竜哭の彼方外伝 月下の羽音
龍乃国は、今日も太陽の光が眩しい。
「力抜けって!」
「ぬ、抜いております!」
湯船に盛大な水しぶきが上がる。
安道は必死だった。イミリーシャの川は冷たく流れも速い。騎士団の訓練の一環に水泳もあったのだが、冷水を浴びるとひどく体調を崩すので、泳ぎは習得できなかったのだ。
「沈みます!」
「沈まねぇ! オレが支えてるから!」
龍の中では最年少の亜爪は腹を抱えて笑った。初めて出会った自分よりも年若の安道を非常に気に入っているようで、飛び込み方、潜り方、浮き方、泳ぎ方を、毎日のように教えてくれているのだった。
安道が龍乃国へ来てから数週間の間、ずっとである。
「ほらもう一回!」
「お、お待ち下さい――」
その時だった。
「あー、ごめーん。一旦出てー」
聞き慣れた声が響く。振り返った安道は固まった。
頭に布を巻き、桶と長柄の刷毛を抱えた巨体の女龍が立っていたからだ。
「勇輝子様!? な、なぜそのようなお姿で!?」
勇輝子はきょとんとする。
「ん? あたし今日風呂掃除当番だから」
あまりにも自然な口調だった。
安道は言葉を失う。
勇輝子は首を傾げた。
「ごめんねー。浜の方に椅子出してあるから、ちょっと座って待っててくれる? すぐ終わるからさ。あ、飲み物いる?」
龍皇は風呂掃除を始めながら、持参している水筒を渡してくれた。
「お、俺が代わります!」
「え?」
「このような仕事を勇輝子様にさせるわけには!」
安道の言葉は悲鳴も同然だった。
隣で亜爪が吹き出す。肩を震わせながら安道を制止する。
「いいんだって安道。今日はゆっこが当番なんだから」
「当番……?」
「当番」
「龍皇陛下が?」
「龍皇陛下だからなんだよ。当たり前だろ」
当たり前ではありません!
安道は頭を抱えそうになりながら、食い下がる。
「で、では! 俺も当番分担に加えてください!」
勇輝子と亜爪は顔を見合わせると、二人同時にため息を吐く。
「な、何でしょうか」
安道は戸惑って尋ねるが、亜爪が呆れ顔で言う。
「お前、自分が休眠期まっただ中だって分かってねぇだろ」
「休眠期は病ではないのでしょう!」
「病じゃねぇよ! 休んで眠る期間なの!」
「ですが――」
「ですがじゃねぇ!」
亜爪は即座に言い返した。
勇輝子が清掃用具を肩に担ぐ。
「安道」
「はっ!」
「昨日何時間寝た?」
安道は視線を泳がせた。
「……も、申し訳ありません。六時間ほど、眠り込んでしまいました」
勇輝子も亜爪も眼を剥いて固まる。
「おとといは?」
「い、一昨日も……その……同じくらいです」
沈黙。
勇輝子は眉間を押さえた。
「睡眠時間、全っ然足りてないよ」
「え?」
安道は目を瞬いた。
「眠れないの?」
「いえ、そのようなことは」
「じゃあ何でちゃんと寝ないのさ」
「何故と申されましても……」
安道は本気で困惑した。六時間も眠れば十分ではないのか。むしろここ数日は寝過ぎている気さえする。これ以上眠るなど怠慢ではないだろうか。
勇輝子は頭を抱えた。
「剣爺に薬処方してもらおっか?」
「いえ!」
安道は反射的に叫んだ。
「それには及びません!」
「じゃあちゃんと睡眠取んなって」
有無を言わせぬ口調だった。勇輝子は亜爪を振り返る。
「亜爪。掃除すぐ終わらすから、安道しごきまくって寝かしつけて」
亜爪が親指を立ててにやりと笑う。
「まかしとけ」
その日の午後。
安道は剣江の部屋を訪れていた。
「何か仕事を頂けませんか」
龍達は頭数が少ないので、老いも若きも龍皇も、全員様々な仕事を分担している。風呂で遊んだ後は亜爪も、檻舎の清掃と騎禽の餌やりの仕事に向かった。
安道はどうにも落ち着かなかった。龍乃国へ来てからというもの、誰も彼も休め眠れと言う。
寝転んで本を読んでもいい。木陰で茶や甘味を食べてもいい。好きに過ごせばいい。
皆そう言う。
だが安道にはそれがどうにも理解できなかった。
休んで、それから何をすればいいのだろう。
剣江の執務室を訪れた安道は真剣な顔だった。
「少しでも皆様のお役に立ちたいのです」
机に向かっていた剣江の筆が止まった。剣江はゆっくりと顔を上げる。
「安道殿」
「はい」
「貴方の仕事は既にありますぞ」
安道の顔が明るくなる。
「本当ですか」
「ええ」
剣江は一本ずつ指を折った。
「少しでも休息を取ること」
明るかった顔がすぐに曇ってしまった。
「足の治療を続けること。そして成獣化を遂げること」
安道は不満げに身を乗り出す。
「それは仕事とは申せません」
「申します」
即答だった。
「成獣化は竜の一生を左右する大仕事ですぞ」
「しかし」
「しかしではありません」
剣江は鋭い視線を寄越す。
「貴方の身体は今、どんどん成長しようとしておる最中なのです。その身体に無理をさせるような無責任な行いは、お慎みいただけませんかな」
安道は反論できなかった。
だが納得もできない。
何もしないまま世話になり続けることに、どうしても居心地の悪さを覚える。
その時だった。
「失礼します」
扉が開いた。入ってきたのは鰐尾だった。
鰐尾は亜爪から事情を聞いたと前置きし、それから柔らかく微笑んだ。
「よければ檻舎清掃と騎禽の餌やりを、亜爪とわたしと一緒に担当しますか?」
安道は勢いよく顔を上げた。
「ぜひご指導お願い致します!」
「しかしだな、鰐尾」
剣江が眉を寄せる。鰐尾は穏やかな笑みを崩さない。
「騎禽たちが早く安道くんを受け入れられるように、檻舎で過ごす時間を増やした方がいいと思っていたのです」
安道は首を傾げた。
鰐尾は続ける。
「勇輝子は碧斗を安道くんの翼に定めたのですけど」
そこで少し苦笑した。
「碧斗はまだ安道くんを怖がっていますので」
安道の肩がわずかに落ちる。イミリーシャでの式典の日に安道が起こした騒動は、今思い出しても申し訳なくなる。
「今のままだと、騎乗を許してくれないと思うんです。ですので、交流を持つ時間を増やしたいと考えていました」
安道は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げた時には、先ほどまでの沈んだ表情が消えていた。
「ぜひよろしくお願いします」
鰐尾は嬉しそうに頷く。そして人差し指を立てた。
「ただし」
安道の背筋が伸びる。
「体調に支障を来すような無理は許しませんよ」
「はい」
「もう耳にたこができるほど申し上げていますけど」
鰐尾は苦笑した。
「休眠期は体調に波があるものなんです」
「急にひどい眠気に襲われて、その場で倒れ込むことだってあります」
安道は思わず眉をひそめる。どうにも実感が湧かないが、鰐尾は真剣だった。
「眠気を感じたら、正直に申告してくれますか」
一瞬迷いが生じたが、すぐに安道は真剣な顔で頷いた。
「お約束いたします」
鰐尾は満足そうに笑う。
「剣江先生、そういうことでよろしいですか」
剣江は腕を組んだまま考え込んでいたが、やがて諦めたように息を吐く。
「仕方ありますまい」
そして安道にひたと視線を当てた。
「くれぐれもご無理は禁物ですからな」
「承知致しました」
翌朝から、安道は誰より早く檻舎へやって来るようになった。
糞や羽毛を掃き集め、水を換え、餌の肉を切る。
網の破れを補修し、はずれかけた遊具を直し、葉の伸びすぎた止まり木の枝を整える。
その間ずっと、碧斗は一番高い止まり木から安道を見下ろしていた。
その遠い止まり木を見上げながら、安道は碧斗の名を何度も呼んだ。
「おはよう碧斗。今日も良い天気だな」
反応はない。それでも安道は話しかけ続けた。それが鰐尾の指示だった。
鰐尾が感心したように笑う。
「根気がありますね」
「根気だけは自信があります」
安道は真面目に答えた。
その時。
安道の身体が揺れた。
「安道くん?」
「え?」
本人も気付いていない。桶が手から滑り落ちる。鰐尾が素早く支えた。
「休憩しましょう」
「大丈夫です」
大欠伸が出た。安道自身が驚き、とっさに取り繕おうとする。
「今のは――」
「休憩です」
「ですが――」
「休憩です。そうですね。十分だけ」
鰐尾は機転を利かせて言った。期限を切られたことで納得した安道は、木陰の長椅子へ座り、渡された果実水を素直に受け取った。
そしてその三十秒後、鰐尾はそっと安道の身体を長椅子に横たえてやることに成功したのだった。
「お。寝たじゃん!」
亜爪も檻舎の清掃用具を持ってやってきて、嬉しそうに言う。
その時だった。
「お?」
鰐尾も気付く。
碧斗がいつの間にか近くまで降りてきていたのだ。
