辺境伯嫡孫ディートリント・フェルゼンラントの生涯
僕の初恋はいつだったろうか。
少なくても物心が付いたときには、身近に好ましく思う人がいたのは事実だ。
伯母の娘だった彼女は、辺境伯家の血筋にふさわしくお転婆で、そして、才能にあふれていた。
ただ、これが『恋』というものだったかというと、非常に心許ない。なぜなら、彼女は早々に皇族の婚約者となり、私は実家で訓練と実践の日々を送ることになったからだ。
数年後、高等学院で再会したとき、彼女はずいぶんと変わっていた。少女時代のお転婆さはなりを潜め、才能は大きく開花し、そして美しくなっていた。
美しく変わった彼女を見たエアハルトは、叶わぬ恋だと頭では知りつつも、その思いを強くしたようだ。
しかし、僕は彼女が彼女でなくなったような気がして、複雑な思いだった。
これが「『恋』ではなかったのではないか?」と思うようになったのは、彼女が、婚約者だった皇帝陛下に婚約を破棄をされた時だ。
当時、20歳だった僕は、陛下の側近を務めていたこともあって、ひょんなことから、彼女が罠に嵌められていたことを知った。
僕は内心憤りつつも、その思いを表に出すことはなかった。
僕と同時にそれを聞いた皇兄殿下は、烈火のごとく怒り、関係者どもを叩きのめしていたのに。だ。
殿下のあの姿が『恋』する者の姿なのだとしたら、僕の思いは、到底『恋』などとは言えない物だった。
果たして今後、『恋』をすることなどあるのだろうか?
このとき僕は、そう思っていた。
転機が訪れたのは、僕が24歳の時だった。
僕の従兄が、30にも満たない若さで突然身罷ったのだ。
彼には、子どもはいなかったが、妻がいた。
彼女の名はロベルティーネ。侯爵家の出身で、27歳。僕の3歳年上だった。
従姉妹のように、脇を通れば思わず振り返るような美人というわけではないが、彼女の言動の端々から見えるさりげない気遣いには、いつも感心させられていた。そして、その優しげな目差しも相まって、彼女が来ると、場の雰囲気が目に見えて良くなる。そんな存在だった。
従兄との仲も良く、僕は、いつも笑みを絶やさない彼ら夫婦には、何度となく心を癒やされていたし、仲睦まじい彼らを見て、自分もああいう家庭を築きたい。そう日頃から思っていた。
従兄の葬儀に出席したとき、僕は目を疑った。悲しみに暮れる伯父一家に対し、婚姻の申し込みをする慮外者がいたのだ。それも複数。
確かに、伯父一家は嫡男を亡くし、後継が定まっていない。自家の勢力拡大をもくろむ者にとっては、絶好の機会に映ったことだろう。
「自分さえ良ければ他人の気持ちなどどうでも良い」このような考えの者が同じ国に住んでいることが僕には許せなかった。
父が止めてくれなかったら、僕は奴らを殴りとばしていたに違いない。
葬儀の後、ロベルティーネは実家のポルメルン侯爵家に戻った。
突然夫を失った悲しみはもちろん、慮外な求婚者から逃れる意味合いもあったのだろう。悲しみに沈む彼女を助けたいとは思いつつ、「ここで自分が出てしまっては、葬儀の時の慮外者と変わらないのではないか?」そう思うと、自分から動くことはできなかった。
そんなある日、ポルメルン侯爵家が、ロベルティーネの再婚先を探しているという話が聞こえてきた。しかも相当急いでいる様子で、子爵家以下の下級貴族や、10歳以上年上の寡夫にまで声を掛けていると聞く。
調べてみると、皇弟殿下が彼女を愛妾として望まれたとのことだった。
皇弟殿下は傍若無人なお人柄とはいえ、陛下のお気に入り。このまま手をこまねいていては、召し出されてしまう。そう考えたポルメルン家が焦るのも無理はなかった。
しかし、このようなことが許されて良いものだろうか。
彼女には何も罪がない。突然の病で夫を亡くした被害者だ。それが、権力者の間で物のように扱われる。僕はそれを男として許しておくことはできなかった。
翌朝、僕は父に、ポルメルン侯爵家へ求婚の申し入れをするよう願い出た。
父はいぶかしんだが、事情を話すと「それでこそフェルゼンラントの男だ!」と言って褒めてくれた。
相談する前は、父が後継者について気にするのではないかと、危惧していたが、父は、
「お前には弟もいるし、妹夫婦のところにも男の子が2人いる。いざとなったら養子を取れば良いんだ。お前が気にする必要はない」
と言ってくれた。
その日、父と酌み交わした酒は、今までで一番美味かった。
数日後、僕は久しぶりにロベルティーネと顔を合わせた。
見る影もなくやつれた彼女は、挨拶を早々に切り上げると、こう言った。
「ディートリント様。このたびのお申し出、正直なところ困惑しております。私はこの年まで子を成すことができなかった女です。
もう子が必要ない寡夫や、下級の貴族が相手ならともかく、フェルゼンラント家は我が家とほぼ同格。しかも、あなた様は嫡孫ではありませんか。
もしかしたら誰かから無理強いされていらっしゃるのではございませんか?
