13話「タイム測定開始!」
今日の練習メニューは軽く作られていて、それはタイム測定をメインにするためにそうなっている。
プール場での練習が始まり、軽く泳ぐような練習メニューが終わった頃にタイム測定が始まるために吉岡理恵のもとに集まった。
タイム測定の順番は、自由形、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ、個人メドレーの順番と短い距離から行われる。
まず最初は、武田佳織里と宵宮夏美が泳ぐ50m自由形からスタートすることに、武田佳織里は桜坂花蓮と南條愛美から「覚えたことをしっかりね」と言われ、宵宮夏美は霜月真冬から「ヘマすんなよ」と言われて、武田佳織里と宵宮夏美は送り出してくれた友達に対して「うん、行ってくる」と答えた。
「佳織里ちゃん」
「どうかしましたか?」
タイム測定の順番を待つためにベンチに座っていると隣にいる宵宮夏美が話をかけてくる。
緊張で足や手が震えるのを必死に抑えるのに集中していたせいか、少し驚いてしまった。
「今日は私の誘いを断らないで受けてくれてありがとね」
「え?」
「先輩の誘いだから断りづらかったでしょ」
それは宵宮夏美が気にしていた所だった。
先輩に逆らえば、「何をされるかわからない」とか「いじめられるかも」とか思わせてしまったのではないかと心配になり、せっかくの新入部員で他の子と組んでタイム測定をしたかったのを邪魔してしまった、とさえ感じてしまう。
「気にしすぎ」と言われれば確かにその通りかもしれない。
でも、宵宮夏美は武田佳織里には嫌われたくないと思っていて、それは、武田佳織里があまりにも水泳を始めようとした頃の自分にそっくりで、自分の影を見ているみたいだったからだ。
「いえ、そんなことはないですよ。私は誘っていただいて嬉しかったです」
「そっか。その言葉が聞けただけでホッとするよ」
体と気持ちが軽くなったのを感じて、そっと胸を撫で下ろした。
宵宮夏美は自分が初心者なことを自覚はしているから、後輩で入ってきた部員に対しては先輩だと思って接したくはないと2年生に進級する時に決めていて、それは自分の実力では後から入ってきた新入部員に抜かれることがわかっていたからだ。
自分の影のようであり、抜かされるかもしれない武田佳織里を無意識の内に今回のタイム測定に選んだのかもしれない。
話が終わったタイミングと同時に、前の2人のタイム測定が終わり吉岡理恵は武田佳織里、宵宮夏美のもとに近づいてきて、「準備はよろしいですか?」と聞かれたので、2人は「「はい!」」と答えた。
「では、準備の方をお願いします」
ベンチから立ち、飛び込み台前で止まり、ゴーグルとキャップが飛び込みの衝撃で外れないように固定して準備が完了し、吉岡理恵が笛を構えて、笛を1回2回3回鳴るのと同時に飛び込み台で足と腕を構える。
不思議なことに一般の人やその他の学校の人もいるのに場は静寂に包まれ、武田佳織里と宵宮夏美は、心臓の音、手や足が震えるのが直にわかる形となった。
まだか、まだかと「早く始まれ、どうにかなってしまいそうだ」と感じる程に体感時間の流れは緩やかに進んでいるように感じた時に、吉岡理恵の笛の音が鳴ったのと同時に飛び込んで水飛沫をあげる。
まずは、飛び込みだが武田佳織里はやや不安定な形となっており、手や足が完全な真っ直ぐになっているとは言えない状況でのスタートなり、腹内になっているもよう。
宵宮夏美な方は、武田佳織里と同様に不安定な飛び込みでのスタートとなってしまっているが、腹内になってはいなかった。
どちらが、先に浮上し前に出てしまうのかと2人を応援する友人と部員達は固唾を飲んで見守る中、先に浮上したのは武田佳織里で息が持たなくなったので浮上をしたようだ。その少し後に宵宮夏美が浮上をし、武田佳織里の少し前にいるような状況になってしまっている。
ここから、武田佳織里が前に出れるためには、宵宮夏美が疲れて失速するか焦ってミスることに賭ける以外に方法がない。
宵宮夏美の方が一年先輩で、そのたかだが『一年』であっても積み上げてきた練習つまり練度が違う。
宵宮夏美、武田佳織里は同じ初心者枠なのかもしれないが、その差は開いているのは当然であった。
『これがタイム測定…いつもの練習とも違う…最初は緊張したけど、泳いでいるうちに落ち着いてくる』
そう思う武田佳織里ではあるが、なかなかに50mの長さを全力で泳ぐのはしんどいのは本音ではある。
だが、宵宮夏美が前を泳いでいるという闘争心が「負けたくない、食らいつきたい」と奥底に眠る思いが武田佳織里の体に燃料を送ってエンジンのように動かしていた。
『初心者だからって舐めていたわけじゃないけれど…佳織里ちゃん、私の後ろにピッタリと張り付いているじゃん…煽られているみたいでやりづらい…』
