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短編集(恋愛・異世界等)

誰も立たなかった、その場所に

作者: A
掲載日:2021/09/20



 今日も、誰も私の前には立たなかった。


 マリア・ファン・ヴィルヘイムにとって、それは驚くべきことでも、嘆くべきことでもない。

 もはや、ただの日常だった。


 見た目は重要か。

 そう問われれば、私は迷わず答える。


 ――重要だ、と。


 そしてその答えは、残酷なほど正しかった。


 大国ヴィルヘイム王国の長女として生まれた私は、「姫」という言葉がまとっている輝きとは縁遠い容姿をしていた。


 くすんだ銀灰の髪。

 重たげな一重の瞳。

 貴族の令嬢というには、あまりに細い体躯。


 醜い、とまでは言われない。

 比べる相手を選べば、まあ整っているのではないか、と言ってもらえる程度ではあった。


 ただ、不幸なことに。

 私には、比べられる妹がいた。

 よりにもよって、誰もが振り返るほど美しい妹が。


 妹――アリア・ファン・ヴィルヘイムは、人々が姫に夢見る美しさを、そのまま形にしたような少女だった。


 穢れのない銀の髪は、光を受けるたび幻想のように輝く。

 ぱっちりとした二重の瞳は、見る者の心を映し返す湖面のようだった。


 彼女が微笑むだけで、場の空気が変わる。

 何もせずとも人が集まり、言葉をかけずとも人が微笑む。


 私と妹。

 同じ時に、同じ腹から生まれたはずなのに、私たちが背負わされたものはあまりに違っていた。


 名前の響きさえ似ているのに、誰も私たちを呼び間違えなかった。

 その声色が、誰を呼んでいるのかを、何より雄弁に語ってしまうからだ。


 ヴィルヘイム王国は、建国以来、女王が治める国である。

 王家の子が十八を迎える年、次代の王が選ばれる。継承権を持つ者が複数いれば、国民の投票によって王位継承者が定められる。

 母は、どちらが継いでもよいと言った。


 けれど私は知っていた。

 その期待が、どちらへより深く傾いているのかを。


 妹が民衆に手を振る。

 子供たちは笑顔で駆け寄り、誰が先に触れてもらったかで喧嘩になる。


 私が民衆に手を振る。

 親が子の手を掴み、礼儀だからと無理やり振らせる。


 妹が文官と政を語る。

 かつて私の口から出て却下された案でさえ、彼女が語れば喝采を浴びる。


 私が文官と政を語る。

 一応の相槌は返ってくる。けれど、次の瞬間には妹の案が採用されている。


 妹が貴族の子息に挨拶される。

 山のような贈り物と、美麗な言葉の雪崩とともに。


 私が貴族の子息に挨拶される。

 儀礼の一言だけを置いて、彼らはすぐに背を向ける。


 仕方のないことだと、もう諦めていた。

 王族にとって、見た目は重要だ。


 ただ――たったひとりでよかった。


 王になれなくてもいい。

 他の誰にも振り向かれなくてもいい。

 私のことを見つけてくれる人が、たったひとりいればよかった。


 民のために過去の政策を調べ、新しい案を練っても。

 外交のために他国の言葉を覚え、その文化を学んでも。

 家臣のために自ら足を運び、その顔と名と、家族の名前まで記憶しても。


 誰の目にも、妹しか映っていないのだから。



◆◆◆◆◆



 見た目は重要か。

 クロード・レイ・グリンガルは、そう問われればこう答える。


 ――重要ではない、と。


 大国ヴィルヘイム王国の公爵家、その長男として生まれた俺には、前世の記憶がある。


 前世の俺は、美人の姉三人に囲まれて育った。

 客観的に見れば、全員が絵に描いたような美女だったと思う。

 そこは認める。


 ただし、誰も家事をしなかった。

 そして、してもらうことに感謝もしなかった。

 無気力。夢追い。自由奔放。

 我が姉たちは、ダメ人間の見本市のような面々だった。


 顔が良いことと、誠実であることは、まったく別の話だ。


 前世の俺は、必要なことを必要なだけ片付けていた。

 家事も、手続きも、面倒な調整も。


 感謝されることはほとんどなかったし、望まれることもなかった。

 いて当然。

 やって当然。

 俺はただ惰性で、自分の人生を片付けていた。


 ただ――ひとつだけ、望みがあった。

 俺だけを見てくれる人を、たったひとりでいいから見つけたい。

 そう願いながら、俺はそれを自分から拾いに行こうとはしなかった。


 それが、前世における唯一の後悔だった。


 だから今世では、少しだけ変わることにした。

 グリンガル公爵家に生まれた俺は、前世で見聞きした知識を使い、借金まみれだった領地を立て直した。

 井戸の管理。街路の清掃。倉の記録。職人の育成。


 ただし、前世の仕組みをそのまま持ち込めば、たいてい失敗する。

 なぜそれが必要だったのか。掬うべきは、そこだけだ。


 そうして領地は、どうにか息を吹き返した。


 公爵家への貢献は、もう十分に果たしている。

 これ以上、権力争いに巻き込まれる義理はない。


 そう思っていた。

 今日、この日までは。



◆◆◆◆◆



 今日は、護衛騎士の選定が行われる日だった。

 目が覚めた瞬間から、気持ちは沈んでいた。


 ヴィルヘイム王国では、王族が十五を迎える年に護衛騎士を得る。

 選ぶのは、王族ではない。四大公爵家の子息たちだ。

 王とは、人に選ばれてこそ王である――この国は、建国以来そう信じてきた。

 だから誰もが、勝ち馬の手綱を握りたがる。

 優れた騎士はやがて王配となり、次の勢力図を描く。水面下の駆け引きは、とうに始まっているのだろう。


 けれど、私は何もしなかった。

 燃え盛る炎にコップ一杯の水をかけたところで、何の意味もない。


 今年は、四大公爵家すべてに年頃の子息がいる。

 つまり、選定の間には四人全員が揃うはずだった。


 扉を開け、私はその部屋へ足を踏み入れる。

 見届け人である宰相は、まだ姿を見せていなかった。


 けれど、妹の周囲にはすでに三人の令息が集まっていた。

 いずれも絵になるほど麗しく、大貴族の嫡男としての風格をまとっている。


 ああ、やはり。

 こんな茶番、早く終わってくれればいい。


 そう思いかけて、私は違和感に気づいた。

 三人?

 一人、足りない。


 視線を巡らせると、部屋の端の椅子に深く腰を下ろし、目を閉じている青年がいた。

 その瞳が、静かに開く。


 闇よりも深い黒い髪。

 夜の湖面を思わせる青みがかった瞳。

 冷たく、けれど揺るがない眼差しに、一瞬、息を呑んだ。


 あの特徴は、おそらくグリンガル家のクロード様だ。

 けれど、なぜ彼は妹の傍らにいないのだろう。


 私の想像では、四人全員が当然のように妹のそばへ侍り、宰相がそれを見届け、何事もなく終わるはずだった。


 だから、さっぱり理解が追いつかなかった。



◆◆◆◆◆



 今日は、護衛騎士の選定が行われる日だった。

 目が覚めた瞬間から、憂鬱で仕方がなかった。


 王族が十五を迎える年、護衛騎士を得る。

 公爵家は、選ばれる側ではなく選ぶ側だ。

 その仕組みのせいで、俺は強制的にこの場へ引きずり出されている。


 他の公爵家の連中は、権力への欲を隠そうともしない。

 だが俺には関係がなかった。


 のんびりできそうな方に、ひっそりつく。

 それだけでいい。


 選定の間に入ると、他の公爵家の子息たちがこちらを警戒するように睨んできた。

 待て。俺は敵じゃない。

 むしろ負け馬に乗るつもりでいる。そんな目の敵にしないでほしい。


 少し待つと、妹姫が先に入ってきた。

 さっきまで牽制し合っていた三人が、何事もなかったかのように彼女のもとへ寄っていく。

 甘ったるい賛辞が、子守歌のように室内へ流れた。


 俺は椅子に深く沈み、目を閉じる。

 意識が、ほんの一瞬だけ遠のいた。


 そして目を開けた時、そこにひとりの女性が立っていた。


 くすんだ銀灰の髪。

 重たげな一重の瞳。

 おそらく、姉の方だ。


 目が合った。

 驚いたような、諦めたような――それでいて、かすかに何かを期待しているような顔だった。


 知っている、と思った。


 俺は、あの目を知っている。

 消えかけているわけではない。

 まだ消えていない目だ。


 燃えているわけではないのに、消えてはいない。

 ただ、誰にも見つけてもらえないまま、ずっとそこにある。


 前世の俺も、きっとあんな顔をしていた。

 願うばかりで、自分から掴みに行かなかった俺も。


 だからだろうか。

 気づいた時には、立ち上がっていた。

 椅子を引く音が、やけに静かな部屋に響く。


 周囲の視線がこちらへ向く。

 構わなかった。


 俺の足は、最初から一方向しか向いていなかった。



◆◆◆◆◆



「……あの。いま、なんと」


 私は多くの言語を話せる。

 けれどこの時、彼の言葉は、一度も耳にしたことのない異国の言葉のように聞こえた。


「聞こえませんでしたか。私はクロード・レイ・グリンガル。グリンガル公爵家の嫡男です。貴方の騎士となる誓約を賜る機会を、と申し上げました」


 まっすぐな言葉だった。

 だからこそ、私はそれに不慣れで、何を返せばいいのかわからなくなる。


「……いえ。それは聞こえました。ただ、相手を間違えているのではありませんか」


 揶揄われているのだろうか。

 一瞬そう思ったが、妹も私と同じように怪訝な顔をしていた。ならば、それも違うのだろう。


「この部屋に王族は二人しかいないのですよ? 間違えようがございません、殿下」


 彼は、私に考える時間を与えるつもりがないらしい。

 頭が状況に追いつかないうちに、彼は腰の剣を抜き、柄をこちらへ向けた。


 そして、静かに騎士の誓いを紡ぐ。

 まるで最初から、そうすると決めていたかのように。

 戸惑った顔の宰相から紋章入りのペンダントを受け取ると、彼はそれを身に着け、こちらへ歩いてきた。


「では、殿下。参りましょう」

「え、ええ」


 騎士が決まらなかった時の対応なら、考えてきた。

 けれど、この状況はまったく想定していない。

 私は促されるまま、彼の後をついていくしかなかった。


「……クロード様」

「はい」


 廊下には、互いの靴音だけが響いていた。

 冷たい空気が頬に触れ、それが少しずつ私を現実へ引き戻していく。


「どうして、私を選んだのですか」


 彼は少しだけ歩を緩めた。

 けれど、振り返りはしなかった。


「どうして、と聞くのですか」

「……誰も、選ばないからです」


 聞かないわけがなかった。

 けれど、簡単に思いつくはずの問いに、しばらくの沈黙があった。


「それが理由です」


 意味を問い返すことはできなかった。

 その声には、説明の続きを求める余白がなかったからだ。


 彼は正面を向いたまま、緩めた歩幅をそのままに、静かに廊下を進んでいく。


 私は、自分の頬が熱いことに気づいた。


 こういうことは、初めてだった。



◆◆◆◆◆



 選定の日から、ひと月も経たないうちに、私の執務室は変わり始めた。

 最初に変わったのは、扉の前だった。


 それまで、私の執務室を訪れる者はほとんどいなかった。

 書類を持ってくる文官も、妹の部屋へ向かう途中でついでに寄る、という態度を隠そうとしない。

 侍女も必要最低限の茶を置けばすぐに去っていく。

 護衛など、廊下の端に立っているだけで、私の顔を見ることすら稀だった。


 けれどクロード様が私の騎士になってから、扉の前には彼が立つようになった。


 静かに、けれど確かに。

 誰かが私を軽んじた声を出せば、その視線だけで黙らせる。

 誰かが妹の部屋へ行く前のついでのように書類を置こうとすれば、淡々と問いただす。


「この決裁は、マリア殿下の判断を仰ぐためのものですか。それとも、アリア殿下の承認が得られなかった残り物ですか」


 そのたびに、相手は顔を赤くしたり青くしたりしながら、言葉を失った。

 私は最初、何度も止めようとした。

 どうか波風を立てないでください、と。

 けれど彼は、いつも同じように答えた。


「貴方は、決して軽んじられていい方ではありません」


 その言葉に、私は何も言えなくなった。

 そしてある日、彼は私が過去に書いた政策案の束を、どこからか持ち出してきた。

 私が机の下の箱に押し込み、誰にも見せることなく、ただ自分の未練として保管していたものだった。


「殿下」

「……それは」

「なぜ、これを眠らせているのですか」


 責める声ではなかった。

 けれど、私は思わず視線を逸らした。


「誰も、読まないからです」

「では、読む者を連れてきます。他に必要な者たちも」


 彼はそう言った。

 冗談だと思った。


 でも、その数日後。

 私の執務室には、三人の見知らぬ人物が立っていた。


 一人目は、長い髪を無造作に結った痩せた青年だった。

 ぎらぎらとした目をしていて、礼をする角度すら妙に浅い。


「王立学園首席卒業、ユリウス・バルト。思想が危険すぎるとのことで、仕官先をすべて断られた男です」

「貴族制度とは歴史的に見て寄生構造であり、民の労働から搾取することで成立している権力装置で――」

「発言は必要な時だけにしてください」


 クロード様が遮ると、ユリウスと名乗った青年は不満げに唇を尖らせた。


 二人目は、片目を眼帯で覆った長身の男だった。

 騎士服は着ているが、着崩し方がひどく、口元には軽薄な笑みを浮かべている。


「元北方騎士団所属、レオン・ガル。兵の待遇改善を訴えて左遷された後、上官を殴って最下層に落とされた剣士です」

「紹介がひでえな。せめて情熱的な問題児って言ってくれよ」

「事実を述べただけです」


 三人目は、褐色の肌を持つ侍女だった。

 艶やかな黒髪を布で隠し、伏せた目は従順そのものに見える。

 けれど、その指先だけが妙に静かだった。


「サーラ。母方にリュゼルの血を引くため表の職を閉ざされ、裏の仕事を請け負っていた者です」

「恐れながら、殿下。お命を狙うよう命じられておりましたが、こちらの剣士殿に見つかりましたので、降伏いたしました」

「……待ってください。今、とても聞き逃せないことを言いませんでしたか」

「ご安心ください。既に処理済みです」


 クロード様は平然としていた。

 私は額に手を当てた。


 その日から、私の執務室は騒がしくなった。



◆◆◆◆◆



「ですから、貧民街の衛生改善には、富裕層から徴収した追加税を投入すべきです」


 ユリウスが眼鏡の奥で目をぎらつかせながら、机に広げた試算表を指で叩いた。


「財源としては十分です。むしろ、これまで彼らが蓄えてきた富を考えれば、まだ足りないくらいで――」

「反乱が起きます」


 クロード様が、書類から目を上げずに言った。


「ならば、反乱を起こす余裕もないほど課税を」

「却下です」

「なぜですか」

「その前に、国が割れます。そして、負担は下の者にいく」


 ユリウスは心底不服そうに唇を曲げたが、反論の言葉は見つからなかったらしい。

 代わりに、試算表の端へ乱暴に羽ペンを走らせ始めた。

 その横では、レオン様が椅子の背にもたれ、まるで仕事をする気のない顔で私に笑いかけている。


「なあ、姫様。今日こそ俺と素敵な夜を過ごさないか」

「レオン」


 いつの間にこちらに来ていたのだろう。

 クロード様が、彼の前に一枚の紙束を置いた。


「昨夜の件について、報告書がまだです」

「へいへい。坊ちゃんはいつも手厳しいな」

「その分の報酬は支払っていると思いますが」

「まぁ、それもそうか」


 レオン様は首をすくめて、結局は紙束を受け取った。

 すると今度は、部屋の隅に控えていたサーラが音もなく近づいてきた。


「殿下」

「はい」

「廊下で聞き耳を立てていた者が二人。片方はアリア殿下付き、もう片方は財務卿の手の者です」

「……どうしてすぐに分かるのですか」

「気配が下手すぎます」


 サーラは淡々と答えた。

 そのあまりの平静さに、私は思わずクロード様を見る。

 けれど彼は驚くでもなく、当然のように頷いただけだった。


「追い払いますか」

「いいえ。聞かれて困る話は、もう終えました」


 そう言って、クロード様は私の前に新しい書類を置く。


「では殿下。次は、聞かれても構わない話をしましょう」


 かつて人の声などほとんどしなかった私の部屋は、毎日、音で溢れるようになった。

 だから私も、彼らに報いるために、今まで以上に働きたいと思うようになった。


 けれど、そう思うたびに、クロード様は静かに私の手元の書類を取り上げる。


「今日はここまでです」

「ですが、まだ――」

「貴方が倒れれば、誰がこの先を進めるのですか」


 言葉は厳しいのに、目は少しも冷たくなかった。


「別に、頑張りすぎなくても大丈夫ですよ」

「……クロード様には、何でもお見通しなのですね」

「いつも見ていますから」


 その言葉に、頬が熱くなる。

 妹のような白い肌でなかったことに感謝する日が、まさか来るとは思っていなかった。


 けれどきっと、クロード様は気づいている。

 いつからか見せるようになった静かな笑みが、こちらへ向けられていた。


「……わ、私も、いつも見ていますよ」

「知っています」


 意趣返しのつもりで告げた言葉に、より深い笑みが返ってくる。


 クロード様は卑怯だ。

 最初から私を手玉に取って、いらぬ心労ばかり与えてくる。


 けれどそれは、不思議と嫌なものではなかった。


「結果がどうなろうと、私の主は貴方です。殿下」


 最初は、どうせ負けると思っていた。

 妹に任せればいいとも思っていた。


 でも今は――これ以上ないほどに、走り回っている。



◆◆◆◆◆



 最初に大きく動いたのは、貧民街の問題だった。


 きっかけは、妹が始めた食糧配給である。

 王都の広場に白い天幕が張られ、焼きたてのパンと肉入りのスープが配られた。

 アリアは美しく着飾り、微笑みながら子供たちにパンを渡した。


「どうか、皆が少しでも笑顔でいられますように」


 彼女がそう言うと、集まった民衆は歓声を上げた。

 その光景は絵画のように美しかった。


 翌日の新聞は、妹を慈愛の姫と称えた。

 母も満足げに微笑み、文官たちも賛辞を惜しまなかった。


 でも私は、その報告書を読んで、嫌な予感を覚えた。

 食糧を配ること自体が悪いわけではない。


 けれど、場所が悪い。

 頻度が悪い。

 何より、後始末の計画がない。


「クロード様」


 彼の名を呼ぶ。

 何をしたいか、それを伝えるために。


「既に馬車を用意しています」

「……えっと、私、まだ」

「実際に、その目で見たいのでしょう?」


 優しい笑顔。

 私は、ただ頷くことしかできなかった。


 そうして向かった貧民街は、想像以上にひどかった。

 路地には食べ残しのパンが踏み潰され、腐った肉汁が黒い水たまりを作っている。

 配給を受けられなかった者が奪い合った痕跡もあった。


 人々はまだアリアの名を口にしていた。

 綺麗だった。優しかった。あの方は天使だ。

 けれどその足元では、蝿が群がり、幼い子が腹を押さえてうずくまっていた。


 私は馬車を降りた。

 途端に、クロード様が一歩前に出る。


「殿下、足元にお気をつけください」

「大丈夫です」


 言ってから、自分でもそれが大丈夫ではないことくらい分かっていた。

 臭いはひどく、裾はすぐに汚れた。

 引き返すことはできなかった。


 路地の端で、痩せた女性が子供を抱いていた。

 子供は眠っているように見えた。

 けれど、その胸は上下していなかった。


 女性は私を見ると、焦点の合わない目で笑った。


「姫様。また、パンをくださるんですか」


 私は、すぐに答えられなかった。


「……昨日、いただいたんです。あの綺麗な姫様から。うちの子、喜んで、半分だけ残して……明日も食べるんだって」


 女性の腕の中で、小さな手が力なく揺れた。


「でも、夜になったら腹を壊して。水も汚くて。医者なんて呼べなくて」


 クロード様が、静かに目を伏せた。

 私は拳を握りしめる。


 食糧を配るだけでは足りない。

 飢えを一日しのがせても、明日を殺すことがある。


「お名前を、伺ってもよろしいですか」


 女性はぼんやりと私を見上げた。


「……リナ」

「お子様は」

「トマ」


 私は、その名を胸の中で繰り返した。


 忘れないために。

 自分が助けられなかった、その名前を。


 城に戻ると、私はそのまま執務室にこもった。

 ユリウスが資料を広げ、レオンが貧民街の治安図を描き、サーラが裏の水売りと医者の名簿を持ってきた。


「清掃業として雇い入れる?」


 ユリウスが眉をひそめる。


「ええ。貧民街の住民を、王都清掃の正式な労働者として雇用します。日当は食糧ではなく貨幣で。水路の修繕と井戸の管理も同時に行います」

「財源は?」

「私の祭典費を削ります」


 部屋が静まり返った。


 祭典費。

 それは、王族が民へ美しさを示すための費用でもあった。

 衣装、花、楽団、装飾。

 つまり、姫が姫らしくあるための金だ。


「……どこまで削るおつもりですか」


 ユリウスの声から、いつもの軽薄な熱が消えていた。


「すべてです。ほかに削れるものがあるなら、探してください」


 彼は一瞬だけ目を見開き、それから楽しそうに口角を上げた。


 私は、震える手で羽ペンを握る。

 怖くないわけではなかった。

 これを失えば、私はますます姫らしくなくなる。

 妹と並べば、いっそう見劣りするだろう。

 民の前に立つたび、惨めになるかもしれない。


 けれど、路地で死んだ子供の名を思い出す。


 リナ。

 トマ。


 花で飾られた馬車より、清潔な水路が必要だった。

 絹のドレスより、明日の賃金が必要だった。


「私にそれは、必要ありません」


 そう言い切った時、クロード様がかすかに笑った気がした。



◆◆◆◆◆



 夜の執務室には、羽ペンの音だけが残っていた。

 クロード様が作った管理表には、日付、担当者、修繕の記録、異常があった時の報告先まで、細かく欄が分けられている。


 王宮のどの書式とも違う。

 けれど、不思議と使いやすかった。


「クロード様」

「はい」

「これは、どこの国の方式なのですか」


 彼の手が、ほんのわずかに止まった。


「……国、ではありません」


 私は、それ以上を問うべきではないと思った。

 けれどクロード様は、静かに首を横に振る。


「貴方には、知っていていただきたい」


 そうして彼は、前世のことを話してくれた。


 ここではない世界で生きていたこと。

 顔の美しさと、人の誠実さは別のものだと知ったこと。

 そして、誰かに見つけてもらうのを待つばかりだったことを、今でも後悔していること。


 信じがたい話だった。

 けれど、不思議と疑う気にはなれなかった。


「怖くはありませんか」

「少し、驚いています。でも、怖くはありません」

「なぜですか」

「クロード様は、その記憶で誰かを支配しようとはなさらないからです」


 彼の黒い瞳が、静かに揺れた。


「それに、この知識を私に預けてくださったのでしょう」

「はい。貴方なら、正しく使うと思いました」

「では、私はそれに応えます」


 その夜から、彼は時折、前世で見た仕組みを話してくれるようになった。

 けれど決して、答えを押しつけることはなかった。


「どう使うかを決めるのは、貴方です」


 いつも最後に、そう言って。



◆◆◆◆◆



 王族一人に割り当てられてきた祭典費。

 ほとんど使われず積み立てられていた、十数年分の予算。

 それは、私を飾るためではなく、民を生かすために使われることになった。


 だが、すべてが順調だったわけではない。

 最初の十日で、清掃に雇われた者のうち三分の一が姿を消した。

 理由は単純だった。


 王家の仕事に関われば、貧民街の仲間を売ったと見なされる。

 日当を受け取れば、施しに尻尾を振ったと笑われる。

 何より、水売りや闇医者たちにとって、井戸の管理と衛生改善は商売の邪魔でしかなかった。


 ある夜、清掃隊の若者が殴られ、道端に捨てられた。

 彼の名はマルク。

 十五歳だった。


「だから申し上げたのです」


 翌朝、内務卿は淡々と言った。


「貧民街の者たちに秩序など理解できません。結局、彼らは自ら与えられた機会を潰すのです」

「違います」


 私は即座に答えた。

 自分でも驚くほど、声は震えていなかった。


「機会を与えたつもりになって、危険を彼らだけに背負わせたのはこちらです」


 内務卿は眉をひそめた。

 ユリウスが珍しく黙り、レオンは腕を組んだまま目を細めている。

 クロード様だけが、いつも通り私の後ろに立っていた。


「清掃隊に護衛をつけます。日当の一部は家族に直接渡せるようにしてください。井戸の管理権は、王家ではなく、住民の中から選んだ者たちに預けます」

「貧民街の者に、ですか」

「ええ。自分たちの水を、自分たちで守れるようにします」

「裏の者たちはどうする?」


 レオン様が問う。


「潰すだけでは、別の形で戻ります。水売りの中で井戸管理に協力する者は、正式な給水人として雇い入れます。従わず暴力を振るう者だけを罰してください」

「甘いな」

「甘さだけなら、トマのような子をまた死なせます」


 口にした瞬間、部屋が静まり返った。

 私は一度だけ目を伏せ、それから顔を上げる。


「もう、同じ名前を増やしたくありません」


 その日から、レオン様は清掃隊の護衛を引き受けた。

 サーラは闇医者と水売りの繋がりを洗い出し、ユリウスは住民代表を選ぶための規則を一晩で書き上げた。

 クロード様は、あの夜に見せてくれた書式をもとに、井戸の管理台帳と清掃区域の割り振り表を整えた。


「この印は何ですか」

「前世で見た管理方式を、この国向けに直したものです。誰が、いつ、どこを担当するのかを見えるようにしています」

「見えるように」

「どうしてか、わかりますか?」

「……誰かが倒れた時、助け合えるようにするためでしょうか?」


 クロード様が目を細める。

 静かに、口が弧を描いた。


「殿下。貴方なら、きっとできます」


 その言葉に、私は羽ペンを握り直した。


 最初は、誰も信用しなかった。


 石を投げられた日もある。

 税金泥棒と罵られた日もある。

 王族の気まぐれだと、面と向かって笑われた日もある。


 石を投げられた帰りの馬車で、私は膝の上の拳を握りしめていた。

 クロード様は正面を向いたまま、何も言わなかった。

 ただ、窓から入る風が冷たくなると、無言で自分の上着を私の肩へかけた。


「……大丈夫です」

「知っています」


 けれど彼は、それを取り上げようとはしなかった。

 肩に残った重みが、いつの間にか、拳の力を緩めていた。


 それでも、私は通った。

 汚れた道を歩き、名前を聞き、怪我をしたマルクの家に見舞金を届けた。


 マルクの母は、最初、私を睨んでいた。

 けれど帰り際、かすれた声で言った。


「……明日も、来るのかい」

「必要なら」

「必要じゃなくても来な。あんたが本気か、まだ見てない」


 私は頷いた。

 それでいいと思った。


 春に始まった政策は、夏には嫌われ、秋にようやく形になり、冬に初めて数字を変えた。

 私が十六の誕生日を迎える頃には、変化は目に見え始めていた。


 殴られたマルクは、今では清掃隊の先頭を歩くようになっていた。

 路地から腐臭が消えた。

 子供たちの腹痛が減った。

 日当を得た者たちは、翌日の食事を自分で買うようになった。


 回り始めた経済が人を呼び、金を生み、やがて、正しく予算がつく。


 ある朝、私は再び貧民街を訪れた。

 箒を持った女性が、こちらを見て目を見開く。

 リナだった。


 以前より痩せていたが、目には光が戻っていた。


「マリア様」


 彼女は、私の名を呼んだ。

 私は一瞬、足を止めた。


 姫様、ではなく。

 綺麗な方、でもなく。

 私の名を。


「トマのこと、覚えてくださっていますか」

「忘れません。絶対に」


 答えると、リナは泣いた。


 私は彼女の肩に触れようとして、一度ためらった。

 けれど、クロード様の視線が背中にある気がして、そっと手を伸ばした。

 リナは私の手を払いのけなかった。


 その日から、貧民街で私に手を振る者が増えた。

 最初は数人。

 やがて十人。

 いつしか、子供たちが私の馬車を追いかけるようになった。


 けれど彼らは、私の髪を褒めなかった。

 瞳を褒めなかった。

 ただ、私の名を呼んだ。


 その声が、胸の奥にいつまでも残った。



◆◆◆◆◆



 帰還兵の問題が持ち込まれたのは、その少し後だった。


 北の国境で小競り合いが続き、多くの兵が王都へ戻ってきていた。

 傷を負った者。

 腕や足を失った者。

 仲間を置いてきた者。

 妹姫は、彼らを広場に集めた。


 白いドレスをまとい、花束を手に、一人ひとりへ微笑みかける。


「皆様の勇気に、心より感謝いたします」


 兵士たちは跪いた。

 民衆は拍手を送った。

 その場だけを見れば、美しい光景だった。


 だが、俺は兵士たちの目を見ていた。

 乾いていた。


 褒められることに慣れていないのではない。

 褒められるだけでは何も戻らないと知っている目だった。


 その夜、マリア様は負傷兵の収容所へ向かった。


 薬草と血と膿の臭いが混じっている。

 レオンは入口で顔をしかめた。


「懐かしい臭いだな。最悪だ」

「レオン様も、ここに?」

「ああ。まあ、俺は片目だけで済んだ口だ」


 冗談めかして言ったが、その声には笑いがなかった。


 奥の寝台で、片足を失った兵がこちらを睨んでいた。

 まだ若い。

 少年と言ってもよい年頃だった。


「また姫様かよ」


 彼は吐き捨てるように言った。


「花ならいらねえ。感謝もいらねえ。勇敢だったなんて言葉で、明日から何を食えってんだ」


 その声は震えていた。

 怒りだけではない。

 恐怖だ。

 戦場から戻ってきたのに、生きる場所がないという恐怖。


 マリア様は、彼の寝台の横に膝をついた。


 その動作に、周囲が息を呑む。

 王族が膝をつくなど、本来ならありえない。


「お名前を」

「……は?」

「お名前を、教えてください」


 彼はしばらく黙っていた。

 やがて、唇を噛みながら答える。


「ニコラス・ヘイン」

「所属は、北方第三歩兵隊ですね」


 その目がわずかに揺れた。


「ご家族は、お母様のエマ様と、妹君のリリー様。リリー様は今年十歳になるはずです」

「……なんで」

「名簿を読みました。ですが、紙の上だけでは足りないと思いました」


 マリア様は、逃げずに彼を見た。


「ニコラス様。あなたに花を渡しに来たのではありません」


 彼女は、持ってきた書類を広げた。


「重傷兵の再就職斡旋、義肢工房への王費補助、戦死者遺族への年金制度。まだ草案です。ですが、あなた方に見ていただきたい」


 兵たちは言葉を失った。


「私は戦場を知りません。痛みを代わることもできません。だから、教えてください。何が足りないのか。何があれば、生きていけるのか――私に、何ができるのか」


 ニコラスの顔が歪んだ。

 彼は怒鳴るでもなく、泣くでもなく、ただ両手で顔を覆った。


「……遅いんだよ」

「はい」

「もっと早く、誰かが来てくれればよかったのに」

「はい」


 マリア様は、その言葉を受け止めた。


 反論も慰めもしなかった。

 ただ、逃げずにそこにいた。


 城に戻ると、彼女はすぐに制度案を組み直した。

 俺も前世の知識を使い、工房の設計と年金の枠組みを書いた。


 マリア様は俺の案を読み、ひとつずつ問いを重ねた。


「クロード様。前世では、これでうまくいったのですか」

「すべてが、ではありません」

「では、そのまま真似てはいけませんね」

「はい」


 俺は頷いた。


「前世の仕組みを、そのまま持ち込んでは失敗します。大切なのは形ではなく、なぜその仕組みが必要だったかです」

「理由を学び、形はこの国に合わせる」

「貴方なら、それができます」


 彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから笑った。


「では、手伝ってください。私の知らない理由を、教えてください」


 その言葉に、胸の奥が静かに熱くなった。

 自分の知識を、初めて自分のためではない誰かの未来に使っている。

 そう思った。


 制度が王都で動き始めるまで、半年。

 各領へ広がるまで、さらに一年。


 義肢工房は止まりかけ、年金制度は疑われ、軍部も貴族も反発した。

 それでもマリア様は、ひとつずつ逃げずに向き合った。


 十七の冬が終わる頃、北方第三歩兵隊から一通の手紙が届いた。

 差出人は、ニコラス・ヘイン。


 そこには、不格好な文字で、妹が今年も学校に通えたと書かれていた。

 自分は義肢工房の見習いになった、とも。


 マリア様はその手紙を、しばらく黙って見つめていた。

 そして、いつものように机の端へ丁寧に置いた。


 その机の端には、もう何枚もの手紙が積まれていた。

 覚えた名前の数だけ、彼女は紙を重ねていく。

 気づけば、俺はその横顔を見ていた。


「……クロード様」

「はい」

「私の顔に、何かついていますか」

「いいえ」


 俺は書類へ視線を戻した。

 戻したつもりだった。

 もう一度顔を上げると、彼女もまた、こちらを見ていた。


「……お互い様ですね」


 俺は答えなかった。

 代わりに、口の端がわずかに上がるのを、止められなかった。


 その手紙の上に、次の問題が重なる。

 敵対国リュゼルとの外交だった。



◆◆◆◆◆



 私、アリア・ファン・ヴィルヘイムは、最初それを運だと思っていた。


 姉はたまたま、クロード・レイ・グリンガルに選ばれた。

 たまたま、貧民街の件がうまくいった。

 たまたま、兵士たちに受け入れられた。

 そう思おうとした。


 けれど、私の周りからは、少しずつ人が減っていった。

 最初に変わったのは、文官たちの視線だった。


 以前は私が何かを言えば、彼らはすぐに頷いた。


「素晴らしいお考えです、アリア殿下」


 そう言って、案の中身など見もせずに書き留めた。

 けれど最近は違う。


 私が提案すると、彼らは一拍置くようになった。

 そして誰かが必ず、遠慮がちにこう言う。


「その件につきましては、マリア殿下の施策と重複する可能性が」


 マリア。

 また、マリア。

 姉の名が、私の部屋で口にされる。


 それが耐えがたかった。


「では、もっと華やかな施策を考えなさい」


 私がそう言うと、傍らの子息の一人がすぐに頷いた。


「もちろんです。アリア様は民に希望を与える存在。姉君のように泥臭い仕事などなさる必要はありません」


 その言葉に、私は少しだけ救われた。

 救われた、はずだった。


 けれど胸の奥に、ほんの小さな空洞が残った。

 また、顔。

 また、美しさ。

 また、私が何をしたかではなく、私がどう見えるか。


 以前なら、それで十分だった。

 誰かが私を美しいと言えば、それだけで満たされた。

 けれど最近は、その言葉が肌の上を滑っていくだけで、胸の奥まで届かない。


 それでも私は、その違和感に気づかないふりをした。

 だって、それを認めてしまえば、私の周りにあるもののほとんどが、ひどく軽いものになってしまう気がしたから。


 そうだ。

 私は希望だ。

 姉は泥の中を歩けばいい。

 私は光の中に立っていればいい。

 そう思って、私は次の慰問に向かった。


 帰還兵の施設だった。


 美しい花を用意し、最も似合う薄桃色のドレスを選んだ。

 鏡の中の私は、完璧だった。


 だが施設に入った瞬間、兵士たちの視線が私を通り過ぎた。

 彼らは入口の向こうを見ていた。

 誰かを探すように。


「……マリア様は、今日は来られないのか」


 誰かが小さく呟いた。

 聞き間違いだと思った。

 けれど、隣の兵士が答えた。


「今日は会議だとよ。義肢工房の件で」

「そうか。なら仕方ねえな」


 手の中で、花束がかすかに揺れた。

 私は微笑んだ。

 いつものように。


「皆様の勇気に、心より感謝いたします」


 返ってきた拍手は、礼儀正しいものだった。

 けれど、熱がなかった。

 私が花を差し出した兵士は、それを受け取りながら、目を伏せた。


「あの、ありがとうございます」

「いいえ。あなた方は国の誇りですもの」

「……はい」


 そこで会話は途切れた。


 以前なら、私が微笑むだけで相手は頬を染めた。

 言葉を探し、名誉だと震え、もう一度お会いできるなら死んでもいいとまで言う者もいた。

 なのに、この兵士はただ、困ったように花を見ていた。


「その花、お嫌い?」

「いえ。綺麗です」


 彼はそう言った。

 ただ、次に続いた言葉が、私の胸を刺した。


「花の名前は、よく知りませんけど」


 綺麗だとは思う。

 けれど、名前は知らない。

 それは花の話だったはずなのに、どうしてか、私自身のことを言われたような気がした。


 帰りの馬車で、私は花を一本抜き取り、膝の上で握りしめた。

 花びらは柔らかく、簡単に潰れた。

 それでも、まだ美しかった。


 そのことが、なぜかひどく腹立たしかった。



◆◆◆◆◆



 敵対国リュゼル。

 その王国は、長年ヴィルヘイムと緊張関係にあった。


 その名が会議で出た瞬間、部屋の隅に控えていたサーラの指先が、ほんのわずかに止まった。

 会議の後、私は彼女を呼び止める。


「サーラ。リュゼルに、何かあるのですか」


 サーラは少しだけ沈黙した。


「……母の故郷です。ですが、私情を政に挟むつもりはございません」

「私情ではありません。知るべきことです」


 その翌日、私は治安局が作った一枚の名簿を目にした。

 王都に住むリュゼル系住民の監視名簿。

 その中には、サーラの名もあった。


「却下します」


 私は局長の前で、その書類を机に置いた。


「リュゼルの血を引くというだけで疑うのですか」

「外交を控えた今、警戒は当然です」

「何もしていない者を敵として扱えば、本当に敵になります」


 局長は言葉を詰まらせた。


「監視ではなく、保護に改めてください。嫌がらせや暴力が起きた時、王家が責任を持って守るための名簿として」


 執務室へ戻る途中、サーラが静かに頭を下げた。


「母は、どちらの国にも守られませんでした」


 その声は、少しだけ掠れていた。


「サーラ。リュゼルの礼法を教えていただけますか」

「……私などでは」

「私は、あなたにこそ教わりたいのです。知らないまま、踏みにじらないために」


 サーラはしばらく黙った後、ほんのかすかに笑った。


「母が知っていた範囲でよろしければ」


 そう答えたサーラの声は、いつも通り静かだった。

 けれどその日だけは、伏せた睫毛の下に、ほんのわずかな光が見えた気がした。


 その夜から、私はリュゼルの言葉と礼法を、もう一度学び始めた。

 資料には載らない、誰かの故郷としてのリュゼルを知るために。



◆◆◆◆◆



「リュゼルでは、女性が夫以外の男性の前で顔を晒すことを避ける文化があります。それに対し、わが国では美しく着飾ることこそが相手への誠意、礼儀だとされています」

「……何をおっしゃられたいのでしょう?」

「改めて、相手の文化を尊重すべきではないでしょうか」

「殿下。外交とは力です。こちらが大国である以上、小国の風習に過度に合わせる必要はありません」

「……相手の礼を踏みにじっておいて、敬意を得られるとは思えません」

「しかし、アリア殿下が接待された折には、使節団も笑顔を見せておりました」


 彼の声には、暗に私を比べる響きがあった。

 私はそれに慣れている。


 けれど、慣れていることと傷つかないことは違う。

 その時、背後に控えていたクロード様が静かに口を開いた。


「笑顔と好意は同義ではありません」


 会議室が静まった。


「屈辱を受けた時、人は怒鳴るとは限りません。笑って席を立ち、後で刃を研ぐ者もいます」


 文官は顔をしかめたが、反論しなかった。


 最終的に、私は次の会談に同席することを許された。

 ただし、条件つきで。


 失敗すれば、外交から手を引くこと。


 当日、私は銀灰の髪をすべて薄布の内側へしまい、顔をヴェールで覆った。

 装飾は最小限。

 肌を見せず、視線を落とし、相手国の礼法に従って入室する。


 隣に立つクロード様が、ほんの少しこちらを見た。


「お似合いです」

「顔も見えないのにですか」

「ええ」


 短い返事だった。

 それだけで、胸が落ち着いた。


 リュゼルの大使は、最初から険しい顔をしていた。

 白い髭を整えた老大使で、こちらの椅子に座る前から不信を隠そうともしていない。


 私は彼の前に進み、学んだ通りに一礼した。

 そして、リュゼル語で口を開く。


「遠き砂の国よりお越しいただき、感謝いたします。まず、これまで我が国が貴国の礼を知らず、幾度も不敬を重ねたことをお詫び申し上げます」


 通訳が息を呑んだ。

 老大使の瞳が、初めて私を捉える。


「……今、何と」


 彼はリュゼル語で問うた。

 私は同じ言葉で答えた。


「貴国の言葉でなければ、謝罪は届かないと思いました」


 老大使は黙った。

 長い沈黙だった。


 文官たちは不安げに身じろぎしたが、私は動かなかった。

 やがて老大使は、深く息を吐いた。


「ヴィルヘイムの姫は、皆、己の美しさを武器にするものと思っていた」


 その言葉に、背後の誰かが息を詰める。

 けれど、私は傷つかなかった。


 ヴェールの内側で、ただ静かに答えた。


「私にその武器はありません。ですから、他の形で向き合いたいと思います」


 老大使の表情が変わった。


 怒りではない。

 嘲りでもない。

 彼は私を見ていた。

 初めて、私という人間を。


「……貴女の名を伺いたい」

「マリア・ファン・ヴィルヘイムです」

「マリア殿下」


 老大使は、ゆっくりと頭を下げた。


「本日の出会いを、我が王へそのまま伝えましょう」


 会談は予定時間を大幅に超えた。

 交易路の再開、国境付近の巡礼者保護、文化使節の交換。

 それまで何年も停滞していた話が、一日で動き始めた。


 退室の直前、老大使は私に近づき、小さな箱を差し出した。

 中には、砂色の石でできた月の飾りが入っていた。


「我が国では、月は旅人を導くものとされています」


 彼は穏やかに言った。


「貴女が王位に就かれるなら、我が国はその治世の間、盟友でありたい」


 その瞬間、会議室の空気が変わった。


 誰も、私の容姿の話をしなかった。

 誰も、妹の名を出さなかった。

 ただ、私の言葉と行動だけが、そこにあった。


 会議室を出た後、緊張が切れて、私は廊下の壁に手をついた。


「殿下」


 クロード様がすぐに支えてくれる。


「……足が、少し」

「よく耐えられました」

「震えていましたか」

「少しだけ」

「気づいていたのですね」

「いつも見ていますから」


 また、その言葉だ。

 私はヴェールの内側で顔が熱くなるのを感じた。


「……私も、見ていました」

「何をですか」

「クロード様が、ずっと私の味方でいてくださることを」


 彼は一瞬だけ黙った。

 そして、いつもの静かな声で言った。


「たとえ、世界の誰もが敵になろうと、それだけは変わりません」


 ヴェールがあってよかった。


 そうでなければ、私はきっと、隠しようもなく笑ってしまっていた。



◆◆◆◆◆



 姉の外交成功は、王都中に広まった。

 それは貧民街や帰還兵の時よりも、はるかに速かった。

 なぜなら貴族たちにとって、外交成果は分かりやすい名誉だったからだ。


 朝の茶会で、私はいつものように席についた。

 周囲の令嬢たちは、最初こそ私の髪飾りを褒めた。

 ドレスを褒めた。

 肌を褒めた。


 けれど、話題はすぐに姉へ移った。


「マリア殿下がリュゼル語をお話しになったそうですわ」

「しかも、礼法も完璧だったとか」

「老大使が涙ぐまれたという話、本当かしら」


 私は微笑みながら、カップを持ち上げた。

 陶器が指先で震える。


「姉は昔から勉強熱心でしたもの」


 そう言うと、令嬢たちは一瞬だけ黙った。


 以前なら、彼女たちは私に同調した。

 さすがアリア様。

 お優しいのですね。

 マリア様も、妹君にそう言っていただけて幸せでしょう。


 けれど今、彼女たちは気まずそうに視線を交わした。


「ええ、本当に。マリア殿下は素晴らしい方ですわ」


 誰かがそう言った。

 私ではなく、姉を褒めた。


 私の前で。


 その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。

 音を立てて、嫌なものが割れていく。


 私はカップを置いた。


「そうね」


 笑顔は崩さなかった。


「本当に、素晴らしい姉ですこと」


 茶会が終わると、私は自室へ戻り、髪飾りを外した。

 銀の飾りが鏡台に落ち、高い音を立てる。


 鏡の中には、いつも通り美しい私がいた。

 けれど、その美しさは何もしてくれなかった。


 文官の沈黙を変えてくれない。

 兵士の冷めた目を変えてくれない。

 令嬢たちの話題を私へ戻してくれない。


「アリア様、ご安心ください」


 傍らの子息が慌てたように言った。


「姉君の活躍は一時のものです。民はすぐに、真に美しいものへ戻ってまいります」

「そうでしょうか」

「もちろんです。皆、アリア様のお顔を見れば――」


 私は、彼の言葉を最後まで聞けなかった。


「顔」


 ゆっくりと、彼を見た。


「あなたは、私の顔以外に、何を見ているの」


 子息は言葉に詰まった。

 その沈黙が、答えだった。


 私の周りにいた者たちは、私を見ていたのではない。

 私の顔を見ていたのだ。


 そのことに気づいた瞬間、私はたまらなくなって笑った。

 笑うしかなかった。


 だって、私はそれを望んでいたはずなのだから。

 美しいと言われることを。

 愛らしいと称えられることを。

 誰よりも多くの視線を集めることを。


 なのに。


 なぜ、こんなにも空っぽなのだろう。



◆◆◆◆◆



 マリア様が十八を迎える春、王位継承を決める投票の日が近づいた。


 十五の選定の日から、三年。

 城の空気は、露骨に変わっていた。


 以前は妹姫の部屋へ流れていた人の波が、少しずつマリア様の執務室へ向かうようになった。


 請願書が届く。

 献策が届く。

 協力の申し出が届く。


 そのすべてを、マリア様は丁寧に読もうとする。


 だから俺は、読ませる順番を決め、不要なものを弾き、必要なものだけを彼女の手元に置いた。


「クロード様」

「はい」

「もしかして、私に渡す前にかなり減らしていますか」

「はい」

「隠し事では?」

「私が信用できませんか」

「……卑怯です」


 彼女は不満そうに眉を寄せたが、すぐに小さく笑った。

 その笑みに、俺は一瞬言葉を失いかける。


 最近、そういうことが増えた。


 書類に目を落とす横顔。

 誰かの話を真剣に聞く瞳。

 疲れを隠して微笑む口元。


 どれも、気づけば目で追っている。


 書類上の成果は十分だった。

 貧民街の死亡率は下がり、雇用は増えた。

 帰還兵の再就職制度は各地へ広がり、軍の士気は目に見えて上がった。

 リュゼルとの交易路が再開し、国庫には新たな収入が生まれた。

 数字だけ見ても、負ける要素はない。


 それでも、彼女は不安そうだった。



◆◆◆◆◆



 扉を叩く。

 返事はない。


 そっと開けると、マリア様は机に突っ伏して眠っていた。

 積み上がった書類の端を枕にして、かすかな寝息を立てている。


 手元には、最後の演説草稿があった。

 何度も書き直したのだろう。

 紙の隅には、薄く滲んだ跡がある。


 泣いたのか。

 インクをこぼしただけか。

 確かめることはしなかった。


 ただそばに立ち、月明かりに照らされたその顔を眺める。


 くすんだ銀灰の髪が頬に張りついている。

 重たげな一重の瞳は、今は穏やかに閉じられていた。


 眠る横顔を見ていると、あの日の光景が重なってくる。

 貧民街の路地で膝をついた背中。帰還兵の前で逃げなかった目。老大使に向けて、震えながら一礼した肩。


 ――美しいとは、こういうことを言うのか。


 前世でも今世でも、そんな言葉を本気で口にしたことはなかった。

 だから上手くは言えない。ただ、目が離せなかった。


 自分の上着をそっとかけ、灯りを落とす。

 扉を閉める直前、俺はもう一度だけ彼女を見た。


 正直、結果はどちらでもよかった。


 俺の人生は、彼女のおかげで輝いた。

 ただ惰性で生きてきた俺に、自分から動くことの意味を教えてくれた彼女には、感謝などという言葉では足りない。


 見た目は重要か。

 クロード・レイ・グリンガルは今、そう問われればこう答える。


 ――重要だ。ただし、条件付きで。


 なぜなら、彼女の顔を見ているだけで、これほど胸が高鳴るのだから。

 彼女以外は、見えないほどに。



◆◆◆◆◆



 投票結果が発表される朝、私はいつもより早く目を覚ました。

 クロード様の上着が、肩に掛かっていた。


 私はしばらく、それを見つめていた。


 いつからだろう。


 彼の気配に安心するようになったのは。

 彼の足音を聞き分けられるようになったのは。

 彼に見られていると分かるだけで、背筋を伸ばせるようになったのは。

 自信が、持てるようになったのは。


 見た目は重要か。


 マリア・ファン・ヴィルヘイムは今、そう問われればこう答える。


 ――重要ではない、と。


 あの人は、私を見てくれた。

 容姿ではなく、私が何を考え、何のために動いているのかを。


 今、私の周りには、以前が嘘のように人がいる。

 けれど、どれだけ容姿の優れた人に微笑みかけられても、心が動いたことはなかった。


 もっと美しい人なら、いくらでもいる。

 それでも、構わない。


 書類を置いていく彼の背を、目で追うようになった。

 その一言が聞きたくて、余分な報告書を作るようになった。

 呼ばれもしないのに、彼の声が聞こえるたび耳を澄ませるようになった。


 答えは、とうにわかっていた。

 ただ、言葉にする勇気がなかっただけで。


 あの人の前に立つと、心臓が――鳴るのだから。


 広間に入ると、そこには多くの人がいた。


 かつて私は、こういう場に立つたび、誰も私を見ていないと思っていた。

 実際、そうだったのだろう。


 今は違う。

 視線がある。

 期待がある。

 重い。

 怖い。

 けれど、逃げたいとは思わなかった。


