第4話「奴隷の刻印」
「アウル領は消滅しておる」
キールの言葉に、俺、ハヤト=トーゴは息を呑んだ。領都ブラックベリーは千人規模の城壁都市だったはず。それがなぜ。
セリスが俺の袖をぎゅっと掴み、キールが険しい表情で続ける。
「わらわは辺境伯と聞いて名誉職だと思っておった。近年、アウルを訪れる者すら稀じゃ。だが最近、ブラックベリーに立ち寄った商人がおる。引き合わせるゆえ、少し気を落ち着けてくれ」
キールが手を叩くと、襖が静かに開き、犬耳の女性が現れた。艶やかな黒髪がロングドレスに映え、金色の瞳が俺を値踏みするように瞬く。
「初めまして、ハヤト=トーゴ辺境伯様。キール様の下で南部の交易路を預かるドランブイと申します。アウル領の現状をお伝えに参りました」
その声は穏やかで謙虚だ。俺たちはインスぺリアル特産の黒蜜茶をすすりながら、ドランブイの話に耳を傾けた。
「恐れながらアウル領は今、砂漠と湖しかありません。領都ブラックベリーは無人でございます」
「無人……一体どういうことだ」
「はい。ブラックベリーは数年前まで千人以上が暮らす城壁都市でございました。市場が賑わい、大陸の南北を結ぶ海上交通の要でもありました。ですが、奇病が広がりまして……手足が痺れ、やがて動けなくなる風土病でございます。最後に訪れた時は、街は静まり返り、朽ちた扉を風が叩くばかりでした」
驚くべき現状に俺は眉を寄せた。
「王都ではそんな話は聞かなかった。情報が隠されてるのか?」
「ハヤト様、きな臭いっすよ! 王都の話と違いすぎるっす!」
「お兄様、モルトの言う通りです。何か裏がある気がします」
モルトが尻尾を逆立て、セリスが剣の柄を握る。そんな俺たちを見て、ドランブイは静かに頷いた。
「恐縮ながら情報操作の可能性が高いかと存じます。辺境伯様、どうかお気を付けくださいませ」
「じゃあ、アウル砂漠はどうなんだ? 砂漠を越えれば王都まで近いのだが」
「過酷でございます。昼は灼熱で息が詰まり、夜は凍てつくほどにございます。砂嵐が地形を変え、猛毒の赤サソリや巨大な青サソリが徘徊しております。渡るのは不可能かと……」
その時、窓の外で何かが動く音がした。
「お兄様、気配が――」
「分かってる。皆、下がれ」
窓がガタガタと揺れ、突如として何匹もの甲殻類が飛び込んできた。赤サソリだ。毒針を振り上げ、鋭い爪が俺たちに向かう。
「チェストー!」
次元流『二の型』で横に薙いだ。甲殻が砕ける音とともに一撃で5匹のサソリが壁に叩きつけられた。
「すまぬ。最近は風に乗って飛んでくることも増えてきたのじゃ。しかし……これだけの数を一撃で撃ち落とすとは。 ハヤト殿の技は本物じゃな」
キールが唸るように感嘆の声を上げる中、俺は静かに刀を収めた。
「ドランブイ、話の続きだ。ブラックベリーから王都へは、他に道はないのか?」
「大森林のルートしかございませんが、ドラゴンが棲む森を抜けるのは砂漠より困難かと存じます」
ドランブイが冷静に答える中、俺は幼い頃の記憶を辿った。カルア海――広大な塩湖だ。祖父に連れられ見た陽光に輝く湖面を思い出した。
「カルア海の様子も教えてくれないか」
「はっ。カルア海は今も大陸南部の水運の大動脈です。ですが、湖畔の集落でも奇病の噂が絶えませぬ。王国は見て見ぬふりをしておるようでございます」
「わかった。準備ができ次第、ブラックベリーへ向かおう。ドランブイも同行して欲しい。それから俺のことはハヤトと呼んでくれていい」
「私のような卑しき者に、そのようなお言葉、恐れ多いことでございます」
「犬人族だからか?」
「それもございますが……実は、私はさる貴族の奴隷でございました」
ドランブイが立ち上がり、俺の前に進み出た。真剣な眼差しで俺を見つめ、体が小刻みに震えている。
「ドランブイ、何を――」
「ハヤト様、ご覧ください。これが証拠でございます」
ドランブイは顔を赤く染めつつ、決意を秘めた目で俺を見据えると、震える手でスリットの入ったロングドレスをたくし上げていった。
白磁のような太腿が少しずつ露になり、やがてふっくらした下半身を覆う小さな黒いレースの下着があらわれたのだが―――その内腿には赤黒い焼印が刻まれていた。帝国の双頭の鷲――奴隷の刻印だ。その瞬間、俺の視界はセリスの手で覆われた。
「幼い頃、大貴族の鎖に繋がれておりました。この刻印は自由を得た今も消えません。私は商人として人を見る目に少しは自信がございます。ハヤト様には、まるで砂漠に金脈を見出されるようなお力が感じられます。お仕えすることをお許しください」
「俺にそんな力はないぞ」
「ご謙遜を。ハヤト様なら必ずアウルの復興を成し遂げられると思います」
「ドランブイ、まずはスカートを下ろせ。それからだ」
「お見苦しいものをお見せしまして申し訳ありません。アウルへ向かう準備を急ぎましょう」
ようやくセリスの手から解放された俺の目の前で、ドランブイが片膝をつき、臣下の礼を取っていた。