1人分後方に武田佳織里がいる現状で、息継ぎをするタイミングで後方を一瞬だけ見るようにしていたが、はっきりとしたことはわからないが差が詰まっているように宵宮夏美は感じとれた。
その現状を見て、宵宮夏美は焦る。少しばかり、ペースを上げようかと考えようにも今のペースを崩したら、ミスに繋がるかねないのでこのままで行くことに決めた。
『最後のラスト5mで一気にペースをあげる。絶対に佳織里には負けない!』
実際に、宵宮夏美の判断は正解で息継ぎに見ていたのは単なる見間違いだ。
息継ぎのタイミングで後方が確認できるとは言っても、それは完全に見えるわけではない。
闘争心が剥き出しで体力を削りながら、一瞬を後方を確認するだけではちゃんとどの程度の位置にいるかなど完璧にわかるはずもなく、ある程度しか実際にはわからないため、近づいていることを誤認してペースを上げて体力を失うなんてこともありえるわけだ。
だからこそ、ここで言えることは「あくまである程度の位置が確認できる」ことをちゃんと頭で理解をしておかなければいけないということ、そこを勘違いしてはいけない。
『宵宮先輩に追いつけない…寧ろ、離されている気がする…これは気のせいではないかな』
武田佳織里は体力が持たなくなってきているのか、徐々に失速していく。
はなから見た人達と武田佳織里は「宵宮夏美がペースを上げたのでは?」と勘違いしてそうな場面ではあるが、宵宮夏美は一切ペースを変えてはいない。
この体力差が先に水泳をやっている人とそうでない人の差である。
残り5mに差し掛かるところで、体力に余裕がまだある宵宮夏美は最後の一絞りの如くペースを上げて、そのまま体力を失っている武田佳織里を置いて先にゴールした。
宵宮夏美は水面に顔を出すと後方で泳いでいる武田佳織里を確認すると声を上げる。
「後、もうちょっとだよ!」
泳いでいてたら、「応援の声は聞こえないんじゃない?」と思う人もいるかもしれないが意外と聞こえていて、息継ぎの際は明確に聞こえている。
宵宮夏美と武田佳織里が泳い着始めた瞬間から、清流高校水泳部の応援はプール場に反響していて、響いていた。
水泳の応援は完全には聞こえないかもしれないが、「応援している気持ち」は泳いでいる部員には届いているはずで、その気持ちが部員達の背中を押してくれている。
武田佳織里がゴールして、水面から顔を上げた瞬間に宵宮夏美は「お疲れ様」と言葉をかけ、息を切らしならがら、「宵宮先輩もお疲れ様です」と返した。
こうして、宵宮夏美と武田佳織里の戦いは終わりを告げる。
武田佳織里はプールサイドに上がると、桜坂花蓮と南條愛美から水筒を渡され、急に喉が渇いてきた武田佳織里は一気に流し込んだ。
「お疲れ様」
「初めては緊張したでしょ?」
そう告げられて、飛び込み台の上に立っていた時のことを思い出すと一瞬だけ体が恐怖心でいっぱいになっていた。
武田佳織里は、飛び込むのが怖かったのだ。
高い所から水面に飛び込むだけではある。言葉や文面にすれば「そんな些細なこと出来るでしょ」と思われがちだが、実際に飛び込み台の上に立つと感じ方が違う。
あの場所に立つと途端に水面に向かって飛び込むのが怖く感じる。
別にプールの中に機雷が仕掛けられているわけではないのに、高い所から飛び込むという行為は体全身が拒否反応を起こすほどに恐怖感じてしまう。
それは、初心者であれば尚更であり、慣れている人でさえも怯えながら飛び込んでいる人は少なくないだろう。
「緊張もしたし、怖かったです…」
「怖い?」
桜坂花蓮や南條愛美は慣れているからこそ、武田佳織里が言った「怖い」の意味も感情も何を指しているのかさえも検討が付かなかった。
そこが初心者と経験者の気持ちの差だ。
「そうです…飛び込みを待つあの時間も飛び込みをした時も、心臓の音と体の震えが止まらなくてどうにかなりそうでした…」
武田佳織里が感じていた「怖い」の意味も感情も、桜坂花蓮と南條愛美は言われた久し振りに思い出したのは、初心者の頃の気持ちだった。
随分と長いこと水泳を日常生活の一部となっていた2人にとって、飛び込みが「怖い」という気持ちからかけ離れていて、もう「慣れた」という気持ちになっていることを忘れていることに気がつく。
「忘れていたよ…飛び込みは確かに怖いよね」
そう、呟いたのは南條愛美だった。
彼女は思い出す、水泳をやり始めた頃に怖くて泣いたことを。
忘れてしまっているわけでもないのに、人が歩くことを自然に出来るように飛び込みも自然に出来てしまうことを疑問に感じることはなかった。
「愛美の言う通り、私も飛び込みが怖くないかと言われれば嘘になるかな」
大会で同じ組で戦う相手に勝てるのか?タイムはどのくらいか?順位はどのくらいか?
