誰も立たなかった、その場所に
今日も、誰も私の前には立たなかった。
マリア・ファン・ヴィルヘイムにとって、それは驚くべきことでも、嘆くべきことでもない。
もはや、ただの日常だった。
見た目は重要か。
そう問われれば、私は迷わず答える。
――重要だ、と。
そしてその答えは、残酷なほど正しかった。
大国ヴィルヘイム王国の長女として生まれた私は、「姫」という言葉がまとっている輝きとは縁遠い容姿をしていた。
くすんだ銀灰の髪。
重たげな一重の瞳。
貴族の令嬢というには、あまりに細い体躯。
醜い、とまでは言われない。
比べる相手を選べば、まあ整っているのではないか、と言ってもらえる程度ではあった。
ただ、不幸なことに。
私には、比べられる妹がいた。
よりにもよって、誰もが振り返るほど美しい妹が。
妹――アリア・ファン・ヴィルヘイムは、人々が姫に夢見る美しさを、そのまま形にしたような少女だった。
穢れのない銀の髪は、光を受けるたび幻想のように輝く。
ぱっちりとした二重の瞳は、見る者の心を映し返す湖面のようだった。
彼女が微笑むだけで、場の空気が変わる。
何もせずとも人が集まり、言葉をかけずとも人が微笑む。
私と妹。
同じ時に、同じ腹から生まれたはずなのに、私たちが背負わされたものはあまりに違っていた。
名前の響きさえ似ているのに、誰も私たちを呼び間違えなかった。
その声色が、誰を呼んでいるのかを、何より雄弁に語ってしまうからだ。
ヴィルヘイム王国は、建国以来、女王が治める国である。
王家の子が十八を迎える年、次代の王が選ばれる。継承権を持つ者が複数いれば、国民の投票によって王位継承者が定められる。
母は、どちらが継いでもよいと言った。
けれど私は知っていた。
その期待が、どちらへより深く傾いているのかを。
妹が民衆に手を振る。
子供たちは笑顔で駆け寄り、誰が先に触れてもらったかで喧嘩になる。
私が民衆に手を振る。
親が子の手を掴み、礼儀だからと無理やり振らせる。
妹が文官と政を語る。
かつて私の口から出て却下された案でさえ、彼女が語れば喝采を浴びる。
私が文官と政を語る。
一応の相槌は返ってくる。けれど、次の瞬間には妹の案が採用されている。
妹が貴族の子息に挨拶される。
山のような贈り物と、美麗な言葉の雪崩とともに。
私が貴族の子息に挨拶される。
儀礼の一言だけを置いて、彼らはすぐに背を向ける。
仕方のないことだと、もう諦めていた。
王族にとって、見た目は重要だ。
ただ――たったひとりでよかった。
王になれなくてもいい。
他の誰にも振り向かれなくてもいい。
私のことを見つけてくれる人が、たったひとりいればよかった。
民のために過去の政策を調べ、新しい案を練っても。
外交のために他国の言葉を覚え、その文化を学んでも。
家臣のために自ら足を運び、その顔と名と、家族の名前まで記憶しても。
誰の目にも、妹しか映っていないのだから。
◆◆◆◆◆
見た目は重要か。
クロード・レイ・グリンガルは、そう問われればこう答える。
――重要ではない、と。
大国ヴィルヘイム王国の公爵家、その長男として生まれた俺には、前世の記憶がある。
前世の俺は、美人の姉三人に囲まれて育った。
客観的に見れば、全員が絵に描いたような美女だったと思う。
そこは認める。
ただし、誰も家事をしなかった。
そして、してもらうことに感謝もしなかった。
無気力。夢追い。自由奔放。
我が姉たちは、ダメ人間の見本市のような面々だった。
顔が良いことと、誠実であることは、まったく別の話だ。
前世の俺は、必要なことを必要なだけ片付けていた。
家事も、手続きも、面倒な調整も。
感謝されることはほとんどなかったし、望まれることもなかった。
いて当然。
やって当然。
俺はただ惰性で、自分の人生を片付けていた。
ただ――ひとつだけ、望みがあった。
俺だけを見てくれる人を、たったひとりでいいから見つけたい。
そう願いながら、俺はそれを自分から拾いに行こうとはしなかった。
それが、前世における唯一の後悔だった。
だから今世では、少しだけ変わることにした。
グリンガル公爵家に生まれた俺は、前世で見聞きした知識を使い、借金まみれだった領地を立て直した。
井戸の管理。街路の清掃。倉の記録。職人の育成。
ただし、前世の仕組みをそのまま持ち込めば、たいてい失敗する。
なぜそれが必要だったのか。掬うべきは、そこだけだ。
そうして領地は、どうにか息を吹き返した。
公爵家への貢献は、もう十分に果たしている。
これ以上、権力争いに巻き込まれる義理はない。
そう思っていた。
今日、この日までは。
◆◆◆◆◆
今日は、護衛騎士の選定が行われる日だった。
目が覚めた瞬間から、気持ちは沈んでいた。
ヴィルヘイム王国では、王族が十五を迎える年に護衛騎士を得る。
選ぶのは、王族ではない。四大公爵家の子息たちだ。
王とは、人に選ばれてこそ王である――この国は、建国以来そう信じてきた。
だから誰もが、勝ち馬の手綱を握りたがる。
優れた騎士はやがて王配となり、次の勢力図を描く。水面下の駆け引きは、とうに始まっているのだろう。
けれど、私は何もしなかった。
燃え盛る炎にコップ一杯の水をかけたところで、何の意味もない。
今年は、四大公爵家すべてに年頃の子息がいる。
つまり、選定の間には四人全員が揃うはずだった。
扉を開け、私はその部屋へ足を踏み入れる。
見届け人である宰相は、まだ姿を見せていなかった。
けれど、妹の周囲にはすでに三人の令息が集まっていた。
いずれも絵になるほど麗しく、大貴族の嫡男としての風格をまとっている。
ああ、やはり。
こんな茶番、早く終わってくれればいい。
そう思いかけて、私は違和感に気づいた。
三人?
一人、足りない。
視線を巡らせると、部屋の端の椅子に深く腰を下ろし、目を閉じている青年がいた。
その瞳が、静かに開く。
闇よりも深い黒い髪。
夜の湖面を思わせる青みがかった瞳。
冷たく、けれど揺るがない眼差しに、一瞬、息を呑んだ。
あの特徴は、おそらくグリンガル家のクロード様だ。
けれど、なぜ彼は妹の傍らにいないのだろう。
私の想像では、四人全員が当然のように妹のそばへ侍り、宰相がそれを見届け、何事もなく終わるはずだった。
だから、さっぱり理解が追いつかなかった。
◆◆◆◆◆
今日は、護衛騎士の選定が行われる日だった。
目が覚めた瞬間から、憂鬱で仕方がなかった。
王族が十五を迎える年、護衛騎士を得る。
公爵家は、選ばれる側ではなく選ぶ側だ。
その仕組みのせいで、俺は強制的にこの場へ引きずり出されている。
他の公爵家の連中は、権力への欲を隠そうともしない。
だが俺には関係がなかった。
のんびりできそうな方に、ひっそりつく。
それだけでいい。
選定の間に入ると、他の公爵家の子息たちがこちらを警戒するように睨んできた。
待て。俺は敵じゃない。
むしろ負け馬に乗るつもりでいる。そんな目の敵にしないでほしい。
少し待つと、妹姫が先に入ってきた。
さっきまで牽制し合っていた三人が、何事もなかったかのように彼女のもとへ寄っていく。
甘ったるい賛辞が、子守歌のように室内へ流れた。
俺は椅子に深く沈み、目を閉じる。
意識が、ほんの一瞬だけ遠のいた。
そして目を開けた時、そこにひとりの女性が立っていた。
くすんだ銀灰の髪。
重たげな一重の瞳。
おそらく、姉の方だ。
目が合った。
驚いたような、諦めたような――それでいて、かすかに何かを期待しているような顔だった。
知っている、と思った。
俺は、あの目を知っている。
消えかけているわけではない。
まだ消えていない目だ。
燃えているわけではないのに、消えてはいない。
ただ、誰にも見つけてもらえないまま、ずっとそこにある。
前世の俺も、きっとあんな顔をしていた。
願うばかりで、自分から掴みに行かなかった俺も。
だからだろうか。
気づいた時には、立ち上がっていた。
椅子を引く音が、やけに静かな部屋に響く。
周囲の視線がこちらへ向く。
構わなかった。
俺の足は、最初から一方向しか向いていなかった。
◆◆◆◆◆
「……あの。いま、なんと」
私は多くの言語を話せる。
けれどこの時、彼の言葉は、一度も耳にしたことのない異国の言葉のように聞こえた。
「聞こえませんでしたか。私はクロード・レイ・グリンガル。グリンガル公爵家の嫡男です。貴方の騎士となる誓約を賜る機会を、と申し上げました」
まっすぐな言葉だった。
だからこそ、私はそれに不慣れで、何を返せばいいのかわからなくなる。
「……いえ。それは聞こえました。ただ、相手を間違えているのではありませんか」
揶揄われているのだろうか。
一瞬そう思ったが、妹も私と同じように怪訝な顔をしていた。ならば、それも違うのだろう。
「この部屋に王族は二人しかいないのですよ? 間違えようがございません、殿下」
彼は、私に考える時間を与えるつもりがないらしい。
頭が状況に追いつかないうちに、彼は腰の剣を抜き、柄をこちらへ向けた。
そして、静かに騎士の誓いを紡ぐ。
まるで最初から、そうすると決めていたかのように。
戸惑った顔の宰相から紋章入りのペンダントを受け取ると、彼はそれを身に着け、こちらへ歩いてきた。
「では、殿下。参りましょう」
「え、ええ」
騎士が決まらなかった時の対応なら、考えてきた。
けれど、この状況はまったく想定していない。
私は促されるまま、彼の後をついていくしかなかった。
「……クロード様」
「はい」
廊下には、互いの靴音だけが響いていた。
冷たい空気が頬に触れ、それが少しずつ私を現実へ引き戻していく。
「どうして、私を選んだのですか」
彼は少しだけ歩を緩めた。
けれど、振り返りはしなかった。
「どうして、と聞くのですか」
「……誰も、選ばないからです」
聞かないわけがなかった。
けれど、簡単に思いつくはずの問いに、しばらくの沈黙があった。
「それが理由です」
意味を問い返すことはできなかった。
その声には、説明の続きを求める余白がなかったからだ。
彼は正面を向いたまま、緩めた歩幅をそのままに、静かに廊下を進んでいく。
私は、自分の頬が熱いことに気づいた。
こういうことは、初めてだった。
◆◆◆◆◆
選定の日から、ひと月も経たないうちに、私の執務室は変わり始めた。
最初に変わったのは、扉の前だった。
それまで、私の執務室を訪れる者はほとんどいなかった。
書類を持ってくる文官も、妹の部屋へ向かう途中でついでに寄る、という態度を隠そうとしない。
侍女も必要最低限の茶を置けばすぐに去っていく。
護衛など、廊下の端に立っているだけで、私の顔を見ることすら稀だった。
けれどクロード様が私の騎士になってから、扉の前には彼が立つようになった。
静かに、けれど確かに。
誰かが私を軽んじた声を出せば、その視線だけで黙らせる。
誰かが妹の部屋へ行く前のついでのように書類を置こうとすれば、淡々と問いただす。
「この決裁は、マリア殿下の判断を仰ぐためのものですか。それとも、アリア殿下の承認が得られなかった残り物ですか」
そのたびに、相手は顔を赤くしたり青くしたりしながら、言葉を失った。
私は最初、何度も止めようとした。
どうか波風を立てないでください、と。
けれど彼は、いつも同じように答えた。
「貴方は、決して軽んじられていい方ではありません」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
そしてある日、彼は私が過去に書いた政策案の束を、どこからか持ち出してきた。
私が机の下の箱に押し込み、誰にも見せることなく、ただ自分の未練として保管していたものだった。
「殿下」
「……それは」
「なぜ、これを眠らせているのですか」
責める声ではなかった。
けれど、私は思わず視線を逸らした。
「誰も、読まないからです」
「では、読む者を連れてきます。他に必要な者たちも」
彼はそう言った。
冗談だと思った。
でも、その数日後。
私の執務室には、三人の見知らぬ人物が立っていた。
一人目は、長い髪を無造作に結った痩せた青年だった。
ぎらぎらとした目をしていて、礼をする角度すら妙に浅い。
「王立学園首席卒業、ユリウス・バルト。思想が危険すぎるとのことで、仕官先をすべて断られた男です」
「貴族制度とは歴史的に見て寄生構造であり、民の労働から搾取することで成立している権力装置で――」
「発言は必要な時だけにしてください」
クロード様が遮ると、ユリウスと名乗った青年は不満げに唇を尖らせた。
二人目は、片目を眼帯で覆った長身の男だった。
騎士服は着ているが、着崩し方がひどく、口元には軽薄な笑みを浮かべている。
「元北方騎士団所属、レオン・ガル。兵の待遇改善を訴えて左遷された後、上官を殴って最下層に落とされた剣士です」
「紹介がひでえな。せめて情熱的な問題児って言ってくれよ」
「事実を述べただけです」
三人目は、褐色の肌を持つ侍女だった。
艶やかな黒髪を布で隠し、伏せた目は従順そのものに見える。
けれど、その指先だけが妙に静かだった。
「サーラ。母方にリュゼルの血を引くため表の職を閉ざされ、裏の仕事を請け負っていた者です」
「恐れながら、殿下。お命を狙うよう命じられておりましたが、こちらの剣士殿に見つかりましたので、降伏いたしました」
「……待ってください。今、とても聞き逃せないことを言いませんでしたか」
「ご安心ください。既に処理済みです」
クロード様は平然としていた。
私は額に手を当てた。
その日から、私の執務室は騒がしくなった。
◆◆◆◆◆
「ですから、貧民街の衛生改善には、富裕層から徴収した追加税を投入すべきです」
ユリウスが眼鏡の奥で目をぎらつかせながら、机に広げた試算表を指で叩いた。
「財源としては十分です。むしろ、これまで彼らが蓄えてきた富を考えれば、まだ足りないくらいで――」
「反乱が起きます」
クロード様が、書類から目を上げずに言った。
「ならば、反乱を起こす余裕もないほど課税を」
「却下です」
「なぜですか」
「その前に、国が割れます。そして、負担は下の者にいく」
ユリウスは心底不服そうに唇を曲げたが、反論の言葉は見つからなかったらしい。
代わりに、試算表の端へ乱暴に羽ペンを走らせ始めた。
その横では、レオン様が椅子の背にもたれ、まるで仕事をする気のない顔で私に笑いかけている。
「なあ、姫様。今日こそ俺と素敵な夜を過ごさないか」
「レオン」
いつの間にこちらに来ていたのだろう。
クロード様が、彼の前に一枚の紙束を置いた。
「昨夜の件について、報告書がまだです」
「へいへい。坊ちゃんはいつも手厳しいな」
「その分の報酬は支払っていると思いますが」
「まぁ、それもそうか」
レオン様は首をすくめて、結局は紙束を受け取った。
すると今度は、部屋の隅に控えていたサーラが音もなく近づいてきた。
「殿下」
「はい」
「廊下で聞き耳を立てていた者が二人。片方はアリア殿下付き、もう片方は財務卿の手の者です」
「……どうしてすぐに分かるのですか」
「気配が下手すぎます」
サーラは淡々と答えた。
そのあまりの平静さに、私は思わずクロード様を見る。
けれど彼は驚くでもなく、当然のように頷いただけだった。
「追い払いますか」
「いいえ。聞かれて困る話は、もう終えました」
そう言って、クロード様は私の前に新しい書類を置く。
「では殿下。次は、聞かれても構わない話をしましょう」
かつて人の声などほとんどしなかった私の部屋は、毎日、音で溢れるようになった。
だから私も、彼らに報いるために、今まで以上に働きたいと思うようになった。
けれど、そう思うたびに、クロード様は静かに私の手元の書類を取り上げる。
「今日はここまでです」
「ですが、まだ――」
「貴方が倒れれば、誰がこの先を進めるのですか」
言葉は厳しいのに、目は少しも冷たくなかった。
「別に、頑張りすぎなくても大丈夫ですよ」
「……クロード様には、何でもお見通しなのですね」
「いつも見ていますから」
その言葉に、頬が熱くなる。
妹のような白い肌でなかったことに感謝する日が、まさか来るとは思っていなかった。
けれどきっと、クロード様は気づいている。
いつからか見せるようになった静かな笑みが、こちらへ向けられていた。
「……わ、私も、いつも見ていますよ」
「知っています」
意趣返しのつもりで告げた言葉に、より深い笑みが返ってくる。
クロード様は卑怯だ。
最初から私を手玉に取って、いらぬ心労ばかり与えてくる。
けれどそれは、不思議と嫌なものではなかった。
「結果がどうなろうと、私の主は貴方です。殿下」
最初は、どうせ負けると思っていた。
妹に任せればいいとも思っていた。
でも今は――これ以上ないほどに、走り回っている。
◆◆◆◆◆
最初に大きく動いたのは、貧民街の問題だった。
きっかけは、妹が始めた食糧配給である。
王都の広場に白い天幕が張られ、焼きたてのパンと肉入りのスープが配られた。
アリアは美しく着飾り、微笑みながら子供たちにパンを渡した。
「どうか、皆が少しでも笑顔でいられますように」
彼女がそう言うと、集まった民衆は歓声を上げた。
その光景は絵画のように美しかった。
翌日の新聞は、妹を慈愛の姫と称えた。
母も満足げに微笑み、文官たちも賛辞を惜しまなかった。
でも私は、その報告書を読んで、嫌な予感を覚えた。
食糧を配ること自体が悪いわけではない。
けれど、場所が悪い。
頻度が悪い。
何より、後始末の計画がない。
「クロード様」
彼の名を呼ぶ。
何をしたいか、それを伝えるために。
「既に馬車を用意しています」
「……えっと、私、まだ」
「実際に、その目で見たいのでしょう?」
優しい笑顔。
私は、ただ頷くことしかできなかった。
そうして向かった貧民街は、想像以上にひどかった。
路地には食べ残しのパンが踏み潰され、腐った肉汁が黒い水たまりを作っている。
配給を受けられなかった者が奪い合った痕跡もあった。
人々はまだアリアの名を口にしていた。
綺麗だった。優しかった。あの方は天使だ。
けれどその足元では、蝿が群がり、幼い子が腹を押さえてうずくまっていた。
私は馬車を降りた。
途端に、クロード様が一歩前に出る。
「殿下、足元にお気をつけください」
「大丈夫です」
言ってから、自分でもそれが大丈夫ではないことくらい分かっていた。
臭いはひどく、裾はすぐに汚れた。
引き返すことはできなかった。
路地の端で、痩せた女性が子供を抱いていた。
子供は眠っているように見えた。
けれど、その胸は上下していなかった。
女性は私を見ると、焦点の合わない目で笑った。
「姫様。また、パンをくださるんですか」
私は、すぐに答えられなかった。
「……昨日、いただいたんです。あの綺麗な姫様から。うちの子、喜んで、半分だけ残して……明日も食べるんだって」
女性の腕の中で、小さな手が力なく揺れた。
「でも、夜になったら腹を壊して。水も汚くて。医者なんて呼べなくて」
クロード様が、静かに目を伏せた。
私は拳を握りしめる。
食糧を配るだけでは足りない。
飢えを一日しのがせても、明日を殺すことがある。
「お名前を、伺ってもよろしいですか」
女性はぼんやりと私を見上げた。
「……リナ」
「お子様は」
「トマ」
私は、その名を胸の中で繰り返した。
忘れないために。
自分が助けられなかった、その名前を。
城に戻ると、私はそのまま執務室にこもった。
ユリウスが資料を広げ、レオンが貧民街の治安図を描き、サーラが裏の水売りと医者の名簿を持ってきた。
「清掃業として雇い入れる?」
ユリウスが眉をひそめる。
「ええ。貧民街の住民を、王都清掃の正式な労働者として雇用します。日当は食糧ではなく貨幣で。水路の修繕と井戸の管理も同時に行います」
「財源は?」
「私の祭典費を削ります」
部屋が静まり返った。
祭典費。
それは、王族が民へ美しさを示すための費用でもあった。
衣装、花、楽団、装飾。
つまり、姫が姫らしくあるための金だ。
「……どこまで削るおつもりですか」
ユリウスの声から、いつもの軽薄な熱が消えていた。
「すべてです。ほかに削れるものがあるなら、探してください」
彼は一瞬だけ目を見開き、それから楽しそうに口角を上げた。
私は、震える手で羽ペンを握る。
怖くないわけではなかった。
これを失えば、私はますます姫らしくなくなる。
妹と並べば、いっそう見劣りするだろう。
民の前に立つたび、惨めになるかもしれない。
けれど、路地で死んだ子供の名を思い出す。
リナ。
トマ。
花で飾られた馬車より、清潔な水路が必要だった。
絹のドレスより、明日の賃金が必要だった。
「私にそれは、必要ありません」
そう言い切った時、クロード様がかすかに笑った気がした。
◆◆◆◆◆
夜の執務室には、羽ペンの音だけが残っていた。
クロード様が作った管理表には、日付、担当者、修繕の記録、異常があった時の報告先まで、細かく欄が分けられている。
王宮のどの書式とも違う。
けれど、不思議と使いやすかった。
「クロード様」
「はい」
「これは、どこの国の方式なのですか」
彼の手が、ほんのわずかに止まった。
「……国、ではありません」
私は、それ以上を問うべきではないと思った。
けれどクロード様は、静かに首を横に振る。
「貴方には、知っていていただきたい」
そうして彼は、前世のことを話してくれた。
ここではない世界で生きていたこと。
顔の美しさと、人の誠実さは別のものだと知ったこと。
そして、誰かに見つけてもらうのを待つばかりだったことを、今でも後悔していること。
信じがたい話だった。
けれど、不思議と疑う気にはなれなかった。
「怖くはありませんか」
「少し、驚いています。でも、怖くはありません」
「なぜですか」
「クロード様は、その記憶で誰かを支配しようとはなさらないからです」
彼の黒い瞳が、静かに揺れた。
「それに、この知識を私に預けてくださったのでしょう」
「はい。貴方なら、正しく使うと思いました」
「では、私はそれに応えます」
その夜から、彼は時折、前世で見た仕組みを話してくれるようになった。
けれど決して、答えを押しつけることはなかった。
「どう使うかを決めるのは、貴方です」
いつも最後に、そう言って。
◆◆◆◆◆
王族一人に割り当てられてきた祭典費。
ほとんど使われず積み立てられていた、十数年分の予算。
それは、私を飾るためではなく、民を生かすために使われることになった。
