幻影、狂う魂を喰らう
翌朝、アルムが泊まっていた二階の部屋から降りていくと、キッチンには既に朝食をとっているリリー達三人がいた。
「おはようございます」
キッチンに入りながら挨拶をすると、三人も口々にそれを返す。
朝食は何故かシェリルが作り、スティルが運んでいた。唯一の女手であるリリーは、フォークを両手に持って座っている。
「あたし料理出来ないし、お皿もよく割っちゃうんだよね」
アルムの視線に気付いたのか、リリーがコソコソと彼に耳打ちをした。
「よし、これで揃ったな」
スティルは自分の目の前の椅子をアルムに勧めながら朝食を全てテーブルに置き、嬉しそうに言った。
「今日はお前たちに頼みたいことがあるんだ。これを街の役場に届けてほしい。――あぁ、中は見ちゃいかん」
リリーが彼から受け取った手紙の封を開けようとしたので、スティルが慌てて付け足す。
「あと、役所でアルムの事を調べてもらってきてくれ。なるべく早く自分の事を知る方が良いだろう?それと、アルムに必要な衣服類などを買ってきなさい。余った金は…自分たちで好きに使えばいい」
「じゃあ、新しい武器もいいの?」
リリーはお金の入った巾着を受け取り、明るい表情になる。
「まぁ、お前たちのも大分古いからな」
「わあ、ありがとう!!」
リリーは飛び上がって喜ぶ。
昨日、アルムが新しい剣を買っていたのがよほど羨ましかったのだろう。
「…おい、早く飯食え」
そう言っていつまでも喜んでいるリリーを制するのは、やはりシェリルなのだった。
「はああ!」
街へと続く街道では、リリーとシェリルが魔物たちを倒していた。
街は、昨日歩いてきた“ラルク街道”とは逆方角の街道の先にある。多少の魔物は、リリーとシェリルがすぐに武器を振るって、それらをあっという間に倒していく。
アルムは新しい武器を振るう機会を完全に見失い、立ちすくむだけだった。
「お、見えた見えたっ」
暫くして、リリーが前方を仰いだ。少し離れた所からでも、賑やかな街の様子が分かる。
「あれが――?」
「目的の街、ティリエよ。待ってなさい、あたしの新品ランス~!!」
「あ、リリー!」
アルムが止めるのも聞かず、リリーはそう叫びながら、勢いよく街に向かって走って行ってしまった。
「――ったく…」
シェリルは彼女の背中を目で追う。
アルムは隣にいるシェリルの顔をちらりと見て驚く。
彼は、笑っていた。
少し呆れた顔をしていたが、眉は困ったように少しだけ下がっていて、口元は明らかに緩んでいた。
「シェリルって…笑うんだ」
アルムが思わず呟くと、彼はバッと振り返って顔をしかめた。その顔は、少し赤い。
「そうか。…ふーん、そういうこと?」
アルムはにやにやと笑うが、シェリルは首を傾げていた。
「青春だねシェリル」
「はあ?」
アルムは更に困惑するシェリルの腕をつかんで、街の方へ歩き出すのだった。
「もー、あたしだって新品ランス欲しいんだってば」
アルムとシェリルは、近くの武器屋に入ろうとしていたリリーを捕まえて、街の中央に建つ大きな役場に入っていく。
入ってすぐ右側には、綺麗な女性三人が並ぶ受付があった。
その一番左、『宅配局』の表示の脇にいる女性に、シェリルがスティルから受け取った手紙を出した。
「これをそこにある所へ。あと…」
彼は言いながら右側の女性を見る。
女性の前には『情報局』の表示がある。
「こいつ…アルム・ティニックの個人情報を調べてほしいんだけど」
シェリルの言葉を聞いて、女性は機械的に応える。
「失礼ですが、何か身分証の様な物をお持ちではありませんか? ご確認が取れないと、町村民の方々の個人情報はお伝え出来ません」
