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第28話.存在しない毒

 ジェイドは立ち話も何だからとヘンリーを商談室へ案内しようとしたが、彼は軽く片手を上げると、「急ぎの用がある」とやんわりと拒んだ。


 店の入口のベルが、カランコロンと店内に静かな余韻を残しながら微かに揺れる。


 ジェイドは短く息を吐き、慎重に周囲を見回すと、店の入り口の看板を「一時不在」に掛け替え、鍵を静かに回した。その間にも、ハリエットの耳には外の車道でブレーキを踏む音や、微かなエンジン音が聞こえている。


 店の外には黒塗りの車が一台、無機質な影を落として静止していた。店と車の前には二人の護衛、ヘンリーの背後にはさらに一人、そして店内の入り口付近にもう一人――計四人もの護衛が配置されている。その張り詰めた空気に、さしものハリエットも思わず息を飲んだ。普段のこの店には似つかわしくない、まるで官邸か要人の宿泊先のような物々しさに、足元の空気すら重く感じるほどだった。


 ハリエットは、緊張を滲ませたままヘンリーを見上げた。彼の顔色は普段よりいくぶん青ざめていて、薄く開いた唇には疲れの色が濃い。瞳の奥には、いつもの余裕や軽妙な笑みは見当たらない。ハリエットは、唾を飲み込む。


「ヘンリー、あの……兄さんから聞いたのだけど。ティアーズに、爆破予告が出て、オークションが中止になったって……本当なの?」


 ハリエットの脳裏には、先日の煌びやかなティアーズの記憶が蘇る。豪奢なホールに、ドレスアップした紳士淑女たち、眩いばかりのシャンデリアの光、厳重な警備。そして、目を見張るような美術品や宝飾品の数々。


 その空間が、爆破の脅威に晒されることを想像すると、ぞくりとしたものが背筋を這い上がった。


「ジェイド」


 ヘンリーの声が、低く、咎めるように響く。

 ハリエットは目を丸くした。


 まさか兄は、この情報を伏せておくようにと、ヘンリーから言い含められていたのではないだろうか?