鋭い猛禽の瞳が、眠る安道を見つめている。
碧斗はしばらく安道を見つめると、そっと首を伸ばした。
そして眠る安道の髪を一度だけつつく。
亜爪が目を丸くした。
「これは予想以上ですね」
碧斗はまた止まり木へ戻っていった。
亜爪は嬉しそうに歯を見せて笑う。
「これ、いけるな」
鰐尾も微笑んで頷いた。
「寝たか。よくやった鰐尾」
牙野がやって来て、安堵したように息を吐いた。
眠る安道を抱き上げようとする。安道の寝室に運んでやろうとしたのだが、鰐尾がふと、手を上げた。
「今日はここで寝かせてやりませんか」
意外な顔をして、牙野が鰐尾を振り返った。
「碧斗がさっきまで近くに来ていたんです」
牙野は少し目を見開いてから、碧斗を見上げた。
青い騎禽は少し離れた場所から安道を見ていた。
「なるほど」
「布団を運んできます」
牙野は立ち上がる。
「私が持って来よう。安道を頼む」
しばらくして布団を担ぐ牙野の後ろから、なぜか勇輝子が現れ、天角までやって来た。
「何やってんのあんた達」
「野営」
答えたのはなぜだか同様に布団を地面に敷いている亜爪だった。
「安道、野営楽しかったって言ってたからさ」
勇輝子がぱっと顔を明るくする。
「じゃああたしもここで寝よーっと!」
気付けば檻舎の一角に天蓋のみの天幕が張られていた。
高い止まり木の上から、騎禽たちは困惑した様子で主たちを見下ろしているのだった。
夜半過ぎに、安道はふと目を覚ました。
見慣れぬ天蓋。嗅ぎ慣れた羽毛の香り。
「――!」
飛び起きようとしたところで、大きな手が頭に触れた。
牙野だった。
人差し指を唇に当て、微笑んでいる。
安道は言葉を失った。本気で意味が分からないという顔だった。
すぐ隣の天蓋の下では亜爪と天角が寝息を立てている。
勇輝子は天蓋から大きくはみ出した寝相をしていた。尻尾には騎禽の糞が付着している。
「牙野様。この状況は一体……」
「私にも分からん。だが気にするな」
牙野は心底可笑しそうに笑って首を振る。
「まだ、夜明けには程遠い」
安道は俯いた。また皆に心配をかけてしまった。皆の手を煩わせてしまった。
そんな思いが胸を過った。
「気分はどうだ。頭痛や吐き気は?」
「牙野様……申し訳ありません。ご迷惑を――」
牙野は優し気に笑って周囲を示した。
「君のことを迷惑だと、私たちが思っていると思うか?」
更に、後ろを見るようにと顎をしゃくる。
安道が振り返ると、そこには碧斗がいた。
翼を畳み、目を閉じ、手を伸ばせば届く地面の上に、座り込んで眠っていた。
「もう少しの辛抱だ」
牙野は優しく言う。
「鰐尾によく教わるといい」
頷きながらも、安道の表情は曇ったままだった。
牙野は静かに頭を撫でる。
「人間の子は、十八でもう大人なのだそうだな」
「......そうです」
牙野は眠る仲間たちへ目を向けた。
「龍は違う。私たちから見れば、君は成長の途中だ。厳密なことを言えば、成獣化を終えた鰐尾も亜爪も、まだまだ未熟な個体だ。龍の成長は、それほどに時間がかかるものなんだよ。竜も同じだ」
「ですが俺は……」
「分かっている。君が私たちに恩を返したいと、私たちの役に立ちたいと思ってくれていることは、よく分かっているよ」
牙野は穏やかに続ける。
「だから、私たちの願いを聞いてくれるか」
「もちろんです!」
思わず声が大きくなりかけたところで、慌てて周囲をうかがう。幸い、誰も目を覚まさなかったようである。
牙野は慈しみを湛えた笑顔を安道に寄せると、その角を安道の額に当てた。
「どうか健やかに。立派な竜に、なってくれ」
「......」
雷光を閉じ込めた双眸が、月明かりに美しく揺らめいている。
安道は、牙野の瞳を、まっすぐ受け止めていた。
「君が元気に、健康に、大きくなってくれるなら、それだけで喜ぶ者が、ここには大勢いる」
安道は答えられなかった。
「それで十分なんだ。それこそが私たちの望みなんだ。本当だよ」
大きな手が髪を梳く。牙野は微笑んだ。
締め付けられるようだった胸から、淀みが霧散するようだった。
安道の瞼が重くなる。抗えない眠気だった。
「お休み、安道」
感じるはずのない温かみを牙野の手から受け取りながら、安道は再び眠りへ落ちていった。