そのことを考えてしまうと、飛び込み台の上で心臓の音と体の震えが止まる気配がなくなる。
飛び込みで失敗すればスタートダッシュで負けることを意味をするし、笛の音よりも前に飛び込めば失格となり、やり直しはない。
その緊張感が、初心者の頃とは違う「怖い」が襲いかかることになる。
「慣れている2人でも、飛び込みは怖いんですね」
「うん、そうだね。佳織里ちゃんは、焦らずにゆっくりと覚えていこう」
「はい」
まずは「恐怖心」に打ち勝つことを第一目標にすることを決意した。
「おつかれ〜」
と言いながら霜月真冬はスポーツドリンクが入ったペットボトルとタオルを投げてきて、少し受け取るのに手間取ったがなんとか落とさずにすんだ。
「あんたにしてはいいタイムなんじゃないの」
「そうかな?私は危機感を覚えるよ、佳織里ちゃんに負ける日が来るんじゃないかってさ…それに、当たり前だけど春香と楓にはタイムでは到底勝てないしね」
ベンチに座りながら、悲観的な感情を霜月真冬に吐露する。
その感情に対してどう返していいかわからずに固まってしまっていた。
目の前のプールでは50m自由形を選択した、桜木春香と秋空楓が泳いでいる。
一年生の時から2人は仲良しではあるが水泳での勝負ではライバルであり、フリーリレーでも選手に選ばれるほどに優秀な部員だ。
どうしても近くに速く泳げる人がいれば、比較したくなくてもしてしまうのが普通で、「気にするな」はここでは御法度なことも霜月真冬は重々理解はしている。
「あんたは、あんたらしい泳ぎをすればいいと思う。水泳っていうのは個人競技で自分が納得出来る泳ぎをするスポーツでもあると思うし、その中で他人とタイムで争うのが水泳だと思うよ。ま、これは個人的な考えだけどね」
「真冬…」
『確かに、言われてみればそうか…』と心の中で納得してしまう自分がいた。
大会を意識してしまうとどうしても、他人とタイムが気になってしまうはのは事実である。
だって、誰だって勝ちたいし、出場している誰よりも上のランキングに乗りたいのは皆が思っていることだが、それと同じくらい重要なのは「自分らしい泳ぎ」ができること。
この言葉の意味は、「同じ組の人が速くても焦らない」「ミスをしても焦らない」という意味が隠されている。
「焦ったら負け」と色んなスポーツや日常でも使い倒されている言葉だが、少しでも焦ると、腕と足の掻く力のパワーバランスが崩れたりしてしまう可能性が出てきてしまう。
たった、それだけでも体力が削られたり、速い人が同じ組にいたとして「なんとしてでも食らいつく」と思い余計に力が籠った泳ぎをして同じように体力を削られていい泳ぎが出来ない可能性があるのだ。
だからこそ、他人に勝つよりもまずは「自分らしい泳ぎ」をした方がいいということに繋がる。
「ありがとうね」
「どういたしまして」
お礼を言われるとも思ってもいない霜月真冬、心配してくれて嬉しい宵宮夏美は両者共に別の意味で顔が赤くはなっていたが、言って後悔はしてはいなかった。
タイム測定の時間は早く過ぎていき、遂に200m自由形を選択している部員達の順番が回ってきてしまう。
秋空楓、南條愛美が準備を始めるためにベンチに座る。
先に泳いでいる部員がいるが50mや100m自由形と違い、早く順番が回ってくることはないので気持ちの整理や落ち着きの時間に使うことができるというわけだ。
深く深呼吸をして、手や足の震え、心臓の音を落ち着かせた後に秋空楓に聞いてみたいことを質問してみることに。
「どうして、200m自由形を?」
「なんか…変かな…?」
首を傾げつつそう答える姿を見て、本当に田崎怜奈と同じくらいに何を考えているのかわからない人だな、と心の底から思ってしまうわけだが、秋空楓が言った「挑戦してみたいから」という気持ちは理解はできたつもりだ。
「変とかではなくて、挑戦するにしてもなんで『200m』なのかな?って思って」
「それは…誰だって疑問には思うよね…過去のタイム測定の記録表を見ても50m自由形しか泳がなかった人が急に違う距離を泳ぐんだもんね…答えは、簡単だよ…田崎怜奈、南條愛美、桜坂花蓮と戦ってみたかったんだ」
ただ、戦いたい人がいるから200m自由形を選んだに過ぎなかった。