だが、すべてが順調だったわけではない。
最初の十日で、清掃に雇われた者のうち三分の一が姿を消した。
理由は単純だった。
王家の仕事に関われば、貧民街の仲間を売ったと見なされる。
日当を受け取れば、施しに尻尾を振ったと笑われる。
何より、水売りや闇医者たちにとって、井戸の管理と衛生改善は商売の邪魔でしかなかった。
ある夜、清掃隊の若者が殴られ、道端に捨てられた。
彼の名はマルク。
十五歳だった。
「だから申し上げたのです」
翌朝、内務卿は淡々と言った。
「貧民街の者たちに秩序など理解できません。結局、彼らは自ら与えられた機会を潰すのです」
「違います」
私は即座に答えた。
自分でも驚くほど、声は震えていなかった。
「機会を与えたつもりになって、危険を彼らだけに背負わせたのはこちらです」
内務卿は眉をひそめた。
ユリウスが珍しく黙り、レオンは腕を組んだまま目を細めている。
クロード様だけが、いつも通り私の後ろに立っていた。
「清掃隊に護衛をつけます。日当の一部は家族に直接渡せるようにしてください。井戸の管理権は、王家ではなく、住民の中から選んだ者たちに預けます」
「貧民街の者に、ですか」
「ええ。自分たちの水を、自分たちで守れるようにします」
「裏の者たちはどうする?」
レオン様が問う。
「潰すだけでは、別の形で戻ります。水売りの中で井戸管理に協力する者は、正式な給水人として雇い入れます。従わず暴力を振るう者だけを罰してください」
「甘いな」
「甘さだけなら、トマのような子をまた死なせます」
口にした瞬間、部屋が静まり返った。
私は一度だけ目を伏せ、それから顔を上げる。
「もう、同じ名前を増やしたくありません」
その日から、レオン様は清掃隊の護衛を引き受けた。
サーラは闇医者と水売りの繋がりを洗い出し、ユリウスは住民代表を選ぶための規則を一晩で書き上げた。
クロード様は、あの夜に見せてくれた書式をもとに、井戸の管理台帳と清掃区域の割り振り表を整えた。
「この印は何ですか」
「前世で見た管理方式を、この国向けに直したものです。誰が、いつ、どこを担当するのかを見えるようにしています」
「見えるように」
「どうしてか、わかりますか?」
「……誰かが倒れた時、助け合えるようにするためでしょうか?」
クロード様が目を細める。
静かに、口が弧を描いた。
「殿下。貴方なら、きっとできます」
その言葉に、私は羽ペンを握り直した。
最初は、誰も信用しなかった。
石を投げられた日もある。
税金泥棒と罵られた日もある。
王族の気まぐれだと、面と向かって笑われた日もある。
石を投げられた帰りの馬車で、私は膝の上の拳を握りしめていた。
クロード様は正面を向いたまま、何も言わなかった。
ただ、窓から入る風が冷たくなると、無言で自分の上着を私の肩へかけた。
「……大丈夫です」
「知っています」
けれど彼は、それを取り上げようとはしなかった。
肩に残った重みが、いつの間にか、拳の力を緩めていた。
それでも、私は通った。
汚れた道を歩き、名前を聞き、怪我をしたマルクの家に見舞金を届けた。
マルクの母は、最初、私を睨んでいた。
けれど帰り際、かすれた声で言った。
「……明日も、来るのかい」
「必要なら」
「必要じゃなくても来な。あんたが本気か、まだ見てない」
私は頷いた。
それでいいと思った。
春に始まった政策は、夏には嫌われ、秋にようやく形になり、冬に初めて数字を変えた。
私が十六の誕生日を迎える頃には、変化は目に見え始めていた。
殴られたマルクは、今では清掃隊の先頭を歩くようになっていた。
路地から腐臭が消えた。
子供たちの腹痛が減った。
日当を得た者たちは、翌日の食事を自分で買うようになった。
回り始めた経済が人を呼び、金を生み、やがて、正しく予算がつく。
ある朝、私は再び貧民街を訪れた。
箒を持った女性が、こちらを見て目を見開く。
リナだった。
以前より痩せていたが、目には光が戻っていた。
「マリア様」
彼女は、私の名を呼んだ。
私は一瞬、足を止めた。
姫様、ではなく。
綺麗な方、でもなく。
私の名を。
「トマのこと、覚えてくださっていますか」
「忘れません。絶対に」
答えると、リナは泣いた。
私は彼女の肩に触れようとして、一度ためらった。
けれど、クロード様の視線が背中にある気がして、そっと手を伸ばした。
リナは私の手を払いのけなかった。
その日から、貧民街で私に手を振る者が増えた。
最初は数人。
やがて十人。
いつしか、子供たちが私の馬車を追いかけるようになった。
けれど彼らは、私の髪を褒めなかった。
瞳を褒めなかった。
ただ、私の名を呼んだ。
その声が、胸の奥にいつまでも残った。
◆◆◆◆◆
帰還兵の問題が持ち込まれたのは、その少し後だった。
北の国境で小競り合いが続き、多くの兵が王都へ戻ってきていた。
傷を負った者。
腕や足を失った者。
仲間を置いてきた者。
妹姫は、彼らを広場に集めた。
白いドレスをまとい、花束を手に、一人ひとりへ微笑みかける。
「皆様の勇気に、心より感謝いたします」
兵士たちは跪いた。
民衆は拍手を送った。
その場だけを見れば、美しい光景だった。
だが、俺は兵士たちの目を見ていた。
乾いていた。
褒められることに慣れていないのではない。
褒められるだけでは何も戻らないと知っている目だった。
その夜、マリア様は負傷兵の収容所へ向かった。
薬草と血と膿の臭いが混じっている。
レオンは入口で顔をしかめた。
「懐かしい臭いだな。最悪だ」
「レオン様も、ここに?」
「ああ。まあ、俺は片目だけで済んだ口だ」
冗談めかして言ったが、その声には笑いがなかった。
奥の寝台で、片足を失った兵がこちらを睨んでいた。
まだ若い。
少年と言ってもよい年頃だった。
「また姫様かよ」
彼は吐き捨てるように言った。
「花ならいらねえ。感謝もいらねえ。勇敢だったなんて言葉で、明日から何を食えってんだ」
その声は震えていた。
怒りだけではない。
恐怖だ。
戦場から戻ってきたのに、生きる場所がないという恐怖。
マリア様は、彼の寝台の横に膝をついた。
その動作に、周囲が息を呑む。
王族が膝をつくなど、本来ならありえない。
「お名前を」
「……は?」
「お名前を、教えてください」
彼はしばらく黙っていた。
やがて、唇を噛みながら答える。
「ニコラス・ヘイン」
「所属は、北方第三歩兵隊ですね」
その目がわずかに揺れた。
「ご家族は、お母様のエマ様と、妹君のリリー様。リリー様は今年十歳になるはずです」
「……なんで」
「名簿を読みました。ですが、紙の上だけでは足りないと思いました」
マリア様は、逃げずに彼を見た。
「ニコラス様。あなたに花を渡しに来たのではありません」
彼女は、持ってきた書類を広げた。
「重傷兵の再就職斡旋、義肢工房への王費補助、戦死者遺族への年金制度。まだ草案です。ですが、あなた方に見ていただきたい」
兵たちは言葉を失った。
「私は戦場を知りません。痛みを代わることもできません。だから、教えてください。何が足りないのか。何があれば、生きていけるのか――私に、何ができるのか」
ニコラスの顔が歪んだ。
彼は怒鳴るでもなく、泣くでもなく、ただ両手で顔を覆った。
「……遅いんだよ」
「はい」
「もっと早く、誰かが来てくれればよかったのに」
「はい」
マリア様は、その言葉を受け止めた。
反論も慰めもしなかった。
ただ、逃げずにそこにいた。
城に戻ると、彼女はすぐに制度案を組み直した。
俺も前世の知識を使い、工房の設計と年金の枠組みを書いた。
マリア様は俺の案を読み、ひとつずつ問いを重ねた。
「クロード様。前世では、これでうまくいったのですか」
「すべてが、ではありません」
「では、そのまま真似てはいけませんね」
「はい」
俺は頷いた。
「前世の仕組みを、そのまま持ち込んでは失敗します。大切なのは形ではなく、なぜその仕組みが必要だったかです」
「理由を学び、形はこの国に合わせる」
「貴方なら、それができます」
彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから笑った。
「では、手伝ってください。私の知らない理由を、教えてください」
その言葉に、胸の奥が静かに熱くなった。
自分の知識を、初めて自分のためではない誰かの未来に使っている。
そう思った。
制度が王都で動き始めるまで、半年。
各領へ広がるまで、さらに一年。
義肢工房は止まりかけ、年金制度は疑われ、軍部も貴族も反発した。
それでもマリア様は、ひとつずつ逃げずに向き合った。
十七の冬が終わる頃、北方第三歩兵隊から一通の手紙が届いた。
差出人は、ニコラス・ヘイン。
そこには、不格好な文字で、妹が今年も学校に通えたと書かれていた。
自分は義肢工房の見習いになった、とも。
マリア様はその手紙を、しばらく黙って見つめていた。
そして、いつものように机の端へ丁寧に置いた。
その机の端には、もう何枚もの手紙が積まれていた。
覚えた名前の数だけ、彼女は紙を重ねていく。
気づけば、俺はその横顔を見ていた。
「……クロード様」
「はい」
「私の顔に、何かついていますか」
「いいえ」
俺は書類へ視線を戻した。
戻したつもりだった。
もう一度顔を上げると、彼女もまた、こちらを見ていた。
「……お互い様ですね」
俺は答えなかった。
代わりに、口の端がわずかに上がるのを、止められなかった。
その手紙の上に、次の問題が重なる。
敵対国リュゼルとの外交だった。
◆◆◆◆◆
私、アリア・ファン・ヴィルヘイムは、最初それを運だと思っていた。
姉はたまたま、クロード・レイ・グリンガルに選ばれた。
たまたま、貧民街の件がうまくいった。
たまたま、兵士たちに受け入れられた。
そう思おうとした。
けれど、私の周りからは、少しずつ人が減っていった。
最初に変わったのは、文官たちの視線だった。
以前は私が何かを言えば、彼らはすぐに頷いた。
「素晴らしいお考えです、アリア殿下」
そう言って、案の中身など見もせずに書き留めた。
けれど最近は違う。
私が提案すると、彼らは一拍置くようになった。
そして誰かが必ず、遠慮がちにこう言う。
「その件につきましては、マリア殿下の施策と重複する可能性が」
マリア。
また、マリア。
姉の名が、私の部屋で口にされる。
それが耐えがたかった。
「では、もっと華やかな施策を考えなさい」
私がそう言うと、傍らの子息の一人がすぐに頷いた。
「もちろんです。アリア様は民に希望を与える存在。姉君のように泥臭い仕事などなさる必要はありません」
その言葉に、私は少しだけ救われた。
救われた、はずだった。
けれど胸の奥に、ほんの小さな空洞が残った。
また、顔。
また、美しさ。
また、私が何をしたかではなく、私がどう見えるか。
以前なら、それで十分だった。
誰かが私を美しいと言えば、それだけで満たされた。
けれど最近は、その言葉が肌の上を滑っていくだけで、胸の奥まで届かない。
それでも私は、その違和感に気づかないふりをした。
だって、それを認めてしまえば、私の周りにあるもののほとんどが、ひどく軽いものになってしまう気がしたから。
そうだ。
私は希望だ。
姉は泥の中を歩けばいい。
私は光の中に立っていればいい。
そう思って、私は次の慰問に向かった。
帰還兵の施設だった。
美しい花を用意し、最も似合う薄桃色のドレスを選んだ。
鏡の中の私は、完璧だった。
だが施設に入った瞬間、兵士たちの視線が私を通り過ぎた。
彼らは入口の向こうを見ていた。
誰かを探すように。
「……マリア様は、今日は来られないのか」
誰かが小さく呟いた。
聞き間違いだと思った。
けれど、隣の兵士が答えた。
「今日は会議だとよ。義肢工房の件で」
「そうか。なら仕方ねえな」
手の中で、花束がかすかに揺れた。
私は微笑んだ。
いつものように。
「皆様の勇気に、心より感謝いたします」
返ってきた拍手は、礼儀正しいものだった。
けれど、熱がなかった。
私が花を差し出した兵士は、それを受け取りながら、目を伏せた。
「あの、ありがとうございます」
「いいえ。あなた方は国の誇りですもの」
「……はい」
そこで会話は途切れた。
以前なら、私が微笑むだけで相手は頬を染めた。
言葉を探し、名誉だと震え、もう一度お会いできるなら死んでもいいとまで言う者もいた。
なのに、この兵士はただ、困ったように花を見ていた。
「その花、お嫌い?」
「いえ。綺麗です」
彼はそう言った。
ただ、次に続いた言葉が、私の胸を刺した。
「花の名前は、よく知りませんけど」
綺麗だとは思う。
けれど、名前は知らない。
それは花の話だったはずなのに、どうしてか、私自身のことを言われたような気がした。
帰りの馬車で、私は花を一本抜き取り、膝の上で握りしめた。
花びらは柔らかく、簡単に潰れた。
それでも、まだ美しかった。
そのことが、なぜかひどく腹立たしかった。
◆◆◆◆◆
敵対国リュゼル。
その王国は、長年ヴィルヘイムと緊張関係にあった。
その名が会議で出た瞬間、部屋の隅に控えていたサーラの指先が、ほんのわずかに止まった。
会議の後、私は彼女を呼び止める。
「サーラ。リュゼルに、何かあるのですか」
サーラは少しだけ沈黙した。
「……母の故郷です。ですが、私情を政に挟むつもりはございません」
「私情ではありません。知るべきことです」
その翌日、私は治安局が作った一枚の名簿を目にした。
王都に住むリュゼル系住民の監視名簿。
その中には、サーラの名もあった。
「却下します」
私は局長の前で、その書類を机に置いた。
「リュゼルの血を引くというだけで疑うのですか」
「外交を控えた今、警戒は当然です」
「何もしていない者を敵として扱えば、本当に敵になります」
局長は言葉を詰まらせた。
「監視ではなく、保護に改めてください。嫌がらせや暴力が起きた時、王家が責任を持って守るための名簿として」
執務室へ戻る途中、サーラが静かに頭を下げた。
「母は、どちらの国にも守られませんでした」
その声は、少しだけ掠れていた。
「サーラ。リュゼルの礼法を教えていただけますか」
「……私などでは」
「私は、あなたにこそ教わりたいのです。知らないまま、踏みにじらないために」
サーラはしばらく黙った後、ほんのかすかに笑った。
「母が知っていた範囲でよろしければ」
そう答えたサーラの声は、いつも通り静かだった。
けれどその日だけは、伏せた睫毛の下に、ほんのわずかな光が見えた気がした。
その夜から、私はリュゼルの言葉と礼法を、もう一度学び始めた。
資料には載らない、誰かの故郷としてのリュゼルを知るために。
◆◆◆◆◆
「リュゼルでは、女性が夫以外の男性の前で顔を晒すことを避ける文化があります。それに対し、わが国では美しく着飾ることこそが相手への誠意、礼儀だとされています」
「……何をおっしゃられたいのでしょう?」
「改めて、相手の文化を尊重すべきではないでしょうか」
「殿下。外交とは力です。こちらが大国である以上、小国の風習に過度に合わせる必要はありません」
「……相手の礼を踏みにじっておいて、敬意を得られるとは思えません」
「しかし、アリア殿下が接待された折には、使節団も笑顔を見せておりました」
彼の声には、暗に私を比べる響きがあった。
私はそれに慣れている。
けれど、慣れていることと傷つかないことは違う。
その時、背後に控えていたクロード様が静かに口を開いた。
「笑顔と好意は同義ではありません」
会議室が静まった。
「屈辱を受けた時、人は怒鳴るとは限りません。笑って席を立ち、後で刃を研ぐ者もいます」
文官は顔をしかめたが、反論しなかった。
最終的に、私は次の会談に同席することを許された。
ただし、条件つきで。
失敗すれば、外交から手を引くこと。
当日、私は銀灰の髪をすべて薄布の内側へしまい、顔をヴェールで覆った。
装飾は最小限。
肌を見せず、視線を落とし、相手国の礼法に従って入室する。
隣に立つクロード様が、ほんの少しこちらを見た。
「お似合いです」
「顔も見えないのにですか」
「ええ」
短い返事だった。
それだけで、胸が落ち着いた。
リュゼルの大使は、最初から険しい顔をしていた。
白い髭を整えた老大使で、こちらの椅子に座る前から不信を隠そうともしていない。
私は彼の前に進み、学んだ通りに一礼した。
そして、リュゼル語で口を開く。
「遠き砂の国よりお越しいただき、感謝いたします。まず、これまで我が国が貴国の礼を知らず、幾度も不敬を重ねたことをお詫び申し上げます」
通訳が息を呑んだ。
老大使の瞳が、初めて私を捉える。
