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晩夏、関宿にて

作者: 戯画葉異図

第105回オール讀物新人賞 第一次予選通過作品

 戦争は終わった。

 戊辰戦争に勝利し、日清戦争に勝利し、日露戦争に勝利し、第一次世界大戦に勝利し、そしてこの戦争に敗北した。これはそういう敗戦だった。大きな戦いに限れば、これはこの国が初めて味わった敗戦の辛酸だった。辛酸などという言葉でも不十分に思えるような、強烈で辛抱しがたい味だった。

 私は今でも考える。本当はもっと別の道があったのではないかと。私などよりもずっと秀でた者が、ずっと良い結末へと我々を導く。そんな未来があったのではないかと。

 そのようなことを考えたとて仕方がないと自分に言いきかせつつも、それでも私は、私の判断と行動に対し疑念を拭うことができずにいた。

 戦争は終わった。一九四五年の夏の終わりを待たずして。

 私がこの手で終わらせたのだ。


 東に向かって伸びる利根川から南に向かって分流する川が、江戸川である。関宿という町は、利根川から分かれて江戸川となる、その分流点の細長い土地にある。

 東と南に延びるこの二本の河川を利用することにより、かつては水運業の栄えた町だったが、明治に入ってからは鉄道に取って代わられ、すっかり寂れた。それが関宿という町だ。

 利根川は房総半島の東端まで流れ込むのに対し、江戸川はそのまま南へと進みつづけ最後には東京湾に流れ込んでいる。この関宿の地で、もとは同じだったはずの一本の河川は、ここまで解離した結末をたどっているのだ。

 そのことが何となく信じられないと、関東平野の地図を見るたびに私は思っていた。ここまで大きな流れが、ここまで大きく分かたれるものなのかと。

 昔からそうだった。今でも、なお。


 一九四五年の九月は、やけに静かな夏の終わりだった。マツムシやアブラゼミなどは今年も変わらず鳴きつづけているというのに、それでもどこかに静寂を感じた。拠り所もなくぽっかりとした空虚さにも似た、胸を締めつけて止まない静寂を、嫌でも肌で感じる。それは戦争が終わったからそう感じるのか、それとも戦争に負けたからそう感じるのか、それは、私には判断がつかない。

「行ってくるよ」

 私はたたきで靴を履く。妻は、その後ろで正座になり、労うように私の背中をさすっていた。

「今日くらい、ゆっくりしていけばいいのに。せっかくの帰郷なんですから」

「せっかくの帰郷だからこそ、だ。何が変わっていて、何が変わっていないのか、それを見たい。昼には戻る」

 そして私は家を出た。妻は私の背中に向かって「お気をつけてね」と言って見送った。戸の閉まる音を聞き届けて、私は歩き出す。晩夏の陽射しにじりじりと焼かれた地面を歩く。

 実に七十年ぶりに滞在する関宿だった。幼少の時分に六年ほどを過ごして、それ以来だった。

 七十年前の関宿と、現在の関宿。何が変わっていて、何が変わっていないのか。

 妻にはあのように言ったが、それは口実に過ぎなかった。外に出た理由は、もっと単純で、もっと大人気ないないものだった。

 じっとしていることがままならなかったのだ。家の中で何もせずじっと腐っていても、考えたくもないことを考えてしまう気がしたのだ。聞こえもしない者たちの声が聞こえてきてしまう気がしたのだ。私はただ、外に出て歩きたかった。浮世から目を背けたかった。それだけのことだった。

 これがもうすぐ八十になる男の考えることかと思うと、自分でも笑える。


 建物の間を、どこを目的地とするでもなく歩いていると、ちょうど前を通過するところだった一軒の民家から三十くらいの若い女が出てきた。手に、空の木桶を持っている。女は家から出てくるなり、私の歩いているのに気がついて、無言のまま頭を下げる。ただ慣習としてそうしているだけの動作だろう。私もまた頭を下げ、あまり声が大きくなりすぎないよう気を遣いつつ「おはようございます」と言った。女も、それを受けて、ここで初めて私の方に目を向け、あいさつを返した。

「どうも、お、」

 そこで言葉が途切れた。女の持っていた木桶ががらんと音をたてて落ちた。女は目を見開いて、私を注視している。私が視線を返すと、さっと目を伏せる。

「お、おは、ようございます」

 落下した木桶が反動でうまい具合に私の足元へ転がってきたので、私はそれを拾い上げて女に差し出す。女は「どうも、すみません」とだけ礼を述べて木桶を受け取り、私が木桶から手を離すと、すぐに家の中へ戻っていった。

 きっと、私のことを知っているのだろう。珍しいことではない。私は歩みを再開する。

 人の住む家並においては、変わっていない部分を探すことの方が難しかった。七十年とはそれだけの年月だった。


 家並を一通り歩き終えて、利根川の河原に出る。利根川の手前には幅の広い土手と河原が広がっていて、雑草がぼうぼうと好き放題に伸びている。晩夏の陽射しは雑草をも焼き、むせ返るような草いきれを立ち昇らせる。川の水から漂ってくる潮の風と混ざり合って、河原では独特の香りが調合される。その香りに触れた時、私は全身が硬直して、そのまま七十年前のあの平穏な時分に引き戻されたような錯覚に陥った。懐かしい香りだった。