もしそうでしたら、ご心配は無用に願います」
「疑問をもたれるのはごもっともです。少し長い話になりますが、お時間をいただけますか?」
「ええ、ぜひとも。お願いいたします」
「疑問には必ずお答えいたしますので、まずは最後まで、僕の話をお聞きください」
「わかりました」
「義従姉上。まずは、従兄のこと、お悔やみ申し上げます。
此度の従兄の急な死は、僕にとっても無念なことです。あれだけ仲睦まじく過ごされていた義従姉上の無念や衝撃はいかばかりか、察するに余りあります。
先のことはともかく、義従姉上には、暫く、ゆっくりと心の傷を癒やしていただきたい。僕はそのように思っておりました。
ところが、葬儀以降の有様は、まさに目を疑うばかり。私どもにも優しくしていただいた義従姉上がどんどんやつれていく様子は、見るに忍びありませんでした」
「それは私が不憫だから結婚するということでしょうか。そうでしたら、その気遣いは不要で……」
「全くその気持ちがないかと言えば嘘になりますが、それだけではありません。
僕にとって、あなた方お2人は理想の夫婦でした。『結婚するならあのような家庭を築きたい』と、常日頃から思っておりました。
何を隠そう、僕は、義従姉上と従兄の姿を見て、夫婦というものに憧れたのです。
以前から「結婚するとしたら、義従姉上のような方がいい」と考えておりました。
今回の話は「義従姉上とであれば、良い家庭を築ける」そう思ったからこその申し込みです。
義従姉上の笑顔を取り戻す助けになればそれが一番ですから、仮初めの夫婦という形でも構わないのですが、仮に、本当の夫婦となっていただけるのでしたら、これほどありがたいことはありません」
「私、エルケンバルトのことを忘れられないかもしれませんよ」
「従兄のことを忘れろなどと言うつもりは毛頭ありません。義従姉上と従兄は、僕にとって理想の夫婦です。
此度の申し込みは、従兄への思いも含めてのものです。ですから、一生忘れないで結構……。
いや、一生覚えていてください」
「私、結婚以来10年近く子ができませんでした。跡継ぎを授かれないかもしれませんよ」
「僕にはご存じのとおり元気の良い弟がいますし、父の妹である叔母夫婦にも男の子が2人おります。フェルゼンラント家の後継の心配は何もいりません。父にも話は通してあります。
父にこの話を持っていったとき「それでこそフェルゼンラントの男だ」と褒められました。父も認めた話ですから、『家』についての心配は全くありません。
……他に質問はございますか?」
「いいえ。よくわかりました」
「では、義従姉上、いや、ロベルティーネ殿。僕と結婚してはいただけないでしょうか?」
「はい。喜んでお受けいたします。……でも、ディートリント様」
「?」
「私、結婚するからには、『仮初め』とか『仮面』とかいうのは嫌です。全身全霊をもって、あなた様にお仕えしますから、ご覚悟なさいませ!」
「これは! ……まいったな!」
「ふふふふふふ」
ただ、僕たちの結婚は一筋縄ではいかなかった。
まず、両家の婚姻を陛下に願い出る直前に、伯父の帝都邸に行幸していた陛下が行方不明になった。そして、警護役を務めていた弟まで、一緒に行方がわからなくなった。
伯父一家はもちろん、弟も事件への関与を疑われるような状況であったため、婚姻の認可が危ぶまれた。しかし、陛下の真筆の文書が発給され、ご存命が確認されたため、婚姻は認められることになった。