「やっぱそうだよねー。アルム、何か持ってる?」
リリーは肩をすくめ、眉ひそめて唸っているアルムを振り返った。
実はアルムは昨日の夜、今持っているリュックを既に調べていた。
しかし、自分の過去に関するような物はおろか、名前の入ったペンすら持っていなかったのだった。
「いや、無いです…。昨日もこの中を確認してたんですけど…」
アルムは背中に掛けているリュックを探りながら呟く。受付の女性は、そんなアルム達を奇妙だと思ったのか怪訝そうな顔をする。
「また出直してくるしか無いかな…」
リリーは残念そうに言ったが、すぐにニヤリと笑う。
「じゃあ、暫くこの辺り見ていい? 前から色々見たかったんだ」
リリーがそう言うのを聞いて、アルムは辺りを見回してみた。確かに役所の中だというのに、あちこちに土産物屋の様な小店があるのが見える。
「この役所はね、奥で飛空場と繋がってるの。だからお土産屋さんもあるの」
アルムの心を読んだように、リリーが自慢げに言った。そして突然、気合いの入った声で叫ぶ。
「よし! 可愛いお土産買うぞー!!」
「…見るだけって言っただろうが」
シェリルの突っ込みも全く聞かず、リリーは既に店に走って行っていった。
「オレも、色々見てみようかな」
アルムはそばにあった店を覗いてみる。
店の前の小さな棚に、大量の雑誌が乱雑に入れられている。
アルムは、その中から目にとまった雑誌を取り出した。表紙には、三十代前半くらいの男の写真が大きく載っている。
「特集『蒼き翼』の人気総指揮官・マルス氏と準指揮官・ホール氏、独占インタビュー・街頭アンケート…」
アルムはペラペラと雑誌を捲りながら首を傾げる。…書いてあることがサッパリ分からない。
「ツヴァイ・マルス総指揮官か…最近よく見るな」
いつの間にか隣にいたシェリルが、眉をひそめて唸るように呟く。
アルムは彼に雑誌を渡しながら尋ねた。
「『蒼き翼』って、何?」
「エルサム王国が持つ軍隊の名だ。最近、特に理由も無く、そのマルスって奴に総指揮官が変わったんだ。顔は良いし、能力があるから誰も気に留めないが…」
「…エルサム王国?」
「俺たちが今いる国だ」
アルムは曖昧に頷いたまま、しばらく黙って情報を頭の中で整理する。
彼の頭は既に混乱気味で、今持っている疑問をそれ以上詳しく訊いても理解出来そうになかった。
「総指揮官か…何だか凄いね」
頭の整理がついたらしいアルムは、やっとそれだけを呟いた。しかし、シェリルの返事はない。
アルムは彼の開いていたページを、横からそっと覗いてみた。
「な、ちょ、シェリル!!」
ソレを見た瞬間、アルムは慌てて雑誌を取り上げる。アルムが振り回す雑誌の半ページいっぱいには、水着の女性の姿が大きく載っているのが見える。
「え、な、何見て――!!」
「お前、勘違いすんなよ…」
「何がっ」
シェリルはため息をついて、ガックリと肩を落とす。
「…女じゃなくて、その隣の占いを見てただけだ」
「占い?」
アルムは慌てて雑誌を確認する。確かに、隣のページに『占いコーナー』とある。
「似合わねぇとか言うなよな」
シェリルは少し顔を赤くしたが、占い自体が理解出来ないアルムは、その反応にただ首を傾げるのだった。
「アルム! シェリル!」
その時、リリーの大きな声が二人の耳に届いた。
「見て!」
彼女は二人の前で急停止し、小さな熊の人形が付いたキーホルダーを二人に差し出してきた。
アルムが受け取った熊は水色のTシャツ、シェリルの熊は黒色のシャツを着ている。そして彼女が掲げた熊は、黄色のTシャツを着ていた。
「あげる。Tシャツはみんなの髪の色にしてみたんだ。…あたし達とアルムがもっと仲良くなれたら良いなってさ」
「うん…ありがとう」
アルムは毛むくじゃらで、顔の潰れた熊を揺らしてみた。奇妙なダンスを踊る熊に、思わず笑みがこぼれる。
「…これからは何かあったら遠慮なく言ってよね。いつでも聞くんだから」
アルムは一瞬目を丸くし、そして真っ直ぐ彼女を向いて微笑んだ。
「ありがとう。本当に、嬉しいよ」
アルムが笑うと、リリーは顔を赤くして危うく人形を取り落としそうになる。
彼女はそれを誤魔化す為にか、照れくさそうに笑う。
「さぁて、新品ランスちゃんに会いに行きましょうかっ」
「…先にアルムの装備だ」
シェリルが鋭く突っ込むと、リリーはムッと頬を膨らます。
「分かってるわよう、ほら行くわよ!」
ちゃんと分かっているのか、と問うシェリルの背中を押して歩いていくリリーを見ながら、アルムはクスクスと笑った。
そして、手にしていた熊の人形をリュックの持ち手に付けてみる。
ゆらゆら揺れる潰れた熊の顔が、愛らしかった。
「よし、帰りも引き締めてこー!」
リリーが右手を高く挙げて叫ぶ。
三人はアルムの装備をはじめ、リリーの新品ランスなどを一通り購入した。そして、暫く街を観光した後にティリエを発とうとしていた。
「行きはあたし達が手を出しすぎたから、帰りはアルム頑張ってね。補佐はするから思いっきり暴れちゃって?」
リリー達は街道に出る前に各々新しい武器を抜く。明るい日の光に、銀色の輝きが眩しい。
「あのオレ――」
「リリーちゃん!シェリルくん!」
アルムの言葉の途中で、突然誰かの声が飛んでくる。三人が振り返ると、街の方から三十代後半くらいの女性が走ってくるのが見えた。
リリーとシェリルの顔見知りのようで、リリーが彼女に手を振っている。
「ステラさん、どうしたの?」
女性が目の前で立ち止まると二人が武器を仕舞うので、アルムも同じように倣う。
「リオが木にかかった風船を取ろうとして…危ないの。助けてちょうだい」
ステラと呼ばれた女性は、目に涙を溜めながらリリー達に訴えた。
「うん。すぐに行くわ」
リリーはそう言ってシェリルと顔を見合わせて頷く。
しかし振り返ってアルムを見ると、彼らは気まずそうに顔を見合わせた。暫くして、リリーが言いにくそうに口を開く。
「ごめんアルム。その子凄く人見知り激しくてさ、ちょっと待っててくれる?」
「…あの、もし良かったら先に帰ってても良いかな?剣を使うのは初めてだし、えっと、二人に見られていない方が…魔物と闘いやすいと思うんだ」
リリーの言葉の後、アルムは慎重に言葉を選びながら言う。リリー達は更に不安そうな顔をしたが――。
「分かった。危なくなったら、すぐに逃げてよね?」
「…怪我すんじゃねぇぞ」
「うん、ありがとう」
心配しながらも賛成してくれた二人に感謝しつつ、アルムは元気よく一人で街道を歩いて行った。
暫く見えていた姿を消えるまで見送り、リリー達はステラに向き直る。
「あたし達も早く行かなきゃ」
「ごめんなさいね。夫が留守にしている間は、私が注意していなければならなかったのに…」
「落ち込んでいても仕方ないですよ。急いだ方がいい」
落ち込むステラを励ましながら、二人は足早に街を逆戻りした。
「あそこよ」
街に入ってすぐに、ステラは右手の方を指した。小さな家の前にある高い木の枝に、一人の少年が必死にしがみついているのが確かに見える。リリー達は慌てて駆け寄って、上を見上げた。下から見ると、なかなか高い位置にいる。
「あー! あー!」
少年は枝に掴まって叫んでいた。
