9話「ドルフィンキック」
土曜日は初心者の部員達は飛び込みを何回も行い、部活が終わりの時間帯になる頃には恐怖心が薄れていき、下手くそとまではいわれないような飛び込みにはなっていたが、まだまだ先は長い。
土曜日の初心者の練習担当は小島順菜が喋って教えてくれていたが、日曜日は立場が一変して田崎怜奈が教えることになっていて、小島順菜は泳ぎを見せる係になっているために隣に立っていた。
田崎怜奈が教えるとわかってから、部員達の表情は徐々に変わっていてしまう。それは、新しい部員との顔合わせの際の発言、そして桜坂花蓮、南條愛美との話している様子を見ている部員も多く、田崎怜奈に対してはいい印象がないのが本音である。
田崎怜奈がそれを知っていないわけがなく、あの時の発言は自分の気持ちに嘘をつきたくないと思っての発言であり、それを始めて会った時に発言していないと不公平だと思ったからだ。
そんな、彼女でも土曜日の練習を見て、「今年入ってきた初心者の子達は本気なんだな」と自分自身の発言を撤回しなければいけないと個人的には思ってしまっている。
その背景には、田崎怜奈の発言に対する「負けてたまるものか」という対抗心が芽生えたのが原因であり、「なにがなんでも泳げるようになってやる」と思えるようになったのは単なる偶然ではあるが、田崎怜奈としては「頼もしいな」と感じてしまっていた。
「今日、担当することになった。田崎怜奈です、どうぞ宜しくお願いします。えっと、説明する前に言いたいことがあるんだけど、順菜いいかな?」
「うーん、手短にね」
小島順菜は少し迷ったが、一応許可を出して様子を伺う。
迷ってしまったのには理由があるが、新入部員との顔合わせの時のような発言をするかもしれないと感じてしまったからだ。
でも、許可を出したのは田崎怜奈の顔がいつにも増して真剣で、その顔を見れば今日の練習を任せていいと思えるほど。
もし、途中で悪い雰囲気になりそうならばフォローする準備はいつでも小島順菜にはできていた。
「では、順菜の許可をもらったので話をさせてもらうよ。ま、最初に言うと、皆んなは私のことが『嫌い』か『苦手』だと思う、発言が発言だしね、それはわかっているつもりだよ。そんな発言をした私でも、部活の練習を必死になって、食らいつこうとする皆んなの頑張りは凄いと思う。私が同じ立場なら諦めているかなと思うよ。だって、高校生という遅い時に始めるということはかなりリスクがあるし、一度きりの青春を無駄にするかもしれない、大会にだって出られないかもしれない…私だったら、部活なんて入らないで、放課後に遊んだり、男の子と恋をしたり、他のことに時間を使うかな…本当に凄いよ…尊敬する」
「怜奈…」
その予想外の田崎怜奈の発言に小島順菜はその場にいた新入生よりも驚きを隠せなかった。
寧ろ、その発言をするなんてこの場にいる誰がわかるものかと感じ、田崎怜奈なら前と似たような発言をし、空気を凍り付かせるものだと誰もが思っていて、呆気に取られるとはこのことかと思えてしまうほどだ。
それぐらいに田崎怜奈の発言は予想外だったわけである。
「これくらいで私の発言は終わりにするよ。では、本題に入っていこうと思う」
気持ちを一瞬で切り替えた田崎怜奈はまず、飛び込みの続きから教え始めた。
飛び込みはただ飛び込んで終わりではない、その後に長いか短い距離が待っているのが水泳という競技だ。
前日の土曜日に教えたことといえば、飛び込みにおける気を付けること、意識をすることだけでそれ以外のことは教えてはいない。
今は飛び込みに慣れることが一番最重要としていたのは間違いないことで、大会に出れることを想定してはいないのが本音だ。
一度に頭と体に覚えさせてパンクするよりも、ゆっくりなスローペースでもいいから覚えることが効果的だと判断して、このような決断をすることに吉岡理恵は決めていた。
「飛び込みはただ飛び込めばいいというものではないです。簡単に言えば、車が信号が青に変わったら、スタートダッシュをするのと一緒と言えばわかりやすいかな?とりあえず、順菜を手本に説明していきます。順菜、一回飛び込んでくれる」
「はーい」
飛び込み台に登り姿勢を構えた後に、イルカのような綺麗な飛び込みをしながら水面に入るのと同時に、飛び込んだ時の勢いを利用してドルフィンキックをしながら進み、15m付近で小島順菜は顔を上げた。
「このように飛び込みに慣れてくればスタートダッシュを決めることができます。飛び込みが不十分であると、他校の水泳部員、そして同じ部活の仲間に遅れをとるということ、それは負けに繋がります。飛び込みは『なるべく』ではなく『確実』にできるようになりましょう」
「はい」
自然と部員達は声が出ていた。
皆んな、真剣なのだ。どんな些細な理由で始めたのにしろ、1日でも早く泳げるようになって、大会に出たい。そんな気持ちが心と体の中に渦巻いている。
「あの、質問いいですか?」
「いいよ」
手を挙げながら、そう田崎怜奈に聞いたのは武田佳織里だった。
「2つほどあります。『ドルフィンキック』とはどうやるのでしょうか?それと、飛び込みの後にどれくらいで泳ぎ始めるのがいいのでしょうか?」
「いい質問だね。まだ、そこは説明してないから、今からするね」
武田佳織里がした質問は田崎怜奈が言った通り、いい質問ではあった。
ドルフィンキックとは主にバタフライで行う足の動作のことであり、クロールで行うバタ足と似たようなものといえば簡単な説明になるだろうか。
なぜ、ドルフィンキックという名前が付いているかといえば、名前の通りに泳いでいる姿がイルカに酷似しているからとされている。
そんな、ドルフィンキックだが、大会で勝つためには最重要に覚えなきゃいけないことだ。
飛び込みの後と折り返しでのターンの後に、水中でのドルフィンキックをすることが許されている。これを覚えるか覚えないかだけで、飛び込みの直後とターンでの折り返しの際に差が開いてしまうというわけだ。
水泳というのは覚えることが山積みで、一つ一つをミスったり、できないままにしておくだけでも、他の部員についていけずに置いてきぼりを食らう、なんてこともあるわけで、一つ一つを確実にできるようにしていかなければならない。
そうしなければ、勝てるレースも勝てなくなり、まして、関東大会や全国大会なんて夢の先の先だ。
「まずはドルフィンキックについて、基本的にはバタフライのキックではあるんだけど、飛び込みの後と折り返しでのターンの後にすることもできる。後、平泳ぎで掻く動作でもいいんだけどね。ドルフィンキックのやり方はかなり難しくて、言葉で説明しても理解はできないと思うけど、両足を揃えて全身を波のような動きで蹴り上げるのがこの動作の基本。動きがイルカに似ているからドルフィンキックと呼ばれているけど、それはどうでもいいか」
田崎怜奈が言った通り、言葉をただ並べただけでは武田佳織里をはじめとする新入部員は理解が追い付いてはいなかった。
『平泳ぎで掻く動作でもいい』とは言ったが、ドルフィンキックとどっちが速くて覚えたら今後に役立つかといえば、圧倒的にドルフィンキックである。
覚えるまでの道のりが長くて、はっきりといえば躓く人がいる人が多く、飛び込みやターンでの折り返しでも他の部員と差ができてしまう水泳において、『できない』は『勝てない』と同じ意味を持ってしまう。
「次は、『どれくらいで泳ぎ始めるのがいいか?』なんだけど、これは15mまでに潜水をやめないと失格になるってルール決めがされているよ。でも、泳いでいる人間がどうやって15mを知るかといえば、プールの床に真っ直ぐなラインが引かれているのは泳いでいる皆んなはわかっているとは思うけど、2箇所に左右の少し出っ張りがあるそれが15mの合図なんだ」
プール場を飛び込み台から真っ直ぐ見た場合に、Tの青い線で真っ直ぐ引かれているかと思うがTの所が5mの合図、左右に少し出っ張りがあるが15mの合図となっている。
だが、それはクロール、平泳ぎ、バタフライの場合はそれで確認できるが、背泳ぎの場合違う。
旗が上にかかっておりそれで判断することができ、50mプールにおいてのスタートとターンの折り返しの地点から、5mの地点と25mの地点での場所に運動会の国旗が並んでいるかのように掲げられているのを目印として泳ぐことが可能だ。
一番難しい所を挙げるとするならば、ターンでの折り返しの部分が背泳ぎの場合は少し難しくなっている。
ターンでの折り返しでのクイックターンはクロールなどのように、ある程度前を確認できるのと違って、上を見ながら泳ぐ背泳ぎは確認ができないため、掻いている手で折り返しの壁に当たるのを確認してクイックターンをする人しか方法はないが、経験が多い人はある程度壁との距離を予測して回ることをする人もいる。
しかし、これは予想が空振りする可能性もあるので、初心者の方は絶対にしない方がいいといえるだろう。