 隣にクロード様が立っている。

 ただそれだけで、私は前を向けた。


 宰相が投票結果を読み上げる。

 最初の言葉は、耳に入らなかった。

 ただ、広間の空気が変わるのが分かった。


 歓声が上がる。

 誰かが私の名を呼ぶ。

 マリア様。

 マリア女王。


 その言葉が幾重にも重なり、胸に押し寄せてくる。

 私は勝ったのだと、遅れて理解した。


 広間の隅で、何かが崩れていく気配があった。

 かつて妹を取り囲んでいた令息たちだ。

 ひとりが青ざめ、ひとりが隣の肩を掴み、声にならない声で罪をなすり付け合っている。

 三年前、私があの一室に入った時、誰ひとり振り向かなかった者たち。

 その全員が今、私を見ていた。


 ――勝った。

 もう一度、確かにそう思う。


 けれど私は、その光景に長く目を留めなかった。

 見たいものは、そこにはなかったから。


 振り返る。

 クロード様が、いつもと変わらない静かな顔でこちらを見ていた。

 けれどその瞳だけは、柔らかかった。


「おめでとうございます、殿下」

「……まだ、殿下なのですか」

「戴冠までは」


 こんな時まで真面目なのだから、恨めしい。


 私は笑った。

 すると彼も、かすかに笑った。


 その瞬間、歓声も、視線も、王座さえも遠くなる。

 私の世界には、ただ彼の黒い瞳だけがあった。


「では、戴冠したら」

「はい」

「最初に、私の願いを聞いてくださいますか」


 クロード様は、わずかに目を細めた。


「女王陛下のご命令であれば」

「命令ではありません」


 私は首を横に振った。


「お願いです」


 そう言うと、彼は黙った。


 広間の熱が遠ざかる。

 私たちの間にだけ、静かな時間が落ちた。


「クロード様」

「はい」

「これからも、私の騎士でいてくださいますか」

「望まれる限り」

「では、望みます」


 息を吸う。

 心臓が、うるさいほど鳴っていた。


「騎士としてだけではなく、私の隣に。生涯」


 クロード様の表情が、初めてはっきりと揺れた。


 私を見つけてくれた人。

 いつも私を支えてくれた人。

 私が、ずっと目で追っていた人。


 彼はゆっくりと膝をついた。

 かつて護衛騎士の誓いを立てた時と同じように。


「十五のあの日、貴方を選んだ時から」


 低い声が、広間のざわめきの中で確かに届く。


「私の行き先は、決まっていました」


 彼は私の手を取った。


「マリア・ファン・ヴィルヘイム殿下。いずれ女王となられる貴方に、改めて誓います」


 黒い瞳が、まっすぐに私を見ていた。


「貴方が望むなら、私は騎士として、臣下として、そして一人の男として、貴方の隣に立ち続けます」


 歓声が、静まっていく。

 誰もがこちらを見ていた。


 以前の私なら、その視線が怖かった。

 けれど今は違う。


 私は、見られている。

 私として。

 マリアとして。


「……では、私も誓います」


 震える声で、それでも逃げずに告げる。


「私は女王として、この国を見捨てません。そして、ひとりの女として、あなたを選びます」


 クロード様の瞳が、やわらかく細められた。


「光栄です。私の女王陛下」

「……まだ、殿下では?」

「今だけは、先に言わせてください」


 その言葉に、私は堪えきれず笑った。


 広間に、拍手が広がっていく。

 誰かが祝福の声を上げた。


 ユリウスが大げさにため息をつき、レオン様が口笛を吹き、サーラが静かに頭を下げているのが見えた。


 玉座の傍らに立っていた母が、静かに頷いた。


「戴冠後、両家の名において正式に婚約を整えましょう」


 その一言で、広間の拍手はいっそう大きくなった。


 私はクロード様の手を握り返す。

 誰も私の前には立たなかった。

 そう思っていた。


 けれど今、彼は私の隣にいる。


 前でも、後ろでもなく。

 同じ場所に。


 それが、何より嬉しかった。



◆◆◆◆◆



 私、アリア・ファン・ヴィルヘイムは、思う。

 大国ヴィルヘイム王国の次女として生まれた私は、恵まれた容姿をしていた。


 穢れひとつない銀の髪。

 ぱっちりとした二重の瞳。

 誰もが姫に夢見る姿。


 幼い頃から、どこへ行っても人に褒められた。

 何もせずとも称賛が集まり、周りに人がいないことなどなかった。


 可愛らしい、美しい、愛しい。

 成長とともに言葉は変わっても、どれも私を称えるものだった。


 だから、それが私なのだと思っていた。


 美しい私。

 愛される私。

 選ばれる私。


 投票結果が発表された日、私は初めて知った。

 美しさは、誰かの心を永遠に繋ぎ止めてはくれない。


 私の周りにいた子息たちは、責任のなすり付け合いを始めていた。

 けれどその声は、もう私の中へ入ってこなかった。


 私は彼らを見ていたのだろうか。

 彼らは私を見ていたのだろうか。


 いいえ。

 きっと、誰もが見ていなかった。

 私たちはただ、互いに都合のよい飾りを見ていただけだった。


 部屋に戻り、鏡の前に座る。

 そこには、相変わらず美しい女が映っていた。


 穢れのない銀の髪。

 ぱっちりとした二重の瞳。

 皆が褒めた顔。

 皆が欲しがったはずのもの。


 けれど私は、鏡の中の女を少しも欲しいと思えなかった。


 侍女のいない部屋は、驚くほど静かだった。

 私は長く、その静けさの中に座っていた。


 やがて、扉が叩かれた。


「……誰」

「マリアです」


 その名を聞いた瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。


「笑いに来たの?」


 扉を開けずに問う。


「いいえ」

「では、慰めに?」

「それも違います」


 少しの沈黙の後、姉は言った。


「話をしに来ました」


 私は迷った。

 会いたくなかった。

 けれど、会わずにいれば、私はきっと一生この鏡の前から動けなくなる。


「……どうぞ」


 扉が開く。

 姉は、以前より少し背筋が伸びていた。

 銀灰の髪も、重たげな瞳も、昔と変わらないはずなのに。

 なぜか、今はそこから目を逸らせなかった。


「お姉様は勝った。私は負けた。それだけでしょう」

「ええ」

「はっきり言うのね」

「あなたに嘘をついても、仕方がありませんから」


 私は笑った。

 笑ったつもりだった。

 けれど声はひどくかすれていた。


「私、何も持っていなかったのね」


 その言葉は、思ったより簡単に口から落ちた。


「美しいと言われたわ。愛らしいとも言われた。誰もが私を見ていると思っていた。でも、違った。あの人たちは私を見ていたのではなく、私の顔を見ていただけだった」


 姉はすぐには答えなかった。

 その沈黙が、責められるより苦しかった。


「お姉様」

「はい」

「私、どうすればよかったのかしら」


 姉は私の前に、一枚の書類を置いた。


「これから、知ればいいのではありませんか」

「これから?」

「あなたは負けました。けれど、終わったわけではありません」

「……私に、まだ何かできると?」

「できます。ただし、今までと同じ場所には置けません」


 私は書類へ目を落とした。

 王都西区慈善院改組案。

 孤児、貧民街の子供、戦死者の遺児、リュゼル系住民の子を受け入れる教育院。


「これを、私に?」

「はい」

「私に、泥の中を歩けと?」


 声に棘が戻った。

 けれど姉は目を逸らさなかった。

 昔は、ずっと俯いていたのに。


「あなたの微笑みは、人を惹きつけます。勇気づけ、安心させ、前を向かせることができます」

「……」

「私には、それはできません。だから、その微笑みを飾りにしないでください」


 私は書類を見下ろした。

 長い沈黙が落ちる。


「私、失敗するかもしれないわ」

「そうかもしれません」

「……」

「でも、私も何度もしました」


 思わず、ほんの少しだけ笑ってしまった。

 泣きそうな顔のまま。


「ひどい姉」

「王として、あなたにだけ優しくはできません」


 姉は私の前に立った。


「アリア。私たちは決して、仲のいい姉妹ではなかった」

「……ええ」

「でも、嫌いでもありませんでした」


 初めて聞いた本音。

 姉は自分のことを嫌っているのだと思っていた。


「何かをしようとすれば、遠ざけられた、触れさせてもらえなかった。機会を、奪われていた」

「……そうやってずっと、私を憐れんでいたのですか?」

「いいえ」


 姉は静かに首を振った。


「そう思わなければ、私は立っていられなかったのです」


 自嘲するような笑みに、初めて親近感を抱く。

 きっと私も、同じ顔を浮かべていた。


「見捨てるつもりはありません」


 胸の奥が、小さく揺れた。


「あなたも、この国の民ですから」


 その瞬間、私は両手で顔を覆った。

 声を上げて泣くことはできなかった。