「……今、何と」
彼はリュゼル語で問うた。
私は同じ言葉で答えた。
「貴国の言葉でなければ、謝罪は届かないと思いました」
老大使は黙った。
長い沈黙だった。
文官たちは不安げに身じろぎしたが、私は動かなかった。
やがて老大使は、深く息を吐いた。
「ヴィルヘイムの姫は、皆、己の美しさを武器にするものと思っていた」
その言葉に、背後の誰かが息を詰める。
けれど、私は傷つかなかった。
ヴェールの内側で、ただ静かに答えた。
「私にその武器はありません。ですから、他の形で向き合いたいと思います」
老大使の表情が変わった。
怒りではない。
嘲りでもない。
彼は私を見ていた。
初めて、私という人間を。
「……貴女の名を伺いたい」
「マリア・ファン・ヴィルヘイムです」
「マリア殿下」
老大使は、ゆっくりと頭を下げた。
「本日の出会いを、我が王へそのまま伝えましょう」
会談は予定時間を大幅に超えた。
交易路の再開、国境付近の巡礼者保護、文化使節の交換。
それまで何年も停滞していた話が、一日で動き始めた。
退室の直前、老大使は私に近づき、小さな箱を差し出した。
中には、砂色の石でできた月の飾りが入っていた。
「我が国では、月は旅人を導くものとされています」
彼は穏やかに言った。
「貴女が王位に就かれるなら、我が国はその治世の間、盟友でありたい」
その瞬間、会議室の空気が変わった。
誰も、私の容姿の話をしなかった。
誰も、妹の名を出さなかった。
ただ、私の言葉と行動だけが、そこにあった。
会議室を出た後、緊張が切れて、私は廊下の壁に手をついた。
「殿下」
クロード様がすぐに支えてくれる。
「……足が、少し」
「よく耐えられました」
「震えていましたか」
「少しだけ」
「気づいていたのですね」
「いつも見ていますから」
また、その言葉だ。
私はヴェールの内側で顔が熱くなるのを感じた。
「……私も、見ていました」
「何をですか」
「クロード様が、ずっと私の味方でいてくださることを」
彼は一瞬だけ黙った。
そして、いつもの静かな声で言った。
「たとえ、世界の誰もが敵になろうと、それだけは変わりません」
ヴェールがあってよかった。
そうでなければ、私はきっと、隠しようもなく笑ってしまっていた。
◆◆◆◆◆
姉の外交成功は、王都中に広まった。
それは貧民街や帰還兵の時よりも、はるかに速かった。
なぜなら貴族たちにとって、外交成果は分かりやすい名誉だったからだ。
朝の茶会で、私はいつものように席についた。
周囲の令嬢たちは、最初こそ私の髪飾りを褒めた。
ドレスを褒めた。
肌を褒めた。
けれど、話題はすぐに姉へ移った。
「マリア殿下がリュゼル語をお話しになったそうですわ」
「しかも、礼法も完璧だったとか」
「老大使が涙ぐまれたという話、本当かしら」
私は微笑みながら、カップを持ち上げた。
陶器が指先で震える。
「姉は昔から勉強熱心でしたもの」
そう言うと、令嬢たちは一瞬だけ黙った。
以前なら、彼女たちは私に同調した。
さすがアリア様。
お優しいのですね。
マリア様も、妹君にそう言っていただけて幸せでしょう。
けれど今、彼女たちは気まずそうに視線を交わした。
「ええ、本当に。マリア殿下は素晴らしい方ですわ」
誰かがそう言った。
私ではなく、姉を褒めた。
私の前で。
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
音を立てて、嫌なものが割れていく。
私はカップを置いた。
「そうね」
笑顔は崩さなかった。
「本当に、素晴らしい姉ですこと」
茶会が終わると、私は自室へ戻り、髪飾りを外した。
銀の飾りが鏡台に落ち、高い音を立てる。
鏡の中には、いつも通り美しい私がいた。
けれど、その美しさは何もしてくれなかった。
文官の沈黙を変えてくれない。
兵士の冷めた目を変えてくれない。
令嬢たちの話題を私へ戻してくれない。
「アリア様、ご安心ください」
傍らの子息が慌てたように言った。
「姉君の活躍は一時のものです。民はすぐに、真に美しいものへ戻ってまいります」
「そうでしょうか」
「もちろんです。皆、アリア様のお顔を見れば――」
私は、彼の言葉を最後まで聞けなかった。
「顔」
ゆっくりと、彼を見た。
「あなたは、私の顔以外に、何を見ているの」
子息は言葉に詰まった。
その沈黙が、答えだった。
私の周りにいた者たちは、私を見ていたのではない。
私の顔を見ていたのだ。
そのことに気づいた瞬間、私はたまらなくなって笑った。
笑うしかなかった。
だって、私はそれを望んでいたはずなのだから。
美しいと言われることを。
愛らしいと称えられることを。
誰よりも多くの視線を集めることを。
なのに。
なぜ、こんなにも空っぽなのだろう。
◆◆◆◆◆
マリア様が十八を迎える春、王位継承を決める投票の日が近づいた。
十五の選定の日から、三年。
城の空気は、露骨に変わっていた。
以前は妹姫の部屋へ流れていた人の波が、少しずつマリア様の執務室へ向かうようになった。
請願書が届く。
献策が届く。
協力の申し出が届く。
そのすべてを、マリア様は丁寧に読もうとする。
だから俺は、読ませる順番を決め、不要なものを弾き、必要なものだけを彼女の手元に置いた。
「クロード様」
「はい」
「もしかして、私に渡す前にかなり減らしていますか」
「はい」
「隠し事では?」
「私が信用できませんか」
「……卑怯です」
彼女は不満そうに眉を寄せたが、すぐに小さく笑った。
その笑みに、俺は一瞬言葉を失いかける。
最近、そういうことが増えた。
書類に目を落とす横顔。
誰かの話を真剣に聞く瞳。
疲れを隠して微笑む口元。
どれも、気づけば目で追っている。
書類上の成果は十分だった。
貧民街の死亡率は下がり、雇用は増えた。
帰還兵の再就職制度は各地へ広がり、軍の士気は目に見えて上がった。
リュゼルとの交易路が再開し、国庫には新たな収入が生まれた。
数字だけ見ても、負ける要素はない。
それでも、彼女は不安そうだった。
◆◆◆◆◆
扉を叩く。
返事はない。
そっと開けると、マリア様は机に突っ伏して眠っていた。
積み上がった書類の端を枕にして、かすかな寝息を立てている。
手元には、最後の演説草稿があった。
何度も書き直したのだろう。
紙の隅には、薄く滲んだ跡がある。
泣いたのか。
インクをこぼしただけか。
確かめることはしなかった。
ただそばに立ち、月明かりに照らされたその顔を眺める。
くすんだ銀灰の髪が頬に張りついている。
重たげな一重の瞳は、今は穏やかに閉じられていた。
眠る横顔を見ていると、あの日の光景が重なってくる。
貧民街の路地で膝をついた背中。帰還兵の前で逃げなかった目。老大使に向けて、震えながら一礼した肩。
――美しいとは、こういうことを言うのか。
前世でも今世でも、そんな言葉を本気で口にしたことはなかった。
だから上手くは言えない。ただ、目が離せなかった。
自分の上着をそっとかけ、灯りを落とす。
扉を閉める直前、俺はもう一度だけ彼女を見た。
正直、結果はどちらでもよかった。
俺の人生は、彼女のおかげで輝いた。
ただ惰性で生きてきた俺に、自分から動くことの意味を教えてくれた彼女には、感謝などという言葉では足りない。
見た目は重要か。
クロード・レイ・グリンガルは今、そう問われればこう答える。
――重要だ。ただし、条件付きで。
なぜなら、彼女の顔を見ているだけで、これほど胸が高鳴るのだから。
彼女以外は、見えないほどに。
◆◆◆◆◆
投票結果が発表される朝、私はいつもより早く目を覚ました。
クロード様の上着が、肩に掛かっていた。
私はしばらく、それを見つめていた。
いつからだろう。
彼の気配に安心するようになったのは。
彼の足音を聞き分けられるようになったのは。
彼に見られていると分かるだけで、背筋を伸ばせるようになったのは。
自信が、持てるようになったのは。
見た目は重要か。
マリア・ファン・ヴィルヘイムは今、そう問われればこう答える。
――重要ではない、と。
あの人は、私を見てくれた。
容姿ではなく、私が何を考え、何のために動いているのかを。
今、私の周りには、以前が嘘のように人がいる。
けれど、どれだけ容姿の優れた人に微笑みかけられても、心が動いたことはなかった。