彼女達がもし、違う種目で距離ならば秋空楓は問答無用で選んでいたに違いない。
「戦いたかった、ですか?」
「そうだよ…単純な話でしょ…田崎怜奈も南條愛美も水泳の実力があるのは知っている…けど、私が得意とする50m自由形を選ぶことはない、だったら自分から相手の土俵に行くしかないんだよね…」
「じゃあ、花蓮はどうなるんです」
南條愛美はその言葉を発した途端に、桜坂花蓮に対して失礼なことを言ったなと自覚をした。
大した成績もない、実力があるかと言われれば現段階ではない、そんな桜坂花蓮とも戦いたいとは田崎怜奈とは真逆だなと感じる。
「花蓮は、入部当初こそ少しやる気がないように感じたけど…最近では、暑苦しい程に熱気を感じるんだよね…今回のタイム測定で田崎怜奈と戦うみたいだけれども、それによって何が起こるかわからない…でも、彼女なら…きっと、立ち直れる」
『熱気?花蓮から?』
その言葉が秋空楓の口から出てくるとは思わず、顔に出ないようにするのが必死だった。
普通に部活をして、朝練もして、最初こそ武田佳織里に教えていたが何か変化はない普通の生活で、そこに桜坂花蓮の熱気が感じるところなど一つもないのが本音。
中学生の時もろくに話したこともなく、高校に入っても普通だと感じてしまう桜坂花蓮のことをあの時、部活動掲示板を眺めていた時に誘ってしまったのかといえば、今は消えてしまった中学一年生の頃の熱意がどこかに宿っていると信じていたから。
桜坂花蓮は中学一年生の頃は誰よりも水泳に対して熱心だった、練習も真面目、先生の指導にも真面目ないい部員で、『私と似たような真面目な部員もいるんだな』そう思っていた。
200m自由形、フリーリレーで大会に出れることが決まった頃に転機が訪れる。
桜坂花蓮がメンバーに選ばれたことにより、大会に出れなくなった2年生や3年生から、雑用を押し付けられたり、物が無くされたり、無視されたりすることが多くなっていく、簡単にいえばいじめであり、大会に出れなくなったイライラを桜坂花蓮にぶつけて解消しているに過ぎない。
そして、桜坂花蓮は徐々に精神が擦り減っていき、水泳部にいるだけの存在となっていた。
ただ、練習をするだけでそこに熱意も、水泳に対しての愛も、砂のように細かい存在となって、消えていってしまう。
「止めたかった」と後悔する気持ちがある一方で、「止めたらきっと私もいじめを受けた」と思う気持ちも強い。
「なんて、自分のことしか考えてない女なんだろう」と感じてしまうし、「ごめんなさい」と謝れない自分を引っ叩きたいといつも思うのに、口から簡単な言葉すら喋れないで固まってしまう。
「謝ったら、どう言われるのだろう?」といつも考えてしまっている。
「2人とも、準備をお願いします」
自分の世界に入ったところに、吉岡理恵の横槍が入ってきたおかげで現実世界に戻ってこれた。
秋空楓、南條愛美共々、歩き出したところで桜坂花蓮、田崎怜奈とすれ違う。
「愛美、自分らしい泳ぎでね。私は、大会で愛美とも戦いたいからさ…」
『戦いたいかぁ…そうだ、思い出した…私が花蓮を誘った理由がもう一つある』
それは、中学時代の時に思っていたことを叶えるためだ。
もし、中学時代の熱気が冷水を被って冷めなかったら、桜坂花蓮と戦いたった。
200m自由形で、県大会、関東大会、全国大会、フリーリレーも戦いあって、競い合って、高み合う。
そんな、水泳部の青春を送りたかった。
だから、高校に入った時に桜坂花蓮を見つけた時にしつこく誘ったことをなんで忘れていたのか。
『花蓮が私と戦いたいのなら、答えてあげるのが筋ってもんだよね』
「いい顔になったね…」
隣にいる、秋空楓からそんな一言が告げられる。
南條愛美が何を考えていて、どう結論つけたのかなんて秋空楓は知ることはいが、なにか決心のようなものがついたことだけは南條愛美の顔を見ればわかった。
前で泳いでいた部員達がプールから上がったのを確認した後に、ゴーグルとキャップを付け直し外れないかを確認をして、飛び込み台の上に乗る。
吉岡理恵の笛の音が聞こえ、飛び込み台の上で構えをとりながら、最後の笛の音を待った。
「よーい!」の声の後に笛の音が聞こえた同時に、200m自由形のタイム測定が始まった音のように聞こえ、覚悟が引き締まるように感じる。