シェリルはそれを見て、すぐに双剣などの荷物を地面に置き、木に登り始めた。さすがにあっという間に少年のすぐ前までやって来る。
「リオ、俺だ。…風船は後で取ってやる。大丈夫だから、来い」
シェリルは喚き続ける彼に、出来るだけ優しく声をかける。彼の言葉に、リオと呼ばれた少年は段々と落ち着き、泣き止んでいった。
「兄ちゃん…」
鼻水を垂らしながら、リオはシェリルにしがみついてくる。シェリルはしっかりとその少年を抱き、登る時よりも更に慎重に下りていく。
「…よし、大丈夫か?」
「リオ…!」
シェリルが抱えたリオを降ろした瞬間、ステラが勢いよく少年に飛びついた。彼女は本当に安心したように、目の端に涙を溜めていた。
一方、それを見たシェリルはリリーと目を合わせ、再び木に登った。そして今度も慎重に、絡まった風船を取って戻る。
「ほら、リオ」
シェリルは手にした赤い風船を、未だ鼻水を垂らす少年に差し出した。顔を上げた少年は、満面の笑みを浮かべながらその風船の紐をしっかりと掴んだ。
「ありがと兄ちゃん!」
「うん」
シェリルは彼の頭をわしゃわしゃと撫でながら優しく微笑んだ。…そんな珍しい彼の笑顔に、何故かリリーがドギマギとして照れていた。
(シェリルったら、いつもそんな顔してれば良いのにさ…)
リリーは内心、いつもの彼の姿を勿体無い等と思っていた。
「そうだ。兄ちゃん、コレあげるよ」
リオは突然、ポケットの中から黄色い飴を差し出して、シェリルの手のひらに押し付けた。
「父さんから貰ったんだ。僕の宝物なんだよ」
「あ…ああ」
「ちゃんと食べてねっ」
内心では食べないつもりだったのだが、そう指摘されては従うしか無い。シェリルが包み紙を開いて飴玉を口に入れると、リオは満足げに微笑んだ。
「じゃあ、あたし達はもう行きます。アルムを放ってはおけないから」
「ええ、二人とも、本当にありがとう」
ステラが深く頭を下げると、リリーは慌てて顔を上げてもらう。
「止めてよステラさん。あたし達はお互いさまでしょ?」
「…そうね。ごめんなさい」
「リオくん、早く治ると良いね」
「ありがとうね。じゃあ…また何かあったらお願いするわ。二人も、いつでも私を頼ってね」
その後も互いに礼を言い合いながら、リリー達はその場を離れ、足早に街道に向かって行った。
街を出て暫くして、二人は街道の異変に気づいた。
「なんか嫌に静かじゃん…」
辺りを見回して、リリーは薄ら笑いを浮かべていた。彼女の言う通り、街道には先ほどから魔物の一匹さえ見つからなかった。脇の木々も微動だにしない。
「アルムが魔物を完璧にやっちゃった、なんて事…ないよね?」
「だとしても、ここまでは不自然だ」
「だよね…」
リリーは頷きながら眉をひそめた。
嫌な予感がしているのは、シェリルも同じだと知っていた。数年共に暮らしている彼の顔を見ればすぐに分かる。
二人は不審に思いながらも街道を進んで行き、そして最後の角を曲がる。その時だった…。
「――アルム!!」
リリーが悲鳴にも似た声で叫んだ。彼女の視線の先には、街道の脇に倒れたアルムがいた。
ぐったりとして、ぴくりとも動かない。
「アルム、アルム!ねぇシェリル、どうしよう…」
アルムの脇に座ったリリーは振り返ってシェリルを見る。彼は数歩後ろで、ラルク村の方角をジッと見ていた。険しい表情が気にかかる。
「シェリル…?」
彼は呆然としたままゆっくりと口を動かして、小さくかすれた声を出した。
「…村が、ない」
「シェリル、何言って――」
「早くしろ」
シェリルはリリーを脇に強く押しのけて、アルムの腕を乱暴に引いた。腕だけが高く持ち上がり、彼の体は不自然に浮く。
「起きろアルム。…ボサッとするな!」
苛々としたシェリルは大声で叫んだ。
あまりの激しさに、リリーも意識の遠ざかっていたアルムもビクリと体を震わせる。
「ちょっとシェリル!落ち着いてよ。アルムに…当たらないで」
「そんなんじゃ、ない」
シェリルは彼女に一喝されて、バツが悪そうに呟いた。
しかしそう言うリリーも、出身地を心配して胸が張り裂ける様な思いだ。だが、実際にそれを見なければ何も分からない。
「…アルム、大丈夫?」
リリーの支えで、やっとアルムがふらふらと立ち上がった。
「アルム…?」
「ん、ああ…。よく分かんないけど、多分平気だよ」
アルムは体の水を吹き飛ばす犬のように頭を振った後で、苦笑いを浮かべてリリーに返事をした。その間に、シェリルは、一人でスタスタと歩いていく。
アルムはその様子を見て首を傾げる。
「シェリル?」
「アルム、何も知らない?…シェリルが見たらしいんだけど、村が無くなったんだって…」
リリーの声が震えた。
「…え? 何が、無くなったって? 村って一体どこの…」
当然のリアクションだった。
リリーの顔色を見て訳をしったアルムは、口をつくんで眉をひそめる。
「ラルク村が無くなったって、言ってたんだね…。分かった。早く行こう。…リリー大丈夫?」
「…大丈夫。ありがとうね」
リリーは無理やりアルムに穏やかな顔を見せ、泣き出したいのを堪えながら歩き始めた。重い空気が、その場を包んでいる。
三人はアルムが倒れていた最後の角を曲がって行った。
そこですぐにラルク村が見える、はずだった…。
「な…」
リリー達は、目の前に広がる光景に愕然とした。そこはまるで、焼け野原であるかのように、何も無かった。
ただ、燃えたつきた炭のような塊だけが村のあちこちにあった。その所々から、白い煙が出ている。
数時間前までの村の姿など、まるで嘘であるかのようだった。
「シェリル…!」
リリーが、数歩先にいたシェリルの背中に飛びついた。彼は眉をひそめてリリーの肩を抱く。
「――あ!」
アルムは突然、ハッと息を呑んだ。ふと見たリリーの家も、黒い塊になってそこに小さくなっていた。
「――父さん!」
アルムが見た物を捉えたのだろう、リリーが悲痛な声で叫ぶ。
「――はあっ、はっ」
リリーは荒い息をしながらシェリルに強くしがみついたままだった。その呼吸は不自然に、不規則に乱れる。
皆苦しい思いをしていたが、やはりリリーに一番負担がかかっていることは明白だった。
「…アルム、くん?」
自分を呼ぶ声。
アルムはハッとして顔を上げた。そこにいたのは、ルティだった。
「どうして…」
「わたし、この傍にある灯台で景色を眺めるのが好きで今日も見てたんです。…そしたら突然この村が光ったのが見えたから来たんですよ」
「光った…って?」
「爆発、みたいでしたねえ」
爆発…とアルムは一人呟いた。そして、考えを巡らそうとして、自分が村の一歩手前で気絶していたことを思い出す。
気絶をする前、爆発の音などを聞いただろうか、とアルムは考えた。
しかし、何も思い浮かばない。
(爆発があった時、オレは…何をしていたんだ? どうしてまた、記憶が…)
「本当に、何も知らない?」
「え…?」
顔を上げると、目の前で不気味に微笑むルティがそこにいた。
「何が…」
「…また記憶を無くしたんだよね?どうしてかな?記憶を無くさなきゃならないくらい、やましい事でもしたのかな?」
「違う、ちが…」
アルムは頭を横に振りながら後ずさり、ルティから距離を置くが、不気味な笑みを浮かべる彼女に言い知れない恐怖を覚えた。
そして一歩ずつ後ずさっていく度に、何故か彼の視界は白んでいった。
「こ、こは…」
