新米看護師、笑う
「先輩!」
回診がお開きになってからも私は業務に忙殺され、結局先輩を捕まえることができたのは定時を過ぎて帰る途中だった。更衣室の近くで先輩とばったり遭遇したのだ。私は一日の疲れも忘れて、先輩に駆け寄った。
「回診の時はありがとうございました。ほんと、助かりました」
「ああ。いいのいいの。まだ気になっていたんだ」
「そりゃそうですよ、あんな魔法みたいなこと見せられたら――どうやったんですか?」
先輩は一瞬だけ、嬉しいような、恥ずかしいような、それでいて腹立たしげな、複雑な表情を見せた。だけどそれは本当に一瞬だったので、もしかしたら私の思い過ごしかもしれなかった。なんにせよ、先輩は謎解きを始めるため、口を開いた。
「あれはね、ファスナーの金具に十分な空間があったからできたことなんだよ」
「?」
十分な空間って、あのC字の輪っか? いやいや、あれのせいで私はかなりイライラさせられたんですけど……。
先輩はおもむろに鞄を置くと、左手を私の顔の前に掲げた。
「えい」
「痛っ」
意味のないデコピンが私のおでこを強襲した。なにするんですか!
「実際にやってみた方が早いