇輝子が噛みつく。
「ちょっとは自覚しなさいよ。牙くんたちがかわいそうでしょ」
軽快な言い合いが始まり、周囲からくすくすと笑いが漏れる。
この集落でも、龍皇であるはずの勇輝子に誰もかれもが気安い。なんと返事をしたものか焦るが、誰も安道の焦りを気にかけてくれなかった。あまりにあたり前な光景ということなのだろうか。
北鱗集落の龍たちは、勇輝子らに木造の平屋を一棟あてがってくれた。
案内役は、最初に声をかけてくれた蓮空だ。
家の入口をくぐると土間になっており奥へと続く廊下は一段高くなっていた。その前には湯気を立てる大きな桶がいくつも置かれている。
「龍乃国ではね、屋内に入る前に必ず足を洗うか拭うの。土を家の中に持ち込まないように。靴も脱いでね」
勇輝子が段に腰掛け、自分の湯桶に足を入れながら説明してくれる。
その足は、まるで猛禽のようだった。足先は三本の指が分かれた形をしており、先端に鋭い鉤のような爪が生えている。
節のひとつひとつがはっきりと盛り上がっている。この脚は恐ろしい握力を発揮するに違いない。一度とらえられた獲物はおそらく二度と逃れることはできないだろう。先日勇輝子に肩を掴まれた時の締め付けを思い出してやや身震いする。
天角や亜爪、鰐尾や牙野、ほかの龍も全員同じ足をしていた。
安道は、わずかに躊躇ってそっと自分の靴紐を解き、ゆっくりと脱いだ。
現れた足は、他の龍たちとはまるで違った。指は五本に分かれ、爪は小さく丸い。かかとがあり、掴むというより、踏みしめる形をしている。龍の足よりも幅が狭く、全体に縮こまって見えた。
長く固い革靴に押し込められてきたせいか、指は内へ寄り、甲は窮屈そうに反っている。自由に地を掴む勇輝子たちの足と並ぶと、どこか頼りない。
湯桶にそっと足を沈める。温かさがじんわりと染みていく。
勇輝子がじっと見つめ、次いで天角と亜爪も覗き込む。
「……い、痛く、ないの?」
天角が思わず尋ねる。亜爪も顔をしかめた。
「ずっとこんな形で押し込められてたのかよ? これ、かなり変形してるぜ」
安道は反射的に足をわずかに引いた。
湯の中で隠すように。
「……問題ありません」
そう答えながら、視線は落ちている。
「本当に痛まないの?」
勇輝子の重ねての問いに、安道は少し言い淀む。雷光に貫かれ思わず目を逸らす。
「......慣れておりますので」
長い間、我慢してきた。我慢するのが当然だった。気づかぬふりをするうちに、痛みはただの背景になっていた。
牙野が安道の湯桶の前に膝をつき、低く問う。
「触れてもいいか」
安道はわずかにためらい、それでも頷いた。
大きな指先が、足の甲にそっと触れる。ほんの少し、湾曲部を反っただけで、痛みが走った。声は挙げなかったが、安道の呼吸が乱れたのを見て、痛みを想像してしまった亜爪が思わずまた顔をしかめる。
「やっぱり痛いんじゃん」
天角も眉を寄せる。鰐尾は何も言わず、ただじっと見ていた。
牙野は手を離し、安道に向き直る。
「明日には都へ着く。剣江殿に診ていただこう」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「焦ることはない」
その笑みは、安道の歪んだ足ではなく、その持ち主を見ていた。
足を拭って石の土間から段を上がると、家は外から見るよりもずっと奥行きがあるのがわかった。
その向こうに広がっているのは、乾いた植物の繊維を幾重にも編んで作った敷板を隙間なく敷き詰めた不思議な床材だ。龍達の爪先がわずかに食い込み、しなやかに体重を支えている。
この床は、龍達の鉤爪の生えた足に合わせて作られているのか。
安道も、裸足のまま敷板を踏んでみる。不思議な感触が足裏に伝わる。石や木の床よりずっと柔らかいのに身体を均等に支え、冷たさはない。心地よいとすら思えた。
廊下はまっすぐ奥へと続いている。
片側は細い柱だけで支えられ、庭へと開かれていた。植えられた木々が風に揺れ、暖かな光が家の奥まで入り込む。
柱ばかりで壁がほとんど見当たらない。壁の代わりに、木枠に紙を張った引き戸で部屋を仕切っている。
イミリーシャの城館は、冷たい外気を遮り、外敵を防ぐために、重く硬い石を高く積み上げて築かれている。壁は分厚く、窓は小さい。そして王の権威を誇示するために、豪奢な彫刻や装飾を施してある。
だが、ここ龍乃国の家屋はまるで思想が異なる。
屋内と屋外の境は曖昧で、開け放たれた回廊から風が通り、光がよく届く。壁は最小限で家の中にいれば誰がどこにいるか気配が伝わる。また外の様子もよく聞こえてくる。この国に流れる価値観そのものを映しているようだ。
奥の広間へ通されると、立派な柱が高く太い梁を誇らしげに支えていた。
床は一面、植物を織り込んだ同じ敷板で覆われ、歩くたびに音を吸い込む。
壁際には更に一段高くなった場所があり、そこに花と掛け物が飾られている。
勇輝子たちは居間へ入り、荷を下ろすや、身に着けていた衣服をすべて脱いでしまった。
目のやり場に困っていると、牙野が説明してくれる。
「私たちは寒い時に外套を纏う以外、着衣の習慣がない。だが、急に習慣を変えることはない。君は好きにしたらいいよ」
ただ突起のある鱗板に覆われた体で衣服を着ていては糸が引っかかり、鱗板が剥がれてしまうことがあるので注意するようにと教えてくれた。確かに安道は兵士に支給される隊服がすぐに傷み、丁寧に扱えと叱られていた。
自分が今、身に着けているのはイミリーシャを発つ前に、勇輝子達が自分達用に持ってきていた上衣と下穿きを安道の体の大きさに合わせて詰めてくれたものだ。龍達が常に見せてくれる優しさに包まれているようで惜しい気がするし、まだ恥ずかしいが思い切って脱ぐことにした。
鱗を見られるのが何よりも嫌だったはずだったが、周囲の全員が鱗を生やしているのだ。自分でも意外なほど、裸で歩くことをあっさり受け入れることができた。
「あのー。いやだったらいいんだけど、尻尾のところ見てもいい?」
痴女と呼ばれたのがよほど心外だったようで、勇輝子は慎重に尋ねてきた。先程安道の足を見たせいか、どうしても気になるようである。
その質問に言葉以上の意味がないことを学んだ安道は決心して頷いた。そして背後を勇輝子達に向ける。
勇輝子は乱暴に切り落とされ雑に縫い合わされたらしい尾の名残をみて顔をしかめた。
「ひどいね。休眠期明けたら、生えてくるかな」
「竜は大人になると翼も生えるというからな。うまくすれば再生できるかもしれないが、半竜、いや竜人か。彼の場合は何もかもが未知数だな...」
「とにかく早く皇宮に戻って、剣江先生に診てもらいましょ。安道くんは栄養を付けなければならないし、それに今後の方針も」
天角が言った言葉がふと気になった。何についての方針なのか、と問おうとした時、集落の住人が夕餉の準備ができたことを告げに来たので話が終わってしまった。
集落の中央にある集会場は、思いがけず大きかった。イミリスノープル大聖堂の礼拝堂より広い。
室内はあの柔らかな植物の敷板で一面覆われ、丸い座布団がいくつも置かれている。集落中の龍が大部屋の各所にいくつもの鍋を囲んで輪になって座る。
不思議な調理光景だった。安道にとって食事は、厨房で作られ完成したものを卓に運んで食べるものだが、彼らは思い思いに自分たちの鍋に野菜や肉を入れている。鍋の下を見れば床のあちこちに直接炉が切ってある。そして見たことのない青い炎が吹き出しているのに、煙は上がらず、薪もないのだ。深い鉄鍋の中で、湯気が立ちのぼる。
薄く透き通った出汁に、根菜や葉野菜、きのこ、豆、そして肉が入っている。
香草の匂いがやわらかく立ちのぼり、鼻をくすぐる。
集落の龍たちは次々とやってきた。尾を揺らしながら龍達が後から後から集会場内に入ってきて輪に加わる。
「竜人だって?」
「よく来たね」
声が絶え間なく飛んでくる。安道はそのたびに背筋を伸ばし、律儀に応じた。
「アンドリ、いえ、安道龍輝と申します。お招き、ありがとうございます。ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い致します」
丁寧に返し続けるうちに、鍋の中身は次々と掬われ、それぞれの椀に移されていく。
「……みんな。そろそろこの子に食事をさせてやってくれ」
牙野が低く笑いながら間に入った。
「挨拶は後でもできる。腹が減っているだろう」
すぐそばにいた鰐尾が安道の腕を軽く引き、自分の隣に座らせる。椀に鍋の具をよそい、安道に差し出してくれる。
「食べられない食材があったら残していいですよ」
「滅相もないことです。いただきます」
素材は、イミリーシャで食べ慣れたものと変わらない。だが一口含むと味付けが全く違うことに気づいた。塩気は控えめで、出汁の旨みが静かに広がる。
山の香りが溶け込み、やわらかな旨味が後を引く。舌にするりと馴染みいくらでも食べられると思った。
