第21話.鏡の如く
「え?」
ミレーユの表情に、一瞬驚きが走った。その驚きは、目元の微かな動きと、頬に浮かんだほんのりとした赤みに現れていた。しかし、その変化はすぐに彼女の得意な笑顔に塗り替えられる。ただ、その笑顔の奥には、どこか張り詰めたものがあった。肩の動きが固く、無意識に背筋を伸ばした仕草からも、内心の動揺が滲んでいる。
「こんな天気のいい日に、こんな美人が、小さな骨董店にいるのも妙だと思ってね。何か特別な用があったのかと思っただけだよ」
アルフレッドは手元の懐中時計に視線を落とし、チェーンをゆっくりと取り外しながら、爽やかな笑みを浮かべる。その笑みは一見、人懐っこく温かい。しかし、どこか威圧感を含んでいるように感じられるのは、決してハリエットだけではなかった。
「ふふっ、そうね」
ミレーユの声は明るいが、微かに震えを帯びていた。彼女はわずかに視線を逸らし、手に持ったバッグのストラップを握り直す。
「ただの立ち寄っただけよ。素敵な骨董品が多いお店だもの。それに、ジェイドとも少しお話したかったし。ハリエットは出かけてるって聞いたから、こうして会えるなんてとても嬉しかったわ」
言葉を並べながらも、どこか切羽詰まった様子がある。ミレーユはアルフレッドの表情を盗み見るように観察し、続けて付け加える。
「……でも、邪魔ならそう言ってちょうだい。帰るから」
「そんな、邪魔だなん――」
ハリエットはその言葉に返答をしようと口を開きかけたが、その瞬間、目の前でアルフレッドがさっと動いた。
「っ!」
驚きの声を漏らす間もなく、ハリエットはアルフレッドの体に引き寄せられた。ガタン、と先ほどまで座っていた椅子が倒れる音が鋭く響き、咄嗟にバランスを崩したハリエットは、反射的にアルフレッドのジャケットを縋りつくように掴む。
「え、なに……?」
ハリエットの頭には困惑が渦巻く。左頬に感じる温かな体温、布地越しの弾力、そして背中にそっと回される手の感触――。これらすべてが彼女の思考を曇らせる。
アルフレッドは自然な動作でハリエットの右腕を支え、いたずらっぽい笑みを浮かべた。その表情には余裕があり、彼女の戸惑いすら掌握しているかのようだった。
「邪魔だなんて、そんなことはない。ただ、僕たちはこれから少し忙しくなる予定でね」
「まぁ、そうなの?」
ミレーユは明るい声を装いながらも、明らかに顔を引きつらせた。
「そういうことなんだ。だから、今日は帰ってくれるとありがたいな。この後、二人で色々用事があるからね」
アルフレッドの声は穏やかで柔らかい。それでも、その言葉には明確な線引きがあり、ミレーユに退去を促しているのは明らかだった。
「ハリエットも今日は疲れただろう?」
耳元で囁くアルフレッドの声は低く甘い。乱れたハリエットの前髪を慈しむようにそっと指先で分けながら、頬に当てた手を使って顔を上げさせ、視線を合わせてくる。彼の手が肩口にふれ、関節の丸みを楽しむように親指で俄かに撫でられて、びくり、と体を跳ねさせてしまう。
「そう……」
ミレーユは不快そうな表情を必死に押し隠しながら、アルフレッドの懐中時計に視線を落とした。何かを考えるように目を細め、次に、ハリエットの指先に視線を移す。その動きには明確な意図があるようだった。
そして突然、椅子から立ち上がり、鞄を片手にして張りのある声を放つ。
「邪魔しちゃ悪いから、帰るわ。――ところで、今何時か教えてもらってもいいかしら?」
その言葉とともに、彼女の指がアルフレッドの懐中時計を指し示した。
「それ、とても素敵な懐中時計ね。ハリエットからのプレゼント?」
一瞬、アルフレッドの動きが止まる。その微かな変化を、ハリエットは見逃さなかった。