暫くすると、周りの景色全てが真っ白になた。上下左右、全ての区別が出来ない、何も無い世界。
困惑するアルムが辺りを見回したその時、その空間から突然、白くて細いゴムのような腕が複数伸びてきた。それはゆっくり、しかし確実にアルムを目掛けて飛びかかってくる。
「な、何…!」
アルムは怯えた声を出し、剣を抜く。
訳が分からない。多数の腕はどんどん現れて次々と彼を襲う。
「何! 何だよ!」
アルムは絶叫し、体に絡みつこうとする複数の腕を斬りつける。その剣は、白い腕を確実に捉えた。だが、腕は切っても切っても生えてくる。
「人殺し…人殺し…」
かすれた低い声が突然その空間いっぱいに響き渡り、アルムの耳を刺激する。重なった声が気持ち悪い。
「アルムくん…」
囁くような言葉と共に、また不気味な笑みを浮かべたルティが現れた。彼女はクスクスと笑い、その笑い声もまた、響き出す。
「う、うあああああ!」
完全にパニックに陥ったアルムは絶叫し、彼女に向かって走りだす。
「アルム!」
シェリルの声――そう認識する前に、アルムは剣を突き出していた。
「ぐっ…!」
「え…?」
アルムは、目の前に青くなっているシェリルを見た。突きだしていたアルムの剣は、その腹に深々と突き刺さっていた。
「なに、やってんだよ、お前…」
辛そうな荒い息で、シェリルは呟いた。見開かれた瞳を見つめ、アルムはわなわなと唇を震わせる。
「大丈夫、か…?」
何故シェリルが自分の心配をするのか、アルムには分からなかった。何故、自分が彼を刺しているのかも。
「シェリルくん、わたしが応急処置をします。詠唱を唱える間、痛いですが剣を抜いてくれます?」
ルティはシェリルのそばに寄り、小声で詠唱を唱え始めた。シェリルはアルムの手の上に手を重ね、ゆっくりと剣を抜く。
「う…あぁ…」
シェリルは腹から剣を抜き、がっくりと膝を折った。予想以上の痛みに、アルムに刺されようとしたルティを庇わなければ良かったかと、後悔してしまうほどだった。
「…せーの、リフリア」
ルティがそう呟いた瞬間、シェリルの体が薄い青色の光に包まれた。
次の瞬間には出血がおさまり、彼の顔色も僅かに良くなったように見える。
「ありがとうございます」
「いえー。だけど彼は、どうして突然飛びかかって来たんでしょうね?リリーちゃんも…」
二人は顔を見合わし、少し離れた木の下に倒れているリリーを見る。彼女もまた、アルムの少し前にシェリルの首を締めようとしていたのだった。
「あの、俺たちはとりあえずティリエに行きます。俺もあいつらも、ちゃんと医者に診てもらった方が良いですから」
シェリルは額の汗を拭き、アルムを足下にそっと座らせてからリリーの下へ歩いていく。
リリーはシェリルを襲った時にルティに魔法で眠らされていた。再び起き出してまた暴れないよう、強めの魔術をかけられたせいか、シェリルが彼女を起こそうとしても微動だにしない。
「あの、わたしも行きますー?」
「いえ、貴女は一応、遠くからでも爆発の瞬間を見てたんですから、軍かギルドを呼んで、この状況と爆発の瞬間の事を話しておいて下さい」
シェリルは彼女にそう言いながらリリーを背中に抱き、アルムの腕の下から彼の肩を抱いた。
ショック状態にあるらしいアルムは、足元がふらついていて自分一人では歩けないようだった。
「おい、アルムしっかりしろ」
アルムはシェリルに青白い顔を向け、わなわなと口を震わせる。
「シェリル…オレ…ごめん」
「良いから。謝らなくて良いから、まず歩け。…平気か?」
まだ具合の悪そうなアルムを気遣いつつ、シェリルはアルム達とティリエまでよたよたと歩いて行った。