 それについては七十年前と変わっていないことだった。そのことにささやかな感動を覚えた。雑草を足で踏み分けてゆき、私はなおも利根川へ向かって進む。

 土手を登る形で横断し、やがて利根川を眼下に捉えた。家並などはがらりと変わったようだったが、利根川はまるきり変わっていないように見えた。川幅、水質、流速、そのどれもが記憶にある通りだった。

 しばらくは利根川の流れを、何をするでもなくぼんやりと眺めていた。人の大きさほどもある木の枝のようなものが上流から流れてきたのを見つけて、先日に台風があったのを思い出した。枝にはまだ無数の葉がもさもさとついており、それらは利根川の水に濡れて黒々とした暗緑色を見せていた。枝は流されるがままに利根川を下ってゆく。

 利根川の川岸には、そういった木の枝が他にもいくつか漂着している。葉の茂りを岸につけ、根本の裸になっている方を川の流れにさらしている。あるいはその逆で、葉の茂りを川の流れにさらしている。流されるがままを拒んだ枝葉たち。

 初めに見つけた枝が下流の向こう側へと流れ去ってゆくのを見送ってから、私は上流に向かって歩いてみることにした。


 関宿の北端には、河原と言うよりは平原に近い、特に開けた土地がある。そこを川に沿ってさらに北上してゆくと、最後には利根川と江戸川との分流点に到達する。


 江戸川との分流点に人影があった。尖った陸地の先端に立っている。それは一人の青年だった。青年は釣りをしていた。

 見たことのない、やけにぴかぴかとした釣り竿を、さもこの釣りの成果に生涯の命運をかけているとでも言うような大仰さを以て、両手でしっかり握っている。その光景は異様なものだった。この国が置かれている今の状況を、青年はまるで知らないようだった。

 青年は利根川と江戸川の境界線の辺りをじっと見つめている。私は背後から近づいてゆく。特に足音を隠したりはせず、河原の石ころをがちゃがちゃと踏み鳴らしながらの接近だったが、それでも青年は振り向かなかった。

 どこまで近づいても反応がないので、あるところで私は立ち止まり、声をかけた。

「君、どこの家の子だね」

 青年はゆっくりと振り向き、答える。

「野田という家です」

 そのような家、関宿にあったかなと、ちらりと思ったが、知らない家などあって当然だと、すぐに思い直す。私のよく知っているのは、七十年前の関宿だ。浦島太郎の気分とはこういうことなのかと私は思った。

 青年は二十代半ばくらいに見えた。それでも青年の方からは何も言ってこないので、私は構わずに質問をつづけてみた。

「釣りかね」

「はい、釣りです」

「よくここで釣りをするのかね」

「あまりしません」

「釣果は」

「からっきしでございます」

 青年の傍らには、ところどころ錆びの目立つブリキのバケツが置かれており、青年は視線でそちらを示す。中には何も入っていなかった。「からっきしでございます」という応答の仕方が不自然なように思われたが、青年は気にもしていない。

 しばらく沈黙の時間がつづいた。青年は利根川と江戸川の境界に向き直り、私はバケツを挟んだその横に立って、青年の釣りの様子を観察していた。

 青年は、私のことは知らないようだった。それがむしろ気楽だったので、私はその場から離れずにいた。少なくとも町の方よりは居心地がいい。

 釣り竿はなかなか反応しなかった。釣り竿は、見れば見るほどぴかぴかとしていた。

 あるところで、私は口を開く。

「それ」

 私は、青年の握っていた釣り竿を指し示す。一から十まですべて金属できているような質感でありながら、表面積の八割以上が鮮やかな青色にメッキされていた。見たことのない、異質の輝きだった。

「どういうものなんだね。君が作ったのかい」

「いいえ、買いました」

「売っているのかい」

「売っております」

 では外国製のものだろうか。だとすればさぞ高価なものに違いないのだろうが、質素な身なりの青年が持つには不釣り合いとも思われた。青年は、どう見ても金のある家の人間ではない。下半身は国民服であるのに対し上半身はシャツの一枚という、ありふれた姿である。そのいずれもが泥で薄汚れており、清潔感にも欠けている。よく見てみると、国民服の上衣と帽子が青年の足元に脱ぎ捨てられていた。その様がまるで終戦を暗示しているようで、妄想が過ぎると自覚しつつも私は反射的に目を逸らした。

「それ、私に持たせてみてはくれないかね」

 願い出てみると、青年はあっさりとその奇抜な釣り竿を差し出した。糸はすでに川へ放り込まれているので、その状態で受け取って、青年のしていたように両手で構える。

 握り込む箇所には何かの動物の皮のようなものが巻きつけられていた。間近で見るかぎりにおいてもやはり金属製としか思われないような光沢を放っていたが、驚くほど軽かった。しなやかでもあった。柔軟性があり、丈夫なようだった。

 丈夫で、軽い。これは我が国の作り出すものの特徴だ。外国製のものだとするならば、我が国はその利点においてもまた敗北を喫したことになる。

 青年に成り代わり私が構えたところで、釣り竿はうんともすんとも言わなかった。

「釣りのご経験があるのですか」

 初めて青年の方から質問があった。

「いいや、ほとんどない」

 嘘をついた。経験豊富というわけではないが、釣りなら学生時代や現役時代にも何度かやっていた。それから私は、言うか言うまいか迷って、言った。

「三つから九つまでの六年間を関宿で過ごした。今とはまるで別物の関宿だ。その関宿で、父もよく釣りをしていた。その時に一度だけ、私は釣り竿を握らせてもらったことがある。釣りをするのはそれ以来だ」

 思い出話は本当だったが、最後の一文だけやはり嘘である。

「その時の釣果はいかがでしたか」

「今でも憶えている。父がやっていると、十分に一尾は釣れていた。しかし私がやり始めた途端、十分経とうと二十分経とうと釣れなくなった。父に釣り竿を返すと、また十分に一尾は釣れた。躍起になってもう一度釣り竿をもらい受けても、やはり魚は黙りこくった。そういったことが二、三度くり返された。おかげで私は釣りが嫌いになった」

 青年は控えめに笑った。私も笑った。釣りが嫌いになったことに誇張はなかったが、しかし今の時間は楽しいものだった。

「その時にはひどく落ち込んだものだ。釣りとか、魚とか、あるいは河川や海洋とか、そういった自然のものどもに、私は見放されているのだと思った。そんな私に父は言った。自然物に好かれるには、」

 そこで言葉を切る。青年は疑問の顔で私の顔を覗き込む。

「自然物に好かれるには?」

「何が必要と言ったと思う」

 青年は私の顔を覗き込むのを止め、かと言って川に視線を戻すでもなく、空を見上げる。無雑作に手でちぎって配置したような雲があり、遠くで鳥が飛んでいる。

 青年は答えた。

「信仰、でしょうか」

「いいや」

「理解すること」

「いいや」

「では、こちらもまた好いてやること、とか」

「少し難しかったかな」

 青年は頭を振る。

「お手上げです。答えは何ですか」

「必要なのは、五十年、だそうだ。五十年生きていれば、何をせずとも自然物に好かれるようになると、そう父は言った。よく憶えている。そういう父だった」

 その正答には納得がいかないというように、青年は息を吐く。

「どうりで私も釣れないわけです。二十四年、足りておりません」

「二十六かい」

「三月で二十六になりました」

 その時、私の握る釣り竿がしなった。釣り竿を青年に返すなり、青年は持ち手のやや上に取りつけられたレバーのようなものを回し始める。そうすることで、どうやら釣り糸を巻き取れる機構になっているらしい。見たことのない、釣り竿らしからぬメカニカルな仕組みに、思わず舌を巻く。どこの国の製品なのかは分からないが、外国の釣り竿とはかくも進んだものなのか。

 光の反射の入り乱れる川面から魚が飛び出す。威勢がよく、封筒ほどの体長。魚は鮎だった。

「これが五十年の力というわけですか」

「その釣り竿の力だよ。父の言うことがすべて正しいわけではない」

 青年は言い、私は否定した。今しがたあのような話をしたばかりではあったが、どうも自分の実力による釣果とは思えなかった。五十年を生きたところで、釣りの腕とはそう勝手に上達するものではない。

 慣れた手つきで鮎から釣り針を外し、それをバケツに入れる。鮎はバケツに入っても、その活気を失うことなく、円環状に泳ぎつづけた。時々、水しぶきを跳ねさせる。

「今日の昼飯かね」

「私が食べてもよろしいのでしょうか」

「君の鮎だよ。君が食べなさい」

「では、ありがたく」

 日が、いつの間にかてっぺんにまで回っていた。妻にした約束を思い出した。

「もう戻らねば。妻を怒らせてしまう」

「私も帰ろうと思います」

 言って、帰り支度を整える青年を、特に何も持参してきてはいない私は手持ち無沙汰になって見つめる。国民服の上衣を着用する最中、不意に、青年は口を開いた。

「おじさん」

 「おじさん」という言葉に、私はぎょっとした。そんな人称で呼ばれたのは、産まれて初めてのことだった。怒りなどは沸き起こらなかった。私の中で、怒りよりもおかしさの方が勝った。

 名乗るくらいのことはしても問題ないはずだったが、声が出なかった。つい先ほど出くわした女とのやり取りを思い出し、名乗ることが憚られた。青年に名を訊ねられないかぎり名乗らないでおこうと私は決めた。

 青年はつづけて言う。

「よろしかったら、明日もここに来てくださいませんか。明日の、同じ時間に。おじさんがいると、明日も釣れそうな気がします」

「そうかい。考えておこう」

 いずれの川に沿うこともなく陸地の真ん中を南に下ってゆくとそこに関宿城跡があり、そこで私と青年は別れた。それが私と青年との、第一日目だった。


「すまない、遅くなってしまった」

 妻に対しそのように第一声で謝ったが、妻はむしろ驚いたといった様子で「あら、もうこんな時間ですか。まだ何も作っていませんでしたねえ」と言い残し、台所に入る。たたきで靴を脱ぎながら、私は妻に訊ねてみた。

「野田という家がこの辺りにあるらしい。知っているかい」

「いいえ、聞いたこともありませんねえ。この辺りについてはそちらの方がお詳しいでしょう。その家がどうかしましたか」

「その家の者だという青年に川沿いで会ったよ。値の張りそうな釣り竿を持っていた。裕福な家なのかもしれないと思ってね。私も聞いたことがないのだ」

「釣り竿に値の張る、張らないがあるのですか」

「そりゃあ、あるのだろう」

「さあさ、早くお上がんなさい」

 台所からのんびりとした包丁の音が聞こえはじめる。胡瓜の漬物を切っている音だ。食卓にはすぐに皿が並んでゆく。薩摩芋の混ざった麦飯に、朝の残り物の味噌汁、梅干と胡瓜の漬物。

 妻と囲む食卓に、あの鮎の幻影を見た。焼けばさぞ旨かろう。そんなことを思いながら、私は味の薄い麦飯に塩辛すぎる梅干を載せた。

「明日も、午前に出かけようと思う」

「働きものですねえ」


 翌朝、私は青年と約束した時間よりも早くに家を出た。昨日とは変わって町並みを散策したりはせず、まっすぐに利根川の河原へと向かう。

 目的のものはすぐに見つかった。昨日にも見た、川岸に漂着した枝葉から一本、手頃なものを拾い上げる。余計な枝を折って竿とし、試しに二、三度振ってみると、申し分ない柔軟性があった。枝の先端に、あらかじめ家から持ち出しておいた凧糸を括りつける。釣り針は針金をそれらしい形に曲げたもので代用し、餌には麦の粒を持ってきた。そうして簡易的な釣り竿が完成する。

 存外にあっさりと完成し、時間を持て余した。これ以上、準備するものは特になかったので、一度だけ釣り竿を川に向かって投げて完成品の具合を確かめ、それから昨日に青年と共に釣りをした、例の陸の北端に向かった。約束の時間にはまだ早かったが、野田と名乗った青年は、そこですでに待っていた。

 昨日はどれだけ足音を鳴らしても振り向くことのなかった青年が、今日は聞きつけるなりすぐに振り向いた。釣りの準備だけを先んじて進めていたようだ。

「おはよう」

「おはようございます」

 私が肩にかけて持っている即席の品を見て、青年は眉をひそめた。

「お望みでしたのなら、今日もお貸ししましたのに」

「いいや、それには及ばんよ。いつまでも君に借りつづけるというのも悪い話だと思ってね。実はあの後、私も鮎が食いたくなった」

 竿に巻きつけていた凧糸をほどく。青年は足元に転がる適当な石を裏返して、そこからケラと思しき昆虫を捕え、指の間で暴れるそれを自身の釣り竿の針で貫いた。

「餌の用意はあるのですか。私が何か捕りましょうか」

「いや、麦の粒を撒いて釣ろうと思う」

「麦で鮎が釣れましょうか」

「『麦飯で鯉を釣る』という言葉もある。ならば鮎だって釣れるだろう。不可能ではないだろうさ」

 ジャム瓶に入った麦をつまんで、川に投げる。麦はあっという間に流れてゆき、見えなくなる。魚をおびき寄せることを目的としたこの行為にどれほどの効果が望めるのか、釣りに明るくないために私には疑問にも感じられたが、やらないよりはマシだろうと気を取り直す。互いに準備は万端となり、我々は同時に釣り竿を振った。それからは昨日にもあったような沈黙の時間だった。文句ではない。それが気楽で、不満など抱きようもなかった。

 それから一時間ほどが過ぎて、私の釣り竿が引いた。釣れたのはやはり鮎だった。獲物を入れておくバケツだけは持ち合わせていなかったので、青年のものを借りた。

「さすがです」

 そう言う青年に、私は提案した。

「どうだろう、今日の釣果を山分けにしないか。私がこれからもう一匹釣ったら、それぞれが一尾ずつもらう。君がこれから三匹釣ったら、それぞれが二尾ずつもらう」

 自身の釣り竿を握ったまま、青年が私の方を振り返る。

「合算して奇数の釣果だったらどうするのです」

「その時には一尾を半分にしよう」

「わるいですよ。現状、私が得をしやすい、不平等な提案です」

「君に触発されて、私は今、ここで釣りを楽しんでいる。礼と思って、どうだろう」

 なかなか首を、縦にも横にも振らない青年だったが、「礼」という言葉に折れたのか、渋々と承諾した。それに満足し、私は二尾目を求めて再度釣り竿を振る。

「君、提案というものは、さっさと受け入れた方が己のためだ。迷うようでは、いつか後悔をする」

 いぶかるように、青年は私を見る。それには気がつかないふりをした。やがて青年は疑問を口にした。

「それはどういう意味ですか」

 余計なことを言ったかなと、それこそ後悔をしつつも、私は短く答えた。

「訓戒だ」

 納得したのか、それとも真意を見いだすことを諦めたのか、それ以上は青年は何も訊かず、そうしてまた沈黙の時間が過ぎた。

 結果的には、私が追加で一尾を釣り上げただけに留まり、それ以降はどちらの釣り竿も、持ち主に似て静かなものだった。

 提案の通り、私は一尾を青年に譲った。青年は改めて申しわけないような表情になりながらも、言葉にして何かを言うことはなく、「ありがとうございます」とだけ言って深々と頭を下げ、受け取った。壇上で賞状を受け取るような仕種だった。

「おじさんがいると、やはり釣れるようです。明日もぜひ」

 別れ際に青年は言った。私は「ああ」とだけ返事をする。二日目も、青年は私に名前を訊ねることをしなかった。


 焼いてくれないかと鮎を見せると、妻は大喜びした。一尾を二人で切り分けることにはなるが、それでも麦飯のよく進む旨さだった。


「釣りを早くに切り上げて、今日は少し歩きませんか」

 三日目の、昨日と同じ時間。三日目もまた青年は一足先に待っており、私の来るのに気がつくなり、そのように提案した。

 昨日は私が提案をし、青年には半ば強引に承諾させた。今日は私の番ということか。本音を言えばまだまだ釣りのし足りない気分ではあったが、私は承諾した。

 割いた時間の短いこともあり、魚は一尾たりとも釣れなかった。昨日の大盤振る舞いな釣果を受けて、撒き餌とする麦の量を渋ったせいかもしれないが、真相は定かでない。

 私たちは手早く道具をまとめ上げ、釣りの定番となった地点から早々に退散した。青年と出会った日に私が歩いた利根川沿いの河原の道を、今日は逆向きに、並んで歩いた。よく晴れていて、絶好の散歩日和と言えた。

「釣りは好きなのかい」

 昨日に訊きそびれたことを、私は訊いてみた。この三日間の印象だが、青年は自分から会話を始めることを苦手としている性分のように感じた。散歩に誘ったりはするし、こちらから話しかければ、滔々と答えてはくれるのだが。

「ほどほどでございます」

 表情を変えることなく、下手に嘘をつくこともなく、青年は答える。

「ほどほどか」

「生半可とも言えます」

「ほどほどと言っておきなさい。わるいことではない。人間は、一つのことにこだわり、あまりに熱を帯びると、身を滅ぼす」

 それは何気なく言ったことだったが、意外なことを聞いたというように、青年はそこで立ち止まった。

「珍しいことを言いますね」

 私も少し進んだ先で立ち止まって、後方の青年を振り返る。

「それは、お互いさまだろう」

「そうでしょうか」

「そうだとも」

「では、そうなのでしょう」

 歩みは再開される。

 利根川にぴったりと寄り添って歩いていると、川べりにちらほらと黒いものが見えてきた。台風の影響により流された枝葉だ。多少は踏みとどまることをやめて流されていったのかもしれないが、それでも多くは、まだそこにあるようだった。それを指差して、青年は言った。

「なぜあのようなものがここに」

「台風で幹から折れ、流されてきたのだろう」

「台風、ですか。ああ、確かに、ありましたね」

 青年の反応は微妙なものだった。あの台風は、死者を何千人と出した大きな台風だった。何より、上陸してくる時期もわるかった。見ず知らずの被害者に哀悼の意を捧げよとまでは言わないものの、怪物のように暴れまわったあの台風について、つい頭から抜けてしまっていたなどということが果たしてあるものなのだろうかと、私には不思議だった。

 横に立って川や枝葉を見下ろす青年には、どこか浮世離れしているとことがあった。この世のものではないような空気があった。初めから、私と出会った時から、青年はそうだった。

 恐怖心を抱いたのではない。抱いたのは、純粋な、青年への興味だった。

「君は、不思議な人間だ。まるで、そう、戦火というものをまるで知らないようだ。気をわるくしたのなら、すまない。しかし、それが率直な感想だ」

「そうでしょうか。私は、」

 そこで青年は何かを言いかけ、しかし口を半分だけ開いたところで動きが止まり、それから思い直したように言った。

「では、そうなのでしょう。私は、ある意味では、戦火を知りません。まったくもって戦争というものを知りません。関宿に来る前は、私はここよりもっと遠く、もっと穏やかなところにおりました」

 それを聞いて私は、青年が疎開先から帰ってきたばかりの身なのだと推測した。開戦後すぐに疎開し、終戦まで疎開先に滞在していれば、そのような境遇にもなるのだろう。帰ってくるのがやや早いような気もしたが、考えられないことではないようにも思われた。自力で帰ることのできる裕福な家ならば、すでに帰っているということなのだろう。

「私のことを疎ましく思うでしょうか」

 私の言葉を受けて、青年は不安になったように声を細めた。

「いや、思わんよ」

 太陽がいい頃合いになって、上っている。私はそれから、青年に抱かせてしまった不安を払拭したくて言った。

「明日も、釣りに付き合ってくれるかね」

 青年は顔を明るくしてうなずいた。

「喜んでお供いたします」


 鮎を持って帰らなかったことに、妻は隠し立てすることなく落胆して見せた。

「あれは旨かったねえ」

「明日は持って帰るよ」

 鮎のない食卓は、確かに少し味気なく感じた。


 四日目になって、それまで穏やかだった釣りの寄り合いが、一変した。きっかけは私の一言だった。

「最も簡便な会話の手法とは何だと思う」

 この四日間で重ねてきた数ある問いの中の一つでしかなかったが、それに対する青年の返答が私を凍りつかせた。

「黙殺、ですね」

 「黙殺」と青年は言った。

 ぞくり、とした。不快な虫が背中を走る。

 それは私にとって因縁の深い言葉だった。青年が、その言葉の意味を知っていて選んだのか、知らずして偶然にも選んだのか、私には分からなかった。

 想定していた返答があったわけではなかったが、それだけは想定外の、思い出したくもないことを思い出させる返答だった。

 喉が詰まったようになり、言葉が出なくなる。それを察して、青年が私を気遣う。

「いかがされましたか」

「いや、何でもない」

 それだけで完結したやり取りだった。それ以上の何かが起こるわけでもなく、釣りの方も鮎が各自一尾と上々の釣果だった。

「初めて、己の力一つで釣ることができました。ご指南の賜物にございます」

「私は、何もしては」

 浮かれる青年の一方で、私はと言えば、前触れもなく降って湧いた疑念に心を支配されていた。

 青年はどのような意図で「黙殺」と答えたのだろう。そこに大した意味などないのかもしれない。が、その小さくも目立つ、墨液の飛沫のような可能性は、いくら目を逸らそうとしても視界に入ってきた。それを無視することが、私にはどうしてもできなかった。

 青年は、本当は私のことを知っているのかもしれない。


 帰った私の顔を見て、妻は心配そうに訊ねてきた。

「ご気分がすぐれませんか。顔色がわるいですよ。身体の弾が痛みますか」

「そういうわけではない。心配するな」

 二日ぶりの鮎もやはり半分にされて昼の食卓に並んだ。私の皿には頭部側の半分が載せられた。鮎の頭が急にこちらを向いて言った。

「お、ま、え、の、」

 火に炙られて、身体はぐねりと曲がり、目は白く濁っているというのに、細い口だけがものを言う人間のようにぱくぱくと動いた。

「お、ま、え、の、せ、い、で、」

 鮎がそれ以上の何かを言う前に、私は箸で鮎の頭をつついてずたずたに潰した。それがまた妻を心配させた。


 いつまで経っても青年が私の名を訊ねてこないことも、日を重ねるごとに気になっていった。名に興味を抱かぬまま、見ず知らずの老いぼれといつまでも付き合ってゆきたいと思うものだろうか。

 野田というあの青年は、本当は私の素性を知っているのではないか。その疑念は確信へとみるみる姿を変えていった。


「君は、戦争を知らないと言ったね」

 五日目に、私は思いきって訊ねた。

「言いました」

 青年ははっきりと答える。

「私は、それでいいように思う。そのような人間が増えることは、喜ばしいことだ。それだけ社会が、戦争から遠ざかったということなのだから」

 私は言ったが、青年がそれを手放しで肯定することはなかった。青年は初めて、私の言葉に異を唱えた。

「果たして本当にそうでしょうか」

「違うと思うかね」

 青年は釣り竿をしっかりと握りながらも、顔だけは真っ直ぐにこちらへ向け、正面から主張した。

「違うと思います。すべての民が私のように戦争を知らなければ、戦争を止めるものがいなくなってしまう。起こるままになりましょう」

「戦争は起こる」

 私だけは、どうにも青年のことを正面に捉えることができず、釣り糸の先の方を見たまま、答える。

「私は戦争と共に育ってきたような人間だ。戊辰戦争の始まった、その二週間後に私は生まれた。これまでにくり返されてきたいくつもの戦争は、私にとっては兄弟たちのようなものだ。彼らのことについては、私はよく知っているつもりだ」

 青年は何かを言いかけたようだったが、口をつぐんだ。私は言葉をつづけた。

「戦争は起こる。どうしても起こる。この年まで生きていると、嫌でも気がつく。この世を支配している、抗いようのない摂理というやつの存在に」

「摂理、ですか」

「分かるものなのだよ。言葉で説明することは難しい」

「起こさせないことは難しいのでしょうか」

「川の流れを止めようとするようなものだ。人にできることではない」

「戦争もまた人の為すことです」

「戦争は人の為すことではない」

「私は、」

 青年の反論は、そこで途切れる。青年の持つ釣り竿に魚の反応があったためである。議論と釣果のどちらを優先するかさんざん迷った挙句、青年はため息をついて釣り竿のレバーを回した。五日目になっても、関宿で分岐する川がもたらしてくれるのは鮎であった。

 それから青年は立てつづけに二尾の鮎を釣った。私の簡素な釣り竿は、ついに限界を迎えたかのようにぴくりとも動かなかった。

「これも摂理でしょうか」

 豊漁にも関わらず、青年の表情は晴れないものだった。よほど私の主張に納得していないのだろう。

「ああ、摂理だ。長い年月を生きたことによる老いぼれの経験など、新しい人間と新しい技術に越えられて然るべきだ。社会の営みにおいては、それが健全な進歩と言えよう」

「なぜ急に釣れはじめたのでしょう」

「君の、この五日間の経験の結果だよ。疑いようのない、確かな釣果だ」

「五十年と五日では比べることもできません」

「私の古びた五十年間を、君の新しい五日間が凌駕した。それだけのことだ」

 私は諦めて、釣り竿を引き上げる。零対三。完敗だ。

「議論は明日に持ち越しということでしょうか」

 互いに帰り支度を始めたころに、青年は話を戻した。

「そろそろ昼だ。そうしよう」

「私はまだ、おじさんの意見には賛同しておりません。そのことをお忘れなく」

 そう言って、青年は釣れた三尾のうちの二尾をこちらに差し出してきた。

「しかし、まるきり不同意ということもありません。それでも戦争は起こる、という話には、私は一部同意します。確かに、戦争は起こるものです。そのお考えを否定することは、私ごときにはできないことです」

「くれるにしても、一尾で構わん」

 私は受け取った二尾のうちの一尾を青年に差し戻したが、青年はそれを受け取らず、また私の言うことにも耳を貸さず、帰り支度の手を止めてまでして、つぶやいた。

「戦争は起こってしまいました」

 それは、どのような意味のつぶやきだったのだろう。

 両手に二尾の鮎を持ち、私は途方に暮れた。


 もはや語るまでもなく、妻は喜んだ。二尾という点を、特に。

「お、ま、え、の、」

「お、ま、え、の、せ、い、で、」

 皿の上で、二尾の鮎は低く叫ぶ。妻には聞こえない、私にだけ届く声で。

「それにしても、最近どうしたんだい。釣りなんかに夢中になって」

「私にも分からないよ。しかし鮎は旨いだろう」

「旨いねえ」

 それから妻は、己の鮎の骨をていねいに抜き取りながら、穏やかに言った。

「本当に、終わってよかったねえ」

「お、ま、え、の、せ、い、で、」

「お、ま、え、の、せ、い、で、」

 鮎は、骨を抜き取られながらもなお、叫ぶ。地底の奥深く、地獄の底からどっしりと重たく響いてくるような、大太鼓を一音ずつ叩いてゆくような、低い声で。

「せ、ん、そ、う、に、」

「せ、ん、そ、う、に、ま、け、た、!」


「か、て、た、か、も、し、れ、な、い、の、に、!」


 そこに近づくにつれ、歌声が聞こえてきた。青年が川べりで、聞いたことのない歌を歌っていた。決して上手いわけではないようだったが、それでもどこかに不吉なものを感じさせる、恐ろしい歌だった。


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 この六日間、結局のところ私には、青年よりも早くに来て、青年の来るのを待つということがなかった。どれだけ私が早くに家を出て、関宿の大地の北端に向かおうとも、いつだって青年は、初めからそこで私のことを待っていた。まるで毎日、そこで夜を明かしているかのように。

 青年の出自についても、私は未だに知らないままだ。

「調べたよ」

 その日、私は青年に会うなリ、あいさつもせずにそう切り出した。

「野田という名字の家は、この関宿にはない」

 歌うことを止め、青年は黙って聞いていた。釣りの準備の途中で動きを止め、顔を上げることもなく。

「一方で、川を下流に少し行ったところに、野田という名前の町がある。野田を名乗ったのは、これを由来とした偽名なのではないかと、私は考えた。君はそこから来たのかい」

 観念したというように、うなずく。

「そうとも、言えるかもしれませんね」

 青年ははっきり答えることはせず、濁した。しかし私としても、これ以上追及する気はなかった。真実を知ることが、最善の道でないことだってある。それを私はよく知っている。

「まあ、いい。こんなご時世だ。いや、こんなご時世でなくとも、人には隠しごとの一つや二つ、あるものだろう。訊かれたくないことを訊いてしまったのなら、謝る」

「お気になさらないでください」

 青年は穏やかな表情になって首を横に振り、一瞬の間を空けてから、言葉をつづける。

「嘘をついていたのは事実です」

 青年に、自身の秘密をどこまで語る気があるのかは、感情の読み取りにくい青年の顔からは判断できなかった。私はただ予感だけを覚えていた。これから、ただならない何かが話される。そんな予感を。

 あくまで私はいつものように、青年の横に立つ。釣り竿は構えず、そっと地面に置いて。

「とある目的があって、私はここに来ました」

「目的」

「極めて個人的な目的です」

「そうかい。てっきり私は、君は連合国陣営から隠密裏に潜入してきたスパイか何かかと思っていたよ」

 ふっ、と青年は笑った。

「この国の河川の生態系を調査しにきたスパイというわけですか」

「帰国したら、鮎が旨かったと報告するのだろう」

 考えてみると、こうして青年と、釣りも散歩もせずに話すのは初めてのことだった。何をするでもなく、一本の川が二本に分かれるのをぼんやりと眺めながら、取り留めのないことを言い合う。そういう時間がつづいた。

「極めて個人的な目的、とは?」

「一言で説明することは難しい」

「釣りは関係あるのかね」

「大いに関係あります」

 昼前の太陽の光をぴかぴかと反射する釣り竿を、青年はなでる。

「おじさんと釣りがしたかった。それが一番の目的です。そのためにここに来た」

「こんな老いぼれとか」

「老いぼれ、ですか。そのようには思ってはおりません」

「では何と」

「先人」

 余計な修飾をつけることなく、青年な答える。青年にとって私は先人で、その先人と釣りをしたかった、と。

 それが本心、なのだろうか。だとすれば、やはり青年は私のことを知っているということか。

「私が関宿に滞在することを、君は知っていたというのか」

「知っておりました」

「なぜ」

 そして青年は、小さな呼吸を一つし、たっぷりとした余白を設けてから、私の疑問に答えを示した。

「終わりましたから」

 青年はそう答えた。それはまた、私が最後まで口にすることのない、もう一つの疑問への回答にも思われた。

「私と釣りができて、よかったか」

「大変によかった」

「それは、鮎が釣れるようになったからかね」

「おじさんと話せたからですよ。釣りは、会話にとってのよい場です。魚の釣れることはよい潤滑油です」

「ただ漫然と話したかったわけではないだろう。私に何かを伝えたかったとか」

 そこで青年は、鼻を鳴らし、わずかに何かを言い淀むような素振りを見せた。

「実を言うと、はじめは、そのつもりでした。確かに私には、あなたに伝えたいことがあった。しかしあなたと話しているうち、伝えずとも問題はないのではないかと、その考え直しました」

「何を伝えるつもりだった。言ってみなさい」

 青年はやはり何かを言い淀み、それから意を決したように言った。

「夏を終わらせてくださり、感謝申し上げます」

 私の方を向いて言い、頭を下げる。

 夏、と青年は言った。言葉の意味するところが分からず、私は思ったことをそのまま口にした。

「まだもう少しは、暑い夏はつづくように思えるが」

 しかし青年は、それでも同じ主張を重ねた。

「いいえ、終わったんですよ。あなたが終わらせてくださったのです」

 それは、真横に立つ私に言っているようにも、しんとして鳴りを潜めた蟬たちに言っているようにも、あるいは終わりかけた夏そのものに言っているようにも聞こえた。超常的な響きを含んだ声音だった。

 青年が何を言わんとしているのかが分かったような気がして、私は息を呑む。それから言葉を改める。

「ああ、そうだな」

 呑んだ息をゆっくりと吐き出す。何をしているわけでもないのに、心臓は高鳴っていた。

「そうだな。終わったんだな。あまりに長い夏だった。春がどれだけ幸福なものであったか、それが思い出せなくなるほどに」

「四季は巡るものです。夏が終わって、しばらくは秋がつづきましょう。葉の枯れ落ちる、寒くも暖かい橙色の深い秋が。水温む春も、やはり訪れましょう」

 青年が目を細める。年齢に相応しくない、俯瞰するような目だった。達観ともまた違う、何か、この先に待つ重大な結末を自分だけが知っているとでもいうような、そんな目だった。

「しかし油断は禁物です。秋の後、春の前には冬が来ます。世界を覆いつくす、長くて冷たい冬です。しかしその冬もやがては終わります。なぜなら、四季は巡るものですから」

 青年の言葉は激励であり、それと同時に警告でもあった。

「春も、夏も、秋も、冬も、これらは等しく私たちを訪れます。四季は巡るものですから」

 その言葉を、青年はくり返すのだった。


 その日は釣りをしないままに帰った。鮎を持ち帰らなかったことに妻はがっかりするのだが、それでもいざ昼飯を食べはじめると、けろりとしたものだった。鮎など些細な問題であることを、妻は分かっているのだ。


 七日目、青年は来なかった。昨日までの六日間、私をそこで待ちつづけていた青年がいないのを知って、私は悟った。青年がこの関宿の地を去ったらしいことを。

 青年のいつも立っていた辺りに、一枚の紙片が残されていた。それは風に吹き飛ばされぬよう、拳ほどの大きさの石によって押さえつけられていた。川の風に縁の方をひらひらとさせており、それが、人が別れ際に手を振っているように見えた。

 屈み込んで、紙片を拾う。それはあまりに短い手紙だった。分岐する川を前に立ち尽くし、私はただ一心になってそれを読んだ。


   ■


 私にとって、一九四五年は八十年前の過去に当たります。私は八十年後の未来から来ました。これが私の秘密です。ご指摘の通り、名字も野田ではありません。

 私の目的は、主には三つありました。あなたに会うこと。一九四五年を見てまわること。戦争を知ること。この三つです。

 あなたとは六日間にもわたってご一緒させていただきながら、これらのことをずっと隠しとおしてきました。口で本意を語らぬまま去る私の非礼をどうかお許しください。

 貴重なお時間を、どうもありがとうございました。謝意は言葉に尽くせません。

それでは、さようなら。


   ■


 私と青年がいつも釣りをしていた辺りの、その一帯の石ころが総じてひっくり返っている。五つ六つほど石ころをどけて、その下の地面に手で軽く触れてみる。土と砂利の混じったような湿った地面は、明らかに柔らかかった。何かを掘り起こした痕跡だ。巨大で得体の知れない何かが、つい最近までここに埋まっていたとでも言うような、そんな痕跡だった。


 手紙の全文を読み終えて、私は書かれていた通りに紙片をくしゃくしゃに丸め、川に投げ込んだ。利根川と江戸川の境界線上に着水した紙片は、しばらくはどちらへ流れようか迷うようにゆらゆらと揺られた後、最後には利根川の方を選んだ。広い海を選んだというわけだ。流れ去るのを待つまでもなく、丸められた手紙は川面のさざ波の隙間に消えていった。

 青年も、かつて青年が存在していたことを物語る手紙も、私のもとから消えた。今、青年がどこで何をしているのか、もはや誰にも知りようがない。青年の映りこんだ情景の記憶のすべては幻だったのではと疑われても、もはや私には証明するものがない。

 夏の終わりに私が体験したこの七日間の出来事を、何らかの手段を用い記録として残すことも、私はしない。


 前書きにも書いたように、本作品は第105回オール讀物新人賞の第一次予選を通過した作品になります。逆に言えば、第二次予選を通過できなかった作品になります。

『オール讀物』を読まれている方ならご存知のことと思いますが、この新人賞において第一次予選を通過すると、紙の雑誌に名前と作品タイトルを掲載していただけます。私にとって、自分の名前や自分の作品が紙の雑誌に掲載されることは初めての経験でした。このときの感動といったら!

 話を作品に戻します。本作品は、結局は受賞には至らなかったわけで、ではこの作品をどうするかということを考えるわけです。考えた末に、この場で公開することを決めました。私は普段から様々な新人賞に応募させていただいている身なのですが、ネット上で公開することは珍しいことです

 私がこの作品を公開するに至った理由は、いくつかあります。そのうちの最たるものは、作品の中にも描いたように、今年が終戦から数えて八十年に当たることです。二〇二五年に公開することに意味があるように思ったのです。今年もあと数日で終わります。今年しかないのではと思ったのです。

 自分と同じ小説家志望の方に「これくらいの作品は、新人賞で、これくらいの結果を残せるらしいよ」ということを共有したかった、という理由もあります。この理由から、本作品においては推敲をしていません。応募した時のままの完成度となっております。

 残念ながらオール讀物新人賞は第105回をもって終わってしまうそうで、なので同じ新人賞の参考にするということはできないのですが、他の新人賞でも共通するものはあるのではないかとも思います。

 長くなってしまいましたが、後書きはこれくらいで。作品を読んでくださったすべての方に感謝いたします。

 恒久的な平和を願って。


追記

 作品内に、実在する楽曲の歌詞を組み込んでいました。公開にあたり、この部分を伏字にしています。

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