「喋りはこの辺で終わりにして、とりあえず始めようか。順菜、ドルフィンキック教えればいいの?」
「うーん、そこも教えないといけないけど、飛び込みをある程度できるようにしてからがいいのか迷っているんだよね」
「なるほどね。私の考えも言ってもいいかな」
「いいよ」
「私的には、飛び込みはとりあえず腹打ちしなけばいいかなと思っている。ドルフィンキックの方が重要だと私は思っているよ。だって、飛び込み以外でも折り返しの時なんかにも使うからさ、優先度でいえばドルフィンキックじゃないかな?」
「確かに一理あるね。今からでもできるようにすれば、皆んなのためにもなるし、難しくていろんなことを詰め込み過ぎている気がしないでもないけど、わからないところは経験者でもある私達が教えればいいしね」
「そういうこと、じゃあ決まりだね。そういうわけで、今からドルフィンキックの練習を始めます」
大会を想定した一連の動きを行なう前にドルフィンキックの練習を開始した。
潜水においてのドルフィンキックの一連の流れは、胸を思い切り張り腰を反りながら、両足の膝を90から120度を目安に曲げ、目一杯の力で両足の甲で水を蹴りながら、腰を真っ直ぐに戻し、膝を伸ばすのを繰り返すのが潜水においてのドルフィンキックの流れになる。
真っ直ぐ曲げないように意識を向けながら泳げば、多少ミスをしても泳げるクロールでのバタ足とは違い、ドルフィンキックは進まないという現象に陥ることが多い。
バタ足の場合はお腹に力を入れ、頭、お腹、足が水面で真っ直ぐになりながら、泳げば足が多少曲がっていようとお腹が下がらなければ泳げることが多く、だからこそバタ足があるクロールは初心者向けと言われる所以だ。
だが、ドルフィンキックの場合は両足の膝を曲げ、水を蹴るタイミングで胸を反ったり元に戻したりをしなければならず、的確なタイミングでやらなければ推進力としての機能を果たさない。簡単なイメージとして伝えるなら、波のような難しい動きをしなければいけないならず、コツを掴むまで相当な時間がかかってしまうが、完璧とはいえなくてもある程度なら動かせるようになるのが初心者が行き着く先かもしれない。
逆に飛び込みの恐怖心はある程度やっていけば、体が慣れていき次第に消えていくから問題はなくない、初心者である新入生の今後の一番の壁として立ちはだかる問題はドルフィンキックになっていくだろう。
そんな中で、武田佳織里はドルフィンキックを人生で初めて泳いでみて感じたことは自分自身がまるで魚やイルカにでもなったような気分に陥ったことだった。
『初めてドルフィンキックをやってみたけど、体全体を波のように動かさないといけないから体力的にもきついし、これを飛び込み後、ターン後にやるのは今の自分の体力では無理だ。あ、だから吉岡先生は体力と筋力をつけるためにランニングを沢山しているんだ。初めてのことだから、凄く勉強になるし、楽しい』
周りの初心者の一年生が疲弊しているなかで、武田佳織里は1人瞳を光らせ、辛くて苦しいドルフィンキックの練習を楽しんでいる。
その理由は、『魚やイルカのようになった気分』という子どもじみている内容ではあるが、些細な理由で楽しいって思えるだけいいと感じてしまう。
何を始めるにせを、誰もが0からのスタートであり一年生のわけだ。
覚えなければいけないことが『壁』として立ちはだかり、できなくて諦めその場を去るか、できるまで何度でも挑戦するかの二択となる。
『諦めければいつかできるようになる』なんていう人もいるが、それはちゃんとした練習方法、自分のどこがダメなのか、と分析し直すことができる人間だ。
ただ、練習をこなすような水泳部員ならば『壁』は突破することはできないだろう。
武田佳織里は『壁』を突破するのか、それとも、諦めてその場を去るのかが見ものだ。
そして、今日の練習は田崎怜奈、小嶋順菜も自分の練習をするために他の3年生や2年生が自分の練習の時間を割きながらドルフィンキックを部活が終わる時間いっぱいまで教えて、今日の練習は幕を閉じた。
最後に吉岡理恵から次の練習内容の発表が行われる。
次の内容は『クイックターン』であり、中距離、長距離を泳ぎたいのであれば覚えなければいけない必須なことの一つ。
覚えることが多過ぎて、頭と体が追いついていないけどそれほど苦ではないと感じている。
そうなっているのはきっと、自分自身が水泳を楽しんでいるかだと感じていて、次の土曜日の練習が待ちきれないでいる、そんな武田佳織里だった。