皇弟殿下は最後までしつこく横槍をいれてきたが、皇兄殿下が宰相閣下に取りなしてくださったことが、最後の決め手となった。
そして、僕たち2人は晴れて夫婦となった。
最初ロビィとは、いわゆる『白い結婚』でいいと思っていた。他に好きな人がいたわけでも、彼女が嫌いだったわけでもない。彼女の方が従兄を忘れられないんじゃないかと思ったからだ。
ところが、結婚式の晩にそのことを話したら、あきれられた。
「私、以前に『結婚するからには、仮初めは嫌だ』と申し上げましたよね」
「しかし、ロベルティーネ殿……」
「ロビィ」
「は?」
「ロビィとお呼びください」
「ろ、ロビィ」
「はい! なんでしょう。旦那様?」
「ロビィ。結婚することはともかく、好きでもない相手とそういったことをいたすのは困るのではないかい?」
「……旦那様は、私のことがお嫌いですか」
「僕が? とんでもない! ロビィのことは大好きだ! 嫌いだったら誰が好き好んで結婚しようなどと言い出すものか!」
「そのお言葉。お返しいたしますね。誰が嫌いな相手との結婚を親にも相談せずに了承するものですか!」
「い、いや、しかし、僕なんかで……」
「……旦那様。自分にもっと自信をお持ちくださいませ。あの日、結婚の申し込みをしてくださったとき以来、私は旦那様のとりこです。
女にこんなことを言わせて……。他の人だったら愛想を尽かされてしまいますわよ!」
僕はロビィを抱きしめた。
「だ、旦那様」
「よかった。愛想を尽かされてなくて」
「もう! 旦那s……」
「ディート!」
「え?」
「僕のこともディートって呼んで」
「ふふ。ディート」
「ロビィ」
どちらからともなく顔を近づけた僕たちは口づけを交わし、そして、二人は一つになった。
2年後。僕は父親になっていた。
僕たちはよっぽど相性が良かったらしい。前の結婚生活では10年近く子ができなかったロビィだが、もう2人目がお腹にいる。
長女のエリザベートはもう1歳。どんどんかわいくなっていく。
この幸せを守るためにも、僕は勝たねばならなかった。
僕は今、戦場にいる。
敵は皇弟。
従兄を亡くして悲嘆に暮れるロビィを愛妾に望んだ男だ。
それだけではない、結婚を決めた僕を処刑するように前の皇太后様にせまり、実母である前皇太后様を悶死させてしまったという悪逆非道の輩だ。
国のためにも、民のためにも、こんな男を皇帝にするわけにはいかない。
あろうことか、流れてくる噂によると、まだロビィに執着しているらしい。ロビィはもちろん、娘のためにも、これから生まれてくる子のためにも、負けるわけにはいかない戦いだ。
あのような男だが、血筋が良いことと、野心家のキール公爵が神輿に担いだこともあって、集めた兵力は多い。
ただ、必勝の策はある。我が軍の大将である皇兄殿下が、自ら囮となって敵軍を引きつけている間に、近衛騎士団を中心とした精鋭が敵の本陣を突くのだ。
兵力差で圧倒している敵は気が緩み、戦後の論功行賞目当てで我先に本陣に襲いかかってだろう。しかし、こちらの本陣を固めるのは最精鋭。数は少ないとはいえ、簡単に抜かれることはない。
そして、豚のように太ったあの男は、後陣で高みの見物を決め込んでいるだろう。
そこを突けば勝機は十分にある。
誤算が生じた。
最初の魔法合戦の直後、宮廷魔導師団団長のマイヤーハイム卿が流れ矢に当たり戦死したのだ。このおかげで守備障壁に綻びが生じてしまった。
