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丘の斜面をゆっくりと下りながら、俺は五感で異世界の空気を味わっていた。
頬を撫でる風は柔らかく、草いきれと甘い花の香りが混じり合って鼻腔をくすぐる。見上げる空の青さは吸い込まれそうで、白い雲はゆったりと形を変えていく。どこからか聞こえる鳥たちの声は、まるで音楽のようだ。
(悪くない……いや、かなり良いな、ここは)
焦る必要も、気を張る必要もない。ただ、この心地よい感覚に身を委ねていればいい。心が静かに満たされていくのを感じた。前世では味わったことのない、穏やかな充足感だった。
丘を下りきると、目の前に小さな川が流れていた。陽光を反射して水面がキラキラと輝き、川底の石がきれいに透けて見える。サラサラという清らかな水音が、辺りの静けさの中に心地よく響いていた。俺は思わず川岸に腰を下ろし、しばらくその流れに見入った。まるで時間が止まったかのように、ゆったりとした時間が過ぎていく。
ふと、川の向こう岸に目をやった。木々の合間に、家々らしきものがいくつか見え、その一つからは細い煙が立ち上っている。人が暮らしている場所だ。
(村かな。どんなところだろう)
特に義務感も警戒心もなく、軽い好奇心が湧いてきた。ちょっと立ち寄ってみるのも悪くないかもしれない。もし肌に合わなければ、また気ままに歩き出せばいいだけだ。
俺は立ち上がり、川を渡りやすそうな場所を探して、川沿いを歩き始めた。足元の草を踏む感触を楽しみながら、焦らず、ゆっくりと。
少し歩くと、川が緩やかにカーブする辺りに、大きな丸い石がいくつか点在していた。そして、その一つに、小さな人影が腰を下ろしているのが目に入った。
子どもが一人、膝を抱えて川面をじっと見つめている。年は十歳くらいだろうか。陽に透けた金色の髪は少し乱れ、服も簡素なものだった。ただ、そこに座っている姿は、風景に溶け込んでいるようで、不思議と目を引いた。
(一人か……)
俺は自然とそちらに足が向いていた。何か理由があったわけではない。ただ、少し気になっただけだ。声をかけることに、何の躊躇もなかった。
俺の足音に気づき、少年はびくりと肩を揺らして振り返った。大きな、少し色素の薄い瞳が、驚いたように俺を捉える。一瞬、警戒の色が走ったが、俺が特に構えるでもなく、気の抜けたような顔で立ち止まったのを見て、その警戒は強い敵意には変わらなかったようだ。
「やあ」
俺は軽く声をかけた。
「いい天気だな」
少年はすぐには答えず、俺の顔をじっと観察するように見つめている。無理に話そうとは思わなかった。俺も、少年の隣に、少し間を空けて腰を下ろし、同じように川の流れに目を向けた。
しばらく、ただ川の流れる音と、風が草を揺らす音だけが聞こえる時間が続いた。気まずさは感じない。むしろ、この静けさが心地よかった。隣にいる少年の、緊張した呼吸が、ほんの少しだけ、深くなっているのが感じられた。
「……向こう、村?」
俺が、川の対岸を顎でしゃくって尋ねると、少年はしばらくしてから、こくりと小さく頷いた。
「……旅の人?」
今度は、少年の方から、か細いながらも問いかけがあった。
「まあ、そんなところだ。ちょっと休めるところを探してる」
「……そう」
短い返事の後、また沈黙が戻る。だが、その沈黙は、もはや拒絶の色を帯びてはいなかった。俺が彼に何も求めていないことが、伝わったのかもしれない。
不意に、ぐぅ、と小さな音がした。見れば、少年が慌てたように自分のお腹のあたりを押さえている。
「……腹、へってるのか?」
俺が尋ねると、少年は顔を赤くして、ばつの悪そうに俯いてしまった。
「俺も、少し小腹が空いてきたな」
俺は、自分の腹をさすりながら、わざとらしく言ってみた。
「村に行けば、何か食い物があるかもしれないな。よかったら、一緒に行ってみるか?」
押しつけにならないよう、あくまで軽い提案のつもりで尋ねる。無理についてこさせるつもりはない。
少年は、俯いたまま、しばらく逡巡していた。泥のついた小さな指先で、地面を引っ掻いている。やがて、意を決したように顔を上げた。その瞳には、まだ不安の色が残っていたけれど、同時に、ほんのわずかな好奇心のような光も見て取れた。
「……うん」
小さな、しかしはっきりとした肯定の返事。
俺は、「よし」と短く応え、ゆっくりと立ち上がった。そして、先に歩き出す。少年が自分のタイミングでついてくるのを待つ。
少年は、少しの間ためらった後、おずおずと立ち上がり、俺の後ろを静かについて歩き始めた。ぴったりとくっつくわけでもなく、かといって離れすぎるわけでもない、絶妙な距離感を保ちながら。
特別な会話はない。けれど、一人で歩いていた時とは違う、不思議な空気感が、二人の間に流れていた。
(まあ、成り行きだな)
俺は心の中で呟いた。
この出会いが何をもたらすかなんて、分からない。でも、それでいい。
この穏やかな空気の中で、ただ、流れるように進んでいく。
それだけで、今は十分な気がした。
異世界の優しい日差しは、俺と、その後ろをついてくる小さな影を、分け隔てなく照らしていた。
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