ハリエットは、ミレーユの言葉に引き寄せられるように、アルフレッドが右手で転がしている懐中時計に目を向けた。金色のそれは、表面に透かし彫りのような精緻な模様が施されている。光を受けて繊細に煌めく模様の隙間から、文字盤がちらりと覗いているのが見えた。
(そういえば、あの時も……)
ふと、記憶が蘇る。ティアーズの展示会場で、彼は指輪を見つめながら、無意識にこの懐中時計を手のひらで触れていた。リビングでポーカーをしていた時や、店を訪れた時も――。思い返せば、その動作は彼にとって特別な意味を持つようだった。何か思い入れの強い、大切な物なのだろう。
その時、突如としてミレーユが動いた。彼女の指がさっと伸び、まるで獲物を捕らえる猛禽のように、アルフレッドの手の中から懐中時計を奪い去った。
「な……」
思わず息を呑む。目の前で起きたことが信じられなかった。
アルフレッドもまた、予想外の出来事に対応する間もなく、ハリエットの体から距離を取る。彼はゆっくりと立ち上がり、片手を差し出しながら、ミレーユを鋭く睨みつけた。普段の穏やかな雰囲気は影を潜め、冷徹さと怒気が滲む表情に変わっていた。
ミレーユの手の中にある懐中時計のチェーンが指の間から滑り落ち、蛇のようにゆるやかな曲線を描いて揺れている。その姿はどこか禍々しくさえ見えた。
「返してくれ」
アルフレッドの声は低く抑えられているが、その言葉は部屋の空気を重たくするほどの威圧感を放っていた。怒りと冷静さが同居する、唸るような声。
彼は右手を差し出し、もう一度ゆっくりと繰り返した。
「それは大切な物でね。今すぐ、返してくれ」
その瞳には感情が宿っていない。まっすぐ、迷いなくミレーユを見つめている。その視線に押されるように、ハリエットは息を呑む。
しかし、ミレーユは怯むどころか、挑発的な態度を崩さなかった。彼女の顔には血が上り、紅潮した頬と唇が怒りを示している。
「こんなものが、なによ!」
言葉と共に、ミレーユは手に持つ懐中時計を高々と頭上に掲げた。
「やめて!」
反射的にハリエットの声が響いた。だが、その叫びはミレーユの動きを止めるには至らなかった。
彼女の腕が振り下ろされる――その瞬間、ハリエットは自らの体を前に投げ出すようにして動いた。ミレーユの右腕を掴み込む。
一拍早く反応したのはミレーユだった。彼女は憎悪に染まった瞳でハリエットを睨みつけ、空いている左手を使って、素早くハリエットの右手から黒い手袋を剥ぎ取った。
「あっ!」
ハリエットは驚きとともに声を漏らした。
「見せてよ、ハリエット。――あなたの《《特別な力を》》」
ミレーユの声は、昏く、冷たく響いた。その囁きは、ハリエットの心に冷たい刃を突き立てるようだった。
次の瞬間、ミレーユは掲げていた右手を開き、懐中時計をわざとチェーンごと落とした。
「ダメ!」
ハリエットは必死に右手を伸ばし、落下する懐中時計を掴み取った――その瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
――棺の中に横たわる、顔のない誰かの遺体。
――白い百合が敷き詰められた死地へと向かうゆりかごの中で、金の髪の女性が胸の上で両手を重ねている。
――跪き、その冷たく固い左手に指輪を通そうとする。
しかし。
サイズが合わない――。
その映像は、ハリエットの頭を突き抜けるように流れ込んだ。
「ハリエット!」
遠くでアルフレッドの声が聞こえる。しかし、その声は次第に霞み、消えていく。
最後に見えたのは、鈍く淡く輝くオパールの光。
万華鏡のように色とりどりに輝いて、心を映し出す。
――鏡のような、灯。
その光が滲み、やがてすべてが暗闇に沈んでいく中、ハリエットはその場に崩れ落ちた。