すぐそばの別の輪では、勇輝子が他の鍋を囲み、酒を手にしていた。
亜爪と天角が笑い、牙野が肩をすくめて苦笑し、鰐尾も楽しげに微笑んで、周囲は大いに盛り上がっている。
食事が終わる頃には、室内は笑い声と湯気で満ちていた。
そして、食後。
「さて、お風呂行こ、お風呂」
案内されたのは、集会場の裏手に設けられた湯殿だった。
大きな炉で燃えるあの青い炎が、巨大な窯で沸騰するほどに湯を温めている。地中から出る草水という燃える気体に火をつけているのだという。
安道は目を見張った。
「……薪を用いずに、これほどの湯を」
「北鱗は特に草水が豊富に出るんだよ」
どの家にも草水の管をそれぞれの台所に引いてあり、日々湯を沸かすのは至って簡単だと勇輝子は笑う。
各戸に湯殿を整えることもさほど難しくないのだが、湯浴みはみんなでした方が楽しい、という理由で集会場に共同浴場を建設して常に開放し、一日中自由に使ってよいようにしてあるというから、驚きである。
湯殿のはるか手前から、すでに香ってくる。ほのかな木の香りと、湿り気を含んだ温かい気配が頬を撫でる。
引き戸が静かに開いた瞬間——木の香りと熱気が一気に濃くなり全身を包み込んだ。天井も壁も、節の浮いた木板張り。湯気を受けて艶を帯び、柔らかく光っている。 梁は高く、広い空間に音がよく響く。
近衛兵団官舎の蒸し風呂も、数人ずつで入れるような大きな作りだったが、それ以上である。
中央には木製の湯船が据えられているが、床の上に置いてあるのではなく、床をくり抜いて高さを下げた部分に湯を溜めている。 縁は厚く、どっしりとした造りで、先ほど外で見かけた窯から伸びる管が脇に差し込まれている。
そこから惜しげもなく湯が流れ込んでいた。
縁を越えた湯が床へとあふれ出す。床板の間に切られた細い溝へと流れ込み、 そこから外へと消えていく。
安道の胸が、ひやりと冷えた。
——溢れている。
イミリーシャでは、湯は貴重だ。火打石と鋼で火花を火口に落とし、息を吹きかけて火を熾す。夏の間に切り出して乾燥させた貴重な薪をくべる。井戸や川から何度も何度も水を汲んでは運び時間をかけて温める。そうして大変な労力を費やして沸かした湯を、 一滴でもこぼせば叱責は免れない。 蒸気を満たした蒸し風呂内から湯気が漏れ出ないよう順番を守り、冷めるまで使い切る。それが当たり前だった。
なのにここでは、簡単に火が熾せ、薪もいらない。湯は絶えず満ち、あふれ、流れ去る。
「安道くん。別々がよければ先に入っていいわよ」
と天角が気を回してくれた。
だが安道は、意を決して首を振った。
「ご一緒しても、よろしいでしょうか」
湯気の向こうで笑い合う龍たちの輪を、外から眺めているだけではなく、その中に入ってみたいと思ったのだ。
牙野が「無理はしなくていいぞ」と確認しかけた途端、勇輝子が大喜びで安道の肩にぐいと腕を回す。
「よっしゃ、そういうことならこうだ!」
抵抗する間もなく、巨体に引き寄せられ——
ざぶん、と豪快な水音が湯殿に響いた。
高く跳ね上がる飛沫。湯気の幕が一瞬揺れ、石壁に湯が弾ける。
安道は思わず血の気が引いた。湯をこんなに溢れさせてしまった。背筋が凍るような感覚が走る。
だが、誰一人、気にも留めていなかった。
水位の下がった湯船にどんどんと湯が流れ込み、また満ち、そして溢れる。床を伝った湯は排水溝へと消えるのに、熱い湯気が途切れることはない。
「ゆっこ、子どもかよー」
皆も次々に入ってきて、笑い声が重なる。湯気が満ち、空気は温かく、濃く、柔らかい。
勇輝子は顔を拭いながら満面の笑みで言った。
「ね。湯浴みはみんなでした方が楽しいでしょ?」
湯に包まれた身体は軽い。湯気に溶けるように、視線も、距離も、境も曖昧になる。
誰も、安道の鱗に妙な視線を送ってこない。尾の痕を見て目を逸らさない。
熱い湯が肩まで満ちる。疲れが、氷のように溶けていく。
安道は、ゆっくりと息を吐いた。湯気の中で交わされる笑い声が、耳の奥から頭の中にまで響き渡って沁み込んでいく。
自分がその輪の中にいることが、まだ少し不思議だった。だが——
湯浴みは、みんなでした方が楽しい。 その言葉が理屈ではなく、実感として胸に落ちた。
イミリスノープルを発ってたった四日。龍達が垣間見せる思想や習慣は、安道にとって驚きの連続だが、意外とそれを楽しんでいることに気づいた。