守りが弱くなったところに敵軍の攻撃が集中し、味方の中軍は押しまくられている。元々押し込まれる計算ではあったのだが、これはペースが速すぎる。
戦場を大きく迂回しているはずの奇襲部隊はまだ姿を見せない。このままでは、奇襲部隊が到着する前に、こちらの本陣が落ちてしまう可能性も出てきた。
そんな時、僕の陣に、1人の男が駆け込んできた。父の従卒であるフランクだ。
「伝令!伝令!」
「フランクどうした!」
「主君アドルフより伝言『後は頼む』との由にございます!」
最前線を支えてきた父だ。これは最期の言葉と考えた方がいいだろう。
僕も覚悟を決めるときが来たようだ。
身体強化の魔法をかけ直す。
さらに、最後の手段として、殿下から頂戴した魔道具を発動させる。
これを使えば人間の潜在能力の全てを発揮させることが可能になる。しかし、代償は大きく、効果時間が切れるとともに体中の筋肉がズタズタになる。癒者を同伴させていなければ、九分九厘命を落とすという危険な代物だ。
僕はそっと瞼を閉じた。
瞼の裏に映るのはロビィとエリザの姿。
幾度となく戦場に出てきた僕でも、流石に死ぬのは怖い。しかし、ここで命を賭けなかったら、彼女たちはもっと苦しい目に遭うに違いない。僕が死のうが生き残ろうが、戦に勝たなかったら意味がない。
僕は叫んだ。
「内地者に、フェルゼンラントの漢の姿を見せてやれ! ついてこい! 突撃!!」
彼の突撃が始まる直前、皇兄軍の本陣は陥落寸前であった。
約半刻後、彼の突撃が終わったとき、戦場に残っていたのは皇兄軍であった。しかも、圧倒的に有利だったはずの皇弟軍は、大将と皇帝候補が討ち取られるという歴史的な敗戦を喫していた。
彼の突撃が全ての流れを変えたのだ。
目撃者は言う。
「彼が一度鋼鉄の槍を振るえば複数の首が宙を舞った」
「剣で攻撃を受け止めようとした敵の騎士が、剣ごと体を両断された」
「魔法も矢も彼を避けていった」
etc.
そして、誰もが口をそろえて言う言葉がある。
「まるで鬼神のようであった」
ディートリント・フェルゼンラントの最期は戦史に克明に記されている。
彼の突撃は、皇弟軍を切り裂き、実質的な指揮官であるキール公の本陣まで到達したからだ。
それによれば、キール公の目の前に現れた彼は、既に立っているのもやっとの状態だった。しかし、最後の勇。手にした鋼鉄の槍で、護衛騎士もろともキール公を刺し貫き、そして、そのまま、前のめりに倒れた。
周囲にいたキール公の部下が跳びかかったとき、既に事切れていたそうである。
彼の死顔は薄く笑みを浮かべていたという。
彼の死後、若くして未亡人となったロベルティーネは、再婚を勧められることも多かった。
そんな中、再婚を勧める知人に対して語った言葉が伝わっている。
「あなたがお勧めくださるのですから、きっと良いお方なのでしょう。でも、このお話、他の方にお譲りください。
亡くなった夫に遠慮している? いいえ。
そもそも、亡くなった夫たちは、私が『再婚する』と言ったら、きっと喜んでくれることでしょう。常に私の幸せを願ってくれる人たちでしたから。
そんな夫たちと出会えた私は、本当に幸せ者です。
結婚は素晴らしいものです。私は2回もその幸せを味わうことができました。
私は今、十分に幸せです。そして、これ以上の幸せは、もう私には必要ありません」
ロベルティーネは、その後、一生涯独身を貫き、夫の遺児である2人の女児を立派に育て上げた。
彼女の血統は、今なおザルツラント家とフェルゼンラント家を中心に広く受け継がれている。