「中止の理由に関しては口外するなと、あれほど……」


 ヘンリーが渋い顔をする。


 ジェイドの方はというと、あっけらかんと口笛を吹いて誤魔化していた。いつものことながら、口が軽い奴目、と毒づきながらヘンリーが苦々しい視線を兄に送っている。


「ヘンリー。ティアーズに爆破予告って、本当にあったの?」


 そう問い詰めながらも、ハリエットの胸中では疑問が膨れ上がっていた。


 何せ三日も眠っていたのだ。その間に、自分が関わるはずだったある種大きなイベントがぽしゃになってしまった理由を、聞いておきたかったというのもある。


「そんな顔をしなくても、大丈夫だよ、ハリエット。個人を狙ったものではなく、あくまでオークションの中止が目的だったみたいだからね」


 不安そうな顔でもしていたのだろうか。


 ヘンリーは柔らかい口調でそう言ったが、その後困ったように伏せた瞳には沈痛な色がうかがえる。どんなに冷静を装っても、彼の内心は穏やかではないことが分かった。


 ハリエットはこてりと小首を傾げたまま、さてどうしたものかと思案する。オークションが中止になったのは良いが、事態はあまり芳しくない様子である。


「おいおい、ヘンリー。俺には口止めしておいて、自分から喋るってのはどういうことだ?」


 ジェイドが肩をすくめて皮肉げに笑う。


「君は話を必要以上に大げさにするだろう、ジェイド」


 ヘンリーの目が見る間に細まり、様々なこれまでの意味を含めて鋭くジェイドを睨みつけるのだが、彼は一向に悪びれる様子もなく、机上のペンをくるくると回し始めた。


 まったく、兄はいつもこうだ、とハリエットは半ば呆れたように嘆息した。


「ヘンリー。ちょっと聞きたいんだけど、オークションには犯人からの予告? 的なものがあったということなのよね」


「そう。……ティアーズに爆破予告があった。それも、『オークションを中止しろ』という内容だったんだ」 


 ハリエットの質問を受けヘンリーの声が、わずかに硬さを帯びる。問いの中に、ハリエットと同じ異質さを感じ取ったかのように顔を上げ、静かに頷きながら答える。


「それだけ? 金銭や物品の要求はなかったのよね?」

「そう」


 短く答えたヘンリーの表情には苛立ちと不安が入り混じっている。


 ジェイドは組んでいた腕をほどき、椅子に深くもたれかかった。黄金色の瞳が鋭く細められ、何かを思案している様子だった。


「爆発物は実際に見つかってないんだよな?」


 ヘンリーの喉がわずかに動く。

「会場のどこを探しても、何もなかった」

「それってつまり、爆破予告が出されたけれど、実際に爆発する可能性はなかったってこと?」


 部屋の空気が冷えていくような錯覚を覚えた。静寂の中、店内の壁時計の針の音だけがカチコチとやけに響いている。


「ティアーズのセキュリティを考えると、爆発物を持ち込むのは不可能に近いわよね?」


 ハリエットは視線をヘンリーに向けた。アルフレッドと先日ティアーズに赴いた時のセキュリティを思い出す。入り口には入場セキュリティ管理をする警備がいて、入館パスの他に厳重な持ち物チェックが為されていた。ボディチェックはもちろん、小さな鞄の中身に至るまで実に入念に。


「ティアーズは非公開の会員制のオークションハウス。そもそも強力なコネクションがなければ、どんな資産家でも容易に入れない。警備は厳重で、業者の出入りも完全に管理されている。そんな場所に、誰にも気づかれないでどうやって爆弾を仕掛ければいいのかしら?」


 ジェイドは渋い顔をしながらテーブルの端を軽く叩いた。ざらりとした違和感が、どうにも気にかかるというような表情でゆっくりと視線をハリエットからヘンリーに向ける。


「つまり、最初から爆破するつもりなんかなかったんじゃないのか?」


 ハリエットは唇を引き結びながら、兄の言葉を咀嚼した。 ティアーズに爆破予告が届いたことで警察の警備は強化され、厳しいチェックが行われた。にもかかわらず、結局、何も仕掛けられていなかったというのだ。


 ジェイドが身を乗り出し、低く笑った。


「つまり、爆破予告そのものが狂言ってことか。中止に追い込むためだけのな」


 ヘンリーは深いため息をついた。


「その可能性は高い。だが、不可解な点がある」

「不可解?」

「そうだ。爆破予告によって警察の警備は通常よりもはるかに厳しくなった。建物内部は徹底的にチェックされ、来場者の持ち物検査も行われた。それだけ警戒されていたのに――なぜ指環だけが盗まれた?」


 室内の空気が一段と冷え込む。


「指環だけ……」


 ハリエットは自分の右手に視線を落としながら考え込む。白い手袋にしわが入り、天井からの灯りを受けて陰影を刻んでいる。


 数々の高価な美術品がある中で、犯人が選んだのはとても小さな「指環」ただ一つ。けれど、当日の出品目録によれば、その他にネックレスや腕輪、耳飾りなども出品される予定だったことを知っている。


 数ある中で、何故犯人は「指環だけ」を盗んだのだろう?


 それに結局爆発物も出ていないとなれば、先ほど素人考えでハリエットが考えたように「狂言」だった線で通常は警備が縮小されるはずではないだろうか。


 だが、ヘンリーの周囲の護衛の数は、異常と言っていいほど多い。


 視線を上げれば、店内の入口から外の方向を警戒するように立つスーツ姿の男性が目に入る。ヘンリーの背後にも一人の男が控えており、油断なく周囲に気を配っているのがわかる。


 ティアーズに今のところ人的損害は出ていないはずだった。


 ――何かが、おかしい。


 ハリエットは背筋に冷たいものを感じながら、沈黙のままヘンリーの表情を探った。


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