街角の魚
宵闇が深く静まり、早く寝ないとおばけが出るわよ、とそろそろ諭される時間帯。遊び厭きた大人と、遊び足りない大人だけが街に蔓延り、酒に酔った人も、酔っていない人も、横目で人の注目を確認して、素面じゃないフリをしている。
喧騒と歪んだ生活の雑音が没落していく人の賛美歌として台頭し、路肩に投げ捨てられたサンダルは誰も視界に入っていないようである。つまりは雰囲気が重要なのだ。麻酔を飲んだという感覚で、感受性が街の景色と共に蕩けていく。痺れた指先で翡翠色の猫を撫で、緩やかな歳月をなぞる。
少しでも流れる時間がゆっくりであってほしい、と神様に願い、願いを聞き届けられなかった大人たちがこの時間に起きて、正常なフリをして、横目で、雑音を聞いている。
いつか来た街への来訪者は居心地の良さに停滞し、とくとく刻む拍動と共にネオンを見て、ついに麻酔に痺れ、街の住人となる。
「ねえ、お姉さん、ムーンフィッシュって知ってる?」
信号待ちをしている黒髪の女性に、一人の男が話しかけた。この男も他の街からの来訪者であったが、半年前にこの街の住人となった。
「ごめんなさい。今そんな気分じゃないの、ナンパなら他をあたってちょうだい」
話しかけられた女性は、その前に話しかけていた五十人と同じように、男の前から速足で去っていった。男は残念そうに肩を落とし、長いため息をついて、とぼとぼ交差点を渡っていった。
かれこれ三時間もの間、男は交差点を行ったり来たりしている。目の前を横切る女性に手あたり次第声をかけ、それが二人組であっても、還暦を疾うに越したであろうお婆ちゃんでも、モデルのようなスタイルの良い若い女でも、だれかれ構わず声をかけては邪険にあしらわれていた。
男の容姿はそれなりに良かった。背丈は平均よりも高く、胸板のがっしりとした体は薄い顔のパーツを引き立ていて、とても好青年に見える。遊びに飢えた五十一人に連続して振られるほど不細工ではなかった。
彼がいけなかったのは容姿ではなく、話しかける最初の一言だった。彼は女性に話しかける一言目に「ムーンフィッシュって知ってる?」と決まって訊くのだった。いくら酔っぱらった人間だけが蔓延る街であったとしても、聞いたことのない、月なのか魚なのかすらわからない「ムーンフィッシュ」という生物を知っているのかと訊く青年は正常ではない、危険な人間だと思われたのだ。
実際、彼に話しかけられた大半の女性は薬をやっている奴だと思っていたし、そうでない人は気違いな奴だと思っていた。
そんな中、もう何度目かもわからない信号待ちをしていた男に、一人の女性が話しかけた。
「こんばんは。皆知らないみたいだけれど、私は知っているわよ。大きな翼を持ったあの魚のことを」
女は男の目をしっかり見てこう言った。
「まさか、本当にあの魚のことを知っているというのかい?」
女はじっと男の目を見たまま、
「もちろんよ。だって私、実際に見たことがあるんですもん。大きな大きな翼を持ったムーンフィッシュをね」
女は自信ありげに笑っていたが、男はその話をあまり信用していないようだった。なぜなら、彼自身もムーンフィッシュの存在をまだ信じ切れていないのだ。
「本当かい。それは是非話を聞かせてもらいたい。どこかそこらの店でお茶でもしないかい?」
男がこう言うと、女はくすくす笑って、
「こんな時間にお茶なんてするわけないじゃない。ほら、ついてきて」
と、男の腕を取りそそくさと歩いて行った。案内されたのは女が泊っているというビジネスホテルだった。
知らない男を自分のホテルに連れ込むという、あまりの無防備さに美人局なんかを疑ったりもしたが、その心配は杞憂だった。彼女はホテルの部屋に入るなりムーンフィッシュについて語りだした。
「あなたはムーンフィッシュを実際に見たことがあるの? あの潜水艦みたいに大きな体が月と同じ色で輝いているのよ。本当に素敵だったわ」
女は羽織っていたカーディガンを椅子に掛けると、冷蔵庫に入っていたワインを開けた。あなたも飲むでしょう、と二つのグラスに白ワインが注がれた。
「いいや、僕は見たことがないんだ。昨日、たまたま居酒屋で隣に座っていたおじいちゃんに教えてもらっただけなんだけど、もう気になっちゃって。それで交差点の前でずっと聞き込みをしていたんだ」
女はグラスの一つを男に差し出した。熟成したブドウの匂いが部屋中に立ち込める。
「あら、ただのナンパの口実なんだと思っていたわ。だって女の人にしか声をかけていなかったじゃない」
女は鞄からコットンと化粧水を取り出して、化粧を落としながら言った。
「いやね、おじいちゃんが言うには、男の人はムーンフィッシュを見ることが出来ないらしいんだ。だから女の人にしか聞いていなかったんだけど、もしかして間違ってたかな」
女は驚いたように化粧を落とす手をぴたりと止め、今度はグラスをくるくる回し始めた。
「ええ、そうだったわね。あの魚は雄しかいないんだったわ。だから、同じ男の人には姿を見せないのよ、まったくおませな魚だわ」
女はくるくるグラスを回すのをやめて一息に飲み干した。それを見た男も一気にグラスを開けた。おかわりもどーぞ、と二つのグラスにまたワインを注いだ。
「でも、ムーンフィッシュが雄しかいないなんて初めて知ったよ、あのおじいちゃん肝心なところを教えてくれてないんだな」
男が不貞腐れたように言うと、女は小馬鹿にしたように笑った。
「きっと酔っぱらっていたのよ、この街の住人なんてそんなものだわ。本当のことはいつもお酒と一緒に飲み込むの、本当のことを知りたいならこの街で聞き込みなんてやめたほうがいいわよ」
女は鏡の前で熱心に化粧を落としながら言った。やがてひと段落して、先にシャワー入るわね、と言って脱衣所に消えていった。
男は一つしかないベッドに寝ころんで、ムーンフィッシュを想像してみた。大きな翼を持っていて、潜水艦のような体をしている。月の色をした肌は光のもとに晒されると反射して、それこそ月のように輝くのだという。
男が例の魚のことを夢想していると、シャワーを浴び終えた女がバスタオル一枚で立っていた。
「もう上がったから、あなたも入るなら入ってきたらいいわ」
女は恥ずかしがる様子もなく、また冷蔵庫を開くと今度はグラスのなみなみまでワインを注いだ。
「いや、僕はいいよ。ムーンフィッシュのことを聞きに来ただけだからさ。それで、気になったんだけど、さっきムーンフィッシュの色が月と同じ色だって言ってたでしょ、君が見たムーンフィッシュは一体どんな色だったんだい」
女はそうねと考えだして、閉められていたカーテンを開け、外を見ると月を探した。けれど朝焼けに滲みだした山々が見えただけで月があるのは反対側だったようだ。
「月がないんじゃ、比較するのは難しいけれど、そうね、このワインとほとんど同じ色だった気がするわ」
女はグラスを高く持ち上げ、光に翳すと、またくるくる回しだした。グラス一杯に注がれたワインは、渦になった水流に乗って零れだす。零れたワインを特に気にする様子もなく、楽しそうに女は笑っている。
「黄色っぽいね」と男は言った。
「そんなものだわ」と女は言った。
女はグラスの半分になった残りのワインを床に捨て、バスタオルを投げ捨てるとベッドに潜り込んだ。
「私、この朝焼けを見て眠るから、あなた、夕焼けと共に起こしてね」
女はそれだけ言うとすぐに眠りに落ちた。男は起こさないよう慎重に布団から出ると、そのまま静かに部屋を後にした。
お読みいただきありがとうございます。
街角の魚は「ムーンフィッシュ」シリーズの1つです。シリーズとしていますが各話完結となっております。
他にも「~の魚」という表題がすべてムーンフィッシュシリーズですので合わせてお読み頂けると嬉しいです。この街角の魚を含め、~の魚で語られる「ムーンフィッシュ」以外の物語は、酔っ払いのために作られた道化話です。
「ムーンフィッシュ」という物語だけが真実です。