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第23話.南洋の海


 突然、何を言い出すのだろう、と思わないでもなかったが、久しぶりの会話に嬉しくなかったと言ったら嘘になる。同じ学校に通ってはいたが、以前は近所に住んでいたミレーヌはあの出来事からほどなくしてどこかへ引っ越してしまっていた。


 久々に会ったミレーユは幼い頃の面影を残しながら、とても美しい少女に成長していた。以前から目鼻立ちが整っているとは思っていたが、年頃になるとメイクや服装だけでは説明できないほどの色香が漂う女性に成長していた。


 だから、パッとしない地味な外見であることを自負していたハリエットは、街中で呼び止められた時、一瞬彼女が誰かわからなかった。


 そのミレーユが、人目を潜むようにひっそりと、だがはっきりとした声で切り出した。


「エドワルトに、私のこと、どう思ってるか聞いてほしいの」


 エドワルトはハリエットの幼馴染であり、ミレーユが昔から淡い恋心を抱く相手でもあった。三人で遊ぶこともしばしばあり、ミレーユがエドワルトのことを好ましく思っているのはハリエットも知っていたことだったから、別段驚きはしなかった。


 ミレーユの真剣な様子に押され、ハリエットは直接尋ねればよいのでは、と一度は断ったのだが、結局拝み倒される格好で渋々引き受けた。


 隣の家の花屋の息子であるエドワルトに尋ねると、彼はあっさり彼女のことを「友達の一人」と答えた。その後は煙たく追い払われてしまったので、ハリエットはミレーユが望む答えではないことを知りながら、後日、彼女に伝えた。


 がっかりした風ではあったが、それ以上何もできない、とそんなことも忘れて何事もなく日々を過ごしていた。


 そんな折のことだ。エドワルトに遭遇した。


 住まいは近所だったが、彼とは学校が異なっていたこともあり、久しぶりに挨拶をしようと話しかけた時だった。


 彼は花の手入れをしていて、こちらに背を向けていた。驚かせようと、背後から忍び寄り肩口をぽん、と叩いた。当然ながら吃驚して、振り返ったエドワルトは、それがハリエットだと気づいていつものように、挨拶を返さなかった――。


 腕ごと手が振り払われて、たたらを踏んだハリエットを恐ろしいものでも見るように凝視し、瞳に嫌悪を滲ませて吐き捨てるように言ったのだ。


「触るな」


 冗談にしてはあまりの剣幕で、一瞬何を言われたのかがわからず、ハリエットが聞き返した時だった。良すぎるタイミングで、店の奥からミレーユが花束を持って現れた。彼女はしなだれるようにエドワルトにもたれかかり、ハリエットに視線を注ぎながら何か耳打ちをしている。


 エドワルトはハリエットを鋭く睨みつけながら、こう続けた。


 化け物、と――。


 ミレーユがハリエットの秘密の能力をエドワルトに語ったのだと気づいたのは、そのすぐ後のことだ。気づけば学校中の噂になっていて、周りは真実を確かめるようにハリエットにありとあらゆる好奇心を向けてきた。


 ただ興味本位から真実なのかどうか問われるだけならまだいい。


 質が悪いのは試そうとする人々だった。


 ハリエットの「能力の真偽」は、暇を持て余している同じ年頃の少年少女たちにとっては、格好の暇つぶしだった。


 ハリエットが否定する度に話は収拾がつかなくなるほど広がりを見せ、様々な手段の嫌がらせや挑戦を以てハリエットを苦しめた。年の離れた兄のジェイドは既に学校を卒業していたため、介入できないことも大きかった。


 特に「手袋」があるとハリエットが能力を使えないということが何故か知れ渡り、手袋を奪われたり、盗まれたり、隠されたりということもたびたび起こった。


 仕事で忙しい両親には打ち明けられず、これ以上心配をかけてはいけないと抱え込んでいたが、ある日、こらえきれなくなって爆発してしまった。


 それは、噂の出処が「ミレーユ」だと突き止めた時のことだった。そもそも、ハリエットの秘密の能力の話は、彼女にしかしていない。


 どういう経緯か知らないが、エドワルトがミレーユから聞かされたのだとしても、彼が自分から周りに吹聴するとは思えなかった。


 耐えきれなくなってハリエットはとうとうミレーユに詰め寄った。


「あら? もう少し早く気づくかと思ったんだけど。あなた、意外とお馬鹿さんね」


 取り巻きの女子たちが彼女の背後でくすくすと笑っていた。


「どうしてこんなことをしたの?」


 秘密だと約束したのに、と小さく付け加えると、ミレーユは何でもないことのようにこう言った。


「だって、気持ち悪いんだもの、あなた。人の心を知ってそんなに楽しい? 特別だとでも思ってる? 自分がすごい人間だと勘違いしてるの? 触るだけで誰かの心を盗み見るなんて、気持ち悪い以外のなにものでもないわ」


「そんなこと。特別だなんて」


 一度も思ったことがない、とそう続けようとするハリエットを遮って、ミレーユは間合いを詰め、ハリエットの胸を指で押しながらこう言った


「あなたは化け物よ」


 プツン、と何かが体の中で弾け飛んだ。


 気が付けばハリエットは手袋のまま、ミレーユに掴みかかり、そのまま彼女の感情に飲まれた。


 視えたのは、彼女がハリエットに抱いていた感情だけでなく、彼女の苦しみや葛藤や、エドワルトへの淡い恋心が砕け散った時の胸の痛み。ハリエットに抱いた恐怖と羨望と嫉妬。


 頭の中に直接手を触れて掻きまわすような不快感が押し寄せる中、一番強く押し寄せたのは、ミレーユがハリエットに向けて少しずつ育ててしまっていたどす黒い感情そのもの。


 渦巻いて、翻弄し、苛烈さを伴って棘のように彼女自身を蝕んでいた。


 劇薬のような灼け付く感情の渦に耐え切れないと、抵抗するのを諦めた時、ハリエットは目を覚ました。見慣れた自室の天井を背に、母が安堵したように涙していたのが記憶から蘇る。









******








 ――目を開ける。


 開けるのが億劫なほど重い瞼を押し上げるようにすれば、少しずつ光が目に入る。


 磨りガラスのようなぼんやりとした視界の中で、誰かがこちらを覗き込んでいた。


「……おかあ、さん?」


 誰かの手が自分の手をしっかりと包み込んでいる。


 兄の手とは違う、見知らぬ手。


 大きくて、指で緩く握り返すと骨ばった感触がする。


 一回りも自分より大きな手に、ハリエットは首を傾げ、小さく息を吐く。


 自分よりもひんやりとした体温が今は少し心地よい。


 固く握られた手の先で、誰かが息を詰めたような気配がした。


「ハリエット!」


 すこし離れた位置から、何かが落ちて割れたような音がする。


 兄の声が遠くで聞こえ、母を呼んでいる声が聞こえる。焦りを帯びた声と足音が遠くなるのを聞きながら、ハリエットは顔を少しだけ動かす。


「ジェイド……兄さん?」


 誰が自分の手を握っているのだろう。


 父ではない。既に故人だから。


 では、少しだけ震えるように自分の手を握りしめているのは一体誰だろう。


 ゆるやかにもう少し、瞼を押し上げながら、ハリエットはそれを見た。


「――ハリエット」


 誰かが、泣きそうな顔をしてこちらを見下ろしていた。


 南洋の海(パライバブルー)の瞳が複雑な光を湛え、ハリエットをまっすぐに見つめていた。






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