 ただ、肩だけが小さく震えた。


 美しいと言われた私。

 愛されると思っていた私。

 選ばれるはずだった私。


 そのどれでもない私が、初めてそこに残った。


 姉は、慰めなかった。

 背中をさすってもくれなかった。


 ただ、私が顔を上げるまで、黙って待っていてくれた。



◆◆◆◆◆



 教育院の初日、子供たちは私を見て黙った。


 笑わなかった。駆け寄らなかった。ただ、値踏みするような目でこちらを見ていた。


 私はこれまで、子供というものは無条件に笑いかけてくるものだと思っていた。

 広場で配ったパンのことを思い出す。

 あの時の子供たちは、私に向かって手を伸ばしてきた。


 けれどあの子たちは、パンに向かって手を伸ばしていたのだ。


「……名前を、教えてもらえるかしら」


 誰も答えなかった。

 一番前にいた男の子が、鼻を鳴らした。


「なんで」

「覚えたいから」

「どうせ忘れる」

「……忘れたら、また聞きます」


 男の子は私をしばらく見ていた。それから、面倒くさそうに言った。


「ペトル」


 私は繰り返した。

 心の中でも、もう一度。


 ペトル。

 ペトル。


 姉が、名前を繰り返していた理由が、その時初めて分かった気がした。


 翌朝、門の前に立った。

 ペトルが来た時、私は彼の名を呼んだ。

 彼は立ち止まり、信じられないものを見るような顔をした。それだけだった。


 三日目、ペトルが女の子を連れてきた。


「あんた、本当に名前を覚えるつもりなの?」

「ええ」

「じゃあこいつは」

「まだ聞いていません」


 女の子が、かすかに笑った。


「カタ」


 私はその名を、口の中で繰り返した。

 覚えられるまで、何度も。


 あの日、私はパンを渡した。

 けれど、その子の明日までは見なかった。

 見ようと、しなかった。


 だから。

 今は、それを見届けようと思った。



◆◆◆◆◆



「マリア様」


 戴冠式の日、私は薄い銀灰の髪を結い上げ、王冠を受けた。

 広間には、かつて私を見なかった人々がいた。


 貴族。

 文官。

 騎士。

 民の代表者。


 貧民街のリナがいた。

 清掃隊のマルクがいた。

 片足に義肢をつけたニコラス様がいた。

 リュゼルの老大使が、砂色の月飾りを胸に下げていた。


 そして、少し離れた席にアリアがいた。

 華やかなドレスではなく、簡素な白い衣をまとって。


 目が合う。

 彼女はためらった後、ゆっくりと頭を下げた。

 私は、小さく頷き返す。


 すべてが元通りになるわけではない。

 けれど、終わりではない。

 そのことが、嬉しかった。


 戴冠が終わると、広間に一層の歓声が満ちた。


 けれど私は、その中から一人の姿を探してしまう。


 黒い髪。

 青みがかった瞳。

 いつも静かに、けれど確かに私を見てくれる人。


 クロード様は、広間の端に立っていた。


 王配候補として隣に立つこともできたはずなのに、彼は最後まで騎士の位置を崩さなかった。

 まったく、彼らしい。


「クロード様」


 式が終わった後、私は彼を呼び止めた。


「はい、陛下」

「まだ慣れません」

「慣れていただかなくては困ります」

「では、あなたも慣れてください」

「何にでしょう」

「私の隣に立つことに」


 そう告げると、クロード様はわずかに目を見開いた。


「先ほどから、ずっと後ろにいます」

「私は貴方の騎士ですから」

「ええ。ですが、あなたは私の婚約者でもあります」


 言ってから、頬が熱くなった。

 けれど、もう取り消さない。


「それとも、先日の誓いは忘れてしまいましたか」

「忘れるはずがありません」


 クロード様は即座に答えた。

 その声があまりに真剣で、今度は私の方が言葉に詰まる。


「では、隣へ」


 私は手を差し出した。

 彼は一瞬だけ迷った。


 それから、騎士としてではなく、一人の男性として、私の手を取った。

 温かい手だった。


「陛下」

「はい」

「私は、貴方の隣に立つには、少々口うるさい男だと思います」

「知っています」

「仕事をしすぎれば止めます」

「知っています」

「無茶をすれば叱ります」

「知っています」

「……それでもよろしいのですか」


 私は笑った。


「それが理由です」


 クロード様は黙った。

 けれど、私の手を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。


「陛下は、時々ひどく不意打ちをなさる」

「いつも手玉に取られているので、たまには仕返しです」


 そう言うと、彼は小さく笑った。

 その笑みを見た瞬間、胸が鳴る。


 ああ、と思う。


 私はきっと、この先も何度も不安になる。

 何度も迷う。

 何度も、自分でよかったのかと問い続ける。


 けれどそのたびに、この人がいる。

 私を飾るためではなく、私を正すために。

 私を守るためだけではなく、私と共に歩くために。


 見た目は重要か。


 かつての私は、迷わず重要だと答えた。


 だって、誰もが妹を見ていたから。

 誰も、私を見なかったから。


 でも今なら、少し違う答えを返せる。


 見た目は、きっと重要だ。

 ただし、それは顔立ちの美しさだけを指す言葉ではない。


 その人が何を見て、何を選び、何を背負ってきたのか。

 それは、顔に出るから。


 クロード様が、私を見つめている。

 瞳に映る私は、妹のように華やかではない。

 絵画の姫君のようでもない。


 けれど、もう俯かない。


「クロード様」

「はい」

「私、綺麗でしょうか」


 口にした瞬間、自分でも驚いた。

 昔の私なら、絶対に聞けなかった問いだった。


 クロード様は、少しも迷わなかった。


「ええ」


 静かに、けれど確かに答える。


「私の知る誰よりも」


 胸の奥が、熱くなる。

 泣きそうになった。


 けれど、今日は泣かない。

 私は女王になったのだから。


 そして、恋を知った女でもあるのだから。


「では、クロード様」

「はい」

「これからも、よく見ていてください」

「もちろんです」


 彼は私の手を引き、隣へ並んだ。


「いつも見ていますから」


 その言葉に、私は笑った。


 かつて、誰も私の前には立たなかった。

 今、私の隣には彼がいる。


 それだけで、私は何度でも前を向ける。



◆◆◆◆◆



 後に、マリア・ファン・ヴィルヘイムは賢き女王として名を残す。


 貧民街の衛生改革。

 帰還兵と遺族を支える制度。

 リュゼルとの交易再開。


 そして、身分や容姿にかかわらず、人をその名で呼ぶことを重んじた治世。


 また、王妹アリア・ファン・ヴィルヘイムも、西区教育院の初代院長として記録に残っている。


 はじめ、その名は嘲笑とともに語られた。

 美しいだけの姫に、子供たちの泥や涙が扱えるはずがない、と。


 けれど彼女は、毎朝必ず門の前に立ち、訪れる子供たちの名を一人ずつ呼んだ。


 最初は間違えた。

 何度も、何度も。


 それでも、彼女は逃げなかった。

 やがて教育院の子供たちは、彼女をこう呼ぶようになったという。


 綺麗な姫様、ではなく。

 アリア先生、と。


 そして、女王の傍らには常に、黒髪の王配クロード・レイ・グリンガルがいた。


 彼は表舞台に立つことを好まなかった。

 けれど女王が迷った時、誰よりも早くその迷いに気づき、必要な言葉を差し出したという。


 女王と王配の私的な会話は、ほとんど記録に残っていない。

 ただ、晩年の女王が、若き日の自画像を前にしてこう笑ったという記録だけがある。


「私はずっと、自分を美しくないと思っていたのです」


 隣にいた王配は、それに対して、若い頃と変わらぬ声で答えた。


「見る目のない者が多かったのでしょう」


 女王はしばらく黙った後、少女のように笑った。


「ええ。けれど、あなたは違った」

「当然です」


 王配はそう言って、女王の手を取った。


「私の目には、最初からあなたしか映っていない」





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― 新着の感想 ―
[一言] とってもよかったです!! 連載版が欲しいです!!
[良い点] 頑張り屋さんが最後に報われるみたいな話が好きなので全体的に面白かったです。 [気になる点] 1つ気になったのはアリアが死んでしまったことですね。 死というのは最大の罰であり、最大のざま…
[一言] 楽しく読ませていただきました。 姉姫の凪いだ静かな人となりにマッチした文章で、私には読みやすかったのですが、盛り上がりが足りないと感じる方もいらっしゃるでしょう。 これはもう、好みの問題か…
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