第26話.水面下の波紋
残響が頭の奥で何度も反響し、意識の底を揺さぶる。
「――っ!」
息苦しさと共にハリエットは目を覚ました。
胸の上にずしりとのしかかる温もり。もふっとした柔らかい感触が肌に伝わる。瞬きをして視界を定めると、そこにあったのはふわふわとした生姜色の毛並みだった。
「にゃぁ」
エイトが目の前で緑柱石のように透き通る瞳を細め、大きく欠伸をする。ゆったりとした仕草で前足を伸ばし、のそのそと動き出した。
「エイト……。あんたね」
ハリエットは溜息まじりに呟いたが、エイトはそんなことはどうでもいいと言わんばかりに、すっとベッドから飛び降りる。そのまま音もなく、少し開いたままの部屋の扉をくぐり、廊下へと消えていった。
部屋の灯りは消えているのに、ぼんやりとした明るさが辺りを照らしている。カーテンの隙間から漏れ込む光が、絨毯の上に淡い模様を落としていた。朝の静けさはとうに過ぎ去り、遠くで鳥のさえずりが響いている。
「しまった……」
日がかなり昇っていることに気づき、ハリエットははっとして上半身を勢いよく起こした。同時にずん、と鈍い痛みが頭の奥を突き抜ける。眉を寄せ、こめかみを押さえる。二日酔いのような、じんわりと絡みつく気だるさが残っていた。
白い掛け布を足元へ払いのけ、ベッドから降り立つ。ふわりと冷えた空気が肌を撫で、鳥肌が立つのを感じた。大きく背伸びをして、硬くなった肩をほぐす。
カーテンの向こうでは、昼前の陽光がゆらめいている。レース越しに滲む淡い金色の光は、静かに揺れながら部屋全体を優しく包み込んでいた。
********
店舗に通じる茶色い木の扉は、しっかりとした造りで、その質量を指先にじんわりと感じさせるほどの重厚さだった。ハリエットは白い手袋をはめた手で慎重にそれを手前に引いた。
丁度カランコロン、と乾いた音が静かな店内に響く。誰かが店に入って来たか、出て言ったことが音でわかる。
店の入り口のわずかに開いた隙間から、外の冷えた空気が頬を撫で、ほんのりと排気ガスと土煙の香りを含んだ冬の匂いを運んでくる。ショーウィンドーの前を、冬のコートを羽織った男女が談笑しながら通り過ぎていくのが視界の端に映った。ガラスに反射した光が彼らの顔をやわらかく照らし、幸福そうな雰囲気が伝わってくる。
「兄さん」
扉を背後で閉めながら声をかけると、カウンターの向こうにいたジェイドが顔を上げた。彼は片手にペンを持ち、書類の束を前にしていた。何かを書き込んでいたらしく、インクのにじんだ伝票が机上に広がっている。
「お。ハリエット。起きたのか」
ニカッと、快活な笑顔を見せる。人好きのするその表情に、ハリエットはどこかほっと息をついた。
「ごめんなさい。寝すぎちゃったみたい」
申し訳なさそうに言うと、ジェイドは言葉を返す代わりに、ン、と無言で書類の束をこちらに押し付けてきた。それ以上謝るなら仕事をさせるぞ、という無言の圧力を感じ取り、ハリエットは苦笑しながらそれを受け取る。
「へぇ、家具が売れたの?」
束ねられた書類をめくると、見慣れた品名がずらりと並んでいた。インクの擦れた筆記体で「リベット社製1808年頃」などと記された欄を追いながら、ハリエットは視線を走らせる。鏡台、ローテーブル、それからマホガニー製のキャビネット。どれも手入れをすればするほど美しく映える、上質な品々だ。
「一式、なかなかの買い物だけど」
合計八点もの購入。仕入れ値と販売額をざっと計算し、配送手数料や事務手数料を加味すると、それなりに良い売り上げになっていることがわかる。
「新居を建てるらしい。そこにアンティーク家具を置きたいんだと」
「へぇ、新しいのじゃなくて?」
「お前なぁ、それでも骨董品屋の店員か」
呆れたように軽く額を小突かれ、ハリエットは苦笑する。そうして普段と変わらないやり取りができることが、妙に安心をもたらした。
「売れた家具、午後には倉庫に回さないといけないから、助手でケルビンが来る」
ジェイドが黒塗りの電話機を視線で示しながら言った。男手の少ないマルグレーン骨董店では、大型家具の配送時に近所の業者と手を組むのが常だった。ケルビンもまた、度々手伝いに来てくれる頼れる人材だ。
売り上げの良い目覚めは、気分がいいものだ。ハリエットは書類をもう一度見直し、最後の購入品目に目を止めた。その欄には「装飾品」と書かれている。
――しまった。
重要事項を思い出し、ハリエットは目を見開いた。