もっと美しい人なら、いくらでもいる。
それでも、構わない。
書類を置いていく彼の背を、目で追うようになった。
その一言が聞きたくて、余分な報告書を作るようになった。
呼ばれもしないのに、彼の声が聞こえるたび耳を澄ませるようになった。
答えは、とうにわかっていた。
ただ、言葉にする勇気がなかっただけで。
あの人の前に立つと、心臓が――鳴るのだから。
広間に入ると、そこには多くの人がいた。
かつて私は、こういう場に立つたび、誰も私を見ていないと思っていた。
実際、そうだったのだろう。
今は違う。
視線がある。
期待がある。
重い。
怖い。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
隣にクロード様が立っている。
ただそれだけで、私は前を向けた。
宰相が投票結果を読み上げる。
最初の言葉は、耳に入らなかった。
ただ、広間の空気が変わるのが分かった。
歓声が上がる。
誰かが私の名を呼ぶ。
マリア様。
マリア女王。
その言葉が幾重にも重なり、胸に押し寄せてくる。
私は勝ったのだと、遅れて理解した。
広間の隅で、何かが崩れていく気配があった。
かつて妹を取り囲んでいた令息たちだ。
ひとりが青ざめ、ひとりが隣の肩を掴み、声にならない声で罪をなすり付け合っている。
三年前、私があの一室に入った時、誰ひとり振り向かなかった者たち。
その全員が今、私を見ていた。
――勝った。
もう一度、確かにそう思う。
けれど私は、その光景に長く目を留めなかった。
見たいものは、そこにはなかったから。
振り返る。
クロード様が、いつもと変わらない静かな顔でこちらを見ていた。
けれどその瞳だけは、柔らかかった。
「おめでとうございます、殿下」
「……まだ、殿下なのですか」
「戴冠までは」
こんな時まで真面目なのだから、恨めしい。
私は笑った。
すると彼も、かすかに笑った。
その瞬間、歓声も、視線も、王座さえも遠くなる。
私の世界には、ただ彼の黒い瞳だけがあった。
「では、戴冠したら」
「はい」
「最初に、私の願いを聞いてくださいますか」
クロード様は、わずかに目を細めた。
「女王陛下のご命令であれば」
「命令ではありません」
私は首を横に振った。
「お願いです」
そう言うと、彼は黙った。
広間の熱が遠ざかる。
私たちの間にだけ、静かな時間が落ちた。
「クロード様」
「はい」
「これからも、私の騎士でいてくださいますか」
「望まれる限り」
「では、望みます」
息を吸う。
心臓が、うるさいほど鳴っていた。
「騎士としてだけではなく、私の隣に。生涯」
クロード様の表情が、初めてはっきりと揺れた。
私を見つけてくれた人。
いつも私を支えてくれた人。
私が、ずっと目で追っていた人。
彼はゆっくりと膝をついた。
かつて護衛騎士の誓いを立てた時と同じように。
「十五のあの日、貴方を選んだ時から」
低い声が、広間のざわめきの中で確かに届く。
「私の行き先は、決まっていました」
彼は私の手を取った。
「マリア・ファン・ヴィルヘイム殿下。いずれ女王となられる貴方に、改めて誓います」
黒い瞳が、まっすぐに私を見ていた。
「貴方が望むなら、私は騎士として、臣下として、そして一人の男として、貴方の隣に立ち続けます」
歓声が、静まっていく。
誰もがこちらを見ていた。
以前の私なら、その視線が怖かった。
けれど今は違う。
私は、見られている。
私として。
マリアとして。
「……では、私も誓います」
震える声で、それでも逃げずに告げる。
「私は女王として、この国を見捨てません。そして、ひとりの女として、あなたを選びます」
クロード様の瞳が、やわらかく細められた。
「光栄です。私の女王陛下」
「……まだ、殿下では?」
「今だけは、先に言わせてください」
その言葉に、私は堪えきれず笑った。
広間に、拍手が広がっていく。
誰かが祝福の声を上げた。
ユリウスが大げさにため息をつき、レオン様が口笛を吹き、サーラが静かに頭を下げているのが見えた。
玉座の傍らに立っていた母が、静かに頷いた。
「戴冠後、両家の名において正式に婚約を整えましょう」
その一言で、広間の拍手はいっそう大きくなった。
私はクロード様の手を握り返す。
誰も私の前には立たなかった。
そう思っていた。
けれど今、彼は私の隣にいる。
前でも、後ろでもなく。
同じ場所に。
それが、何より嬉しかった。
◆◆◆◆◆
私、アリア・ファン・ヴィルヘイムは、思う。
大国ヴィルヘイム王国の次女として生まれた私は、恵まれた容姿をしていた。
穢れひとつない銀の髪。
ぱっちりとした二重の瞳。
誰もが姫に夢見る姿。
幼い頃から、どこへ行っても人に褒められた。
何もせずとも称賛が集まり、周りに人がいないことなどなかった。
可愛らしい、美しい、愛しい。
成長とともに言葉は変わっても、どれも私を称えるものだった。
だから、それが私なのだと思っていた。
美しい私。
愛される私。
選ばれる私。
投票結果が発表された日、私は初めて知った。
美しさは、誰かの心を永遠に繋ぎ止めてはくれない。
私の周りにいた子息たちは、責任のなすり付け合いを始めていた。
けれどその声は、もう私の中へ入ってこなかった。
私は彼らを見ていたのだろうか。
彼らは私を見ていたのだろうか。
いいえ。
きっと、誰もが見ていなかった。
私たちはただ、互いに都合のよい飾りを見ていただけだった。
部屋に戻り、鏡の前に座る。
そこには、相変わらず美しい女が映っていた。
穢れのない銀の髪。
ぱっちりとした二重の瞳。
皆が褒めた顔。
皆が欲しがったはずのもの。
けれど私は、鏡の中の女を少しも欲しいと思えなかった。
侍女のいない部屋は、驚くほど静かだった。
私は長く、その静けさの中に座っていた。
やがて、扉が叩かれた。
「……誰」
「マリアです」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
「笑いに来たの?」
扉を開けずに問う。
「いいえ」
「では、慰めに?」
「それも違います」
少しの沈黙の後、姉は言った。
「話をしに来ました」
私は迷った。
会いたくなかった。
けれど、会わずにいれば、私はきっと一生この鏡の前から動けなくなる。
「……どうぞ」
扉が開く。
姉は、以前より少し背筋が伸びていた。
銀灰の髪も、重たげな瞳も、昔と変わらないはずなのに。
なぜか、今はそこから目を逸らせなかった。
「お姉様は勝った。私は負けた。それだけでしょう」
「ええ」
「はっきり言うのね」
「あなたに嘘をついても、仕方がありませんから」
私は笑った。
笑ったつもりだった。
けれど声はひどくかすれていた。
「私、何も持っていなかったのね」
その言葉は、思ったより簡単に口から落ちた。
「美しいと言われたわ。愛らしいとも言われた。誰もが私を見ていると思っていた。でも、違った。あの人たちは私を見ていたのではなく、私の顔を見ていただけだった」
姉はすぐには答えなかった。
その沈黙が、責められるより苦しかった。
「お姉様」
「はい」
「私、どうすればよかったのかしら」
姉は私の前に、一枚の書類を置いた。
「これから、知ればいいのではありませんか」
「これから?」
「あなたは負けました。けれど、終わったわけではありません」
「……私に、まだ何かできると?」
「できます。ただし、今までと同じ場所には置けません」
私は書類へ目を落とした。
王都西区慈善院改組案。
孤児、貧民街の子供、戦死者の遺児、リュゼル系住民の子を受け入れる教育院。
「これを、私に?」
「はい」
「私に、泥の中を歩けと?」
声に棘が戻った。
けれど姉は目を逸らさなかった。
昔は、ずっと俯いていたのに。
「あなたの微笑みは、人を惹きつけます。勇気づけ、安心させ、前を向かせることができます」
「……」
「私には、それはできません。だから、その微笑みを飾りにしないでください」
私は書類を見下ろした。
長い沈黙が落ちる。
「私、失敗するかもしれないわ」
「そうかもしれません」
「……」
「でも、私も何度もしました」
思わず、ほんの少しだけ笑ってしまった。
泣きそうな顔のまま。
「ひどい姉」
「王として、あなたにだけ優しくはできません」
姉は私の前に立った。
「アリア。私たちは決して、仲のいい姉妹ではなかった」
「……ええ」
「でも、嫌いでもありませんでした」
初めて聞いた本音。
姉は自分のことを嫌っているのだと思っていた。
「何かをしようとすれば、遠ざけられた、触れさせてもらえなかった。機会を、奪われていた」
「……そうやってずっと、私を憐れんでいたのですか?」
「いいえ」
姉は静かに首を振った。
「そう思わなければ、私は立っていられなかったのです」
自嘲するような笑みに、初めて親近感を抱く。
きっと私も、同じ顔を浮かべていた。
「見捨てるつもりはありません」
胸の奥が、小さく揺れた。
「あなたも、この国の民ですから」
その瞬間、私は両手で顔を覆った。
声を上げて泣くことはできなかった。
ただ、肩だけが小さく震えた。
美しいと言われた私。
愛されると思っていた私。
選ばれるはずだった私。
そのどれでもない私が、初めてそこに残った。
姉は、慰めなかった。
背中をさすってもくれなかった。
ただ、私が顔を上げるまで、黙って待っていてくれた。
◆◆◆◆◆
教育院の初日、子供たちは私を見て黙った。
笑わなかった。駆け寄らなかった。ただ、値踏みするような目でこちらを見ていた。
私はこれまで、子供というものは無条件に笑いかけてくるものだと思っていた。
広場で配ったパンのことを思い出す。
あの時の子供たちは、私に向かって手を伸ばしてきた。
けれどあの子たちは、パンに向かって手を伸ばしていたのだ。
「……名前を、教えてもらえるかしら」
誰も答えなかった。
一番前にいた男の子が、鼻を鳴らした。
「なんで」
「覚えたいから」
「どうせ忘れる」
「……忘れたら、また聞きます」
男の子は私をしばらく見ていた。それから、面倒くさそうに言った。
「ペトル」
私は繰り返した。
心の中でも、もう一度。
ペトル。
ペトル。
姉が、名前を繰り返していた理由が、その時初めて分かった気がした。
翌朝、門の前に立った。
ペトルが来た時、私は彼の名を呼んだ。
彼は立ち止まり、信じられないものを見るような顔をした。それだけだった。
三日目、ペトルが女の子を連れてきた。
「あんた、本当に名前を覚えるつもりなの?」
「ええ」
「じゃあこいつは」
「まだ聞いていません」
女の子が、かすかに笑った。
「カタ」
私はその名を、口の中で繰り返した。
覚えられるまで、何度も。
あの日、私はパンを渡した。
けれど、その子の明日までは見なかった。
見ようと、しなかった。
だから。
今は、それを見届けようと思った。
◆◆◆◆◆
「マリア様」
戴冠式の日、私は薄い銀灰の髪を結い上げ、王冠を受けた。
広間には、かつて私を見なかった人々がいた。
貴族。
文官。
騎士。
民の代表者。
貧民街のリナがいた。
清掃隊のマルクがいた。
片足に義肢をつけたニコラス様がいた。
リュゼルの老大使が、砂色の月飾りを胸に下げていた。
そして、少し離れた席にアリアがいた。
華やかなドレスではなく、簡素な白い衣をまとって。
目が合う。
彼女はためらった後、ゆっくりと頭を下げた。
私は、小さく頷き返す。
すべてが元通りになるわけではない。
けれど、終わりではない。
そのことが、嬉しかった。
戴冠が終わると、広間に一層の歓声が満ちた。
けれど私は、その中から一人の姿を探してしまう。
黒い髪。
青みがかった瞳。
いつも静かに、けれど確かに私を見てくれる人。
クロード様は、広間の端に立っていた。
王配候補として隣に立つこともできたはずなのに、彼は最後まで騎士の位置を崩さなかった。
まったく、彼らしい。
「クロード様」
式が終わった後、私は彼を呼び止めた。
「はい、陛下」
「まだ慣れません」
「慣れていただかなくては困ります」
「では、あなたも慣れてください」
「何にでしょう」
「私の隣に立つことに」
そう告げると、クロード様はわずかに目を見開いた。
「先ほどから、ずっと後ろにいます」
「私は貴方の騎士ですから」
「ええ。ですが、あなたは私の婚約者でもあります」
言ってから、頬が熱くなった。
けれど、もう取り消さない。
「それとも、先日の誓いは忘れてしまいましたか」
「忘れるはずがありません」
クロード様は即座に答えた。
その声があまりに真剣で、今度は私の方が言葉に詰まる。
「では、隣へ」
私は手を差し出した。
彼は一瞬だけ迷った。
それから、騎士としてではなく、一人の男性として、私の手を取った。
温かい手だった。
「陛下」
「はい」
「私は、貴方の隣に立つには、少々口うるさい男だと思います」
「知っています」
「仕事をしすぎれば止めます」
「知っています」
「無茶をすれば叱ります」
「知っています」
「……それでもよろしいのですか」
私は笑った。
「それが理由です」
クロード様は黙った。
けれど、私の手を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。
「陛下は、時々ひどく不意打ちをなさる」
「いつも手玉に取られているので、たまには仕返しです」
そう言うと、彼は小さく笑った。
その笑みを見た瞬間、胸が鳴る。
ああ、と思う。
私はきっと、この先も何度も不安になる。
何度も迷う。
何度も、自分でよかったのかと問い続ける。
けれどそのたびに、この人がいる。
私を飾るためではなく、私を正すために。
私を守るためだけではなく、私と共に歩くために。
見た目は重要か。
かつての私は、迷わず重要だと答えた。
だって、誰もが妹を見ていたから。
誰も、私を見なかったから。
でも今なら、少し違う答えを返せる。
見た目は、きっと重要だ。
ただし、それは顔立ちの美しさだけを指す言葉ではない。
その人が何を見て、何を選び、何を背負ってきたのか。
それは、顔に出るから。
クロード様が、私を見つめている。
瞳に映る私は、妹のように華やかではない。
絵画の姫君のようでもない。
けれど、もう俯かない。
「クロード様」
「はい」
「私、綺麗でしょうか」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
昔の私なら、絶対に聞けなかった問いだった。
クロード様は、少しも迷わなかった。
「ええ」
静かに、けれど確かに答える。
「私の知る誰よりも」
胸の奥が、熱くなる。
泣きそうになった。
けれど、今日は泣かない。
私は女王になったのだから。
そして、恋を知った女でもあるのだから。
「では、クロード様」
「はい」
「これからも、よく見ていてください」
「もちろんです」
彼は私の手を引き、隣へ並んだ。
「いつも見ていますから」
その言葉に、私は笑った。
かつて、誰も私の前には立たなかった。
今、私の隣には彼がいる。
それだけで、私は何度でも前を向ける。
◆◆◆◆◆
後に、マリア・ファン・ヴィルヘイムは賢き女王として名を残す。
貧民街の衛生改革。
帰還兵と遺族を支える制度。
リュゼルとの交易再開。
そして、身分や容姿にかかわらず、人をその名で呼ぶことを重んじた治世。
また、王妹アリア・ファン・ヴィルヘイムも、西区教育院の初代院長として記録に残っている。
はじめ、その名は嘲笑とともに語られた。
美しいだけの姫に、子供たちの泥や涙が扱えるはずがない、と。
けれど彼女は、毎朝必ず門の前に立ち、訪れる子供たちの名を一人ずつ呼んだ。
最初は間違えた。
何度も、何度も。
それでも、彼女は逃げなかった。
やがて教育院の子供たちは、彼女をこう呼ぶようになったという。
綺麗な姫様、ではなく。
アリア先生、と。
そして、女王の傍らには常に、黒髪の王配クロード・レイ・グリンガルがいた。
彼は表舞台に立つことを好まなかった。
けれど女王が迷った時、誰よりも早くその迷いに気づき、必要な言葉を差し出したという。
女王と王配の私的な会話は、ほとんど記録に残っていない。
ただ、晩年の女王が、若き日の自画像を前にしてこう笑ったという記録だけがある。
「私はずっと、自分を美しくないと思っていたのです」
隣にいた王配は、それに対して、若い頃と変わらぬ声で答えた。
「見る目のない者が多かったのでしょう」
女王はしばらく黙った後、少女のように笑った。
「ええ。けれど、あなたは違った」
「当然です」
王配はそう言って、女王の手を取った。
「私の目には、最初からあなたしか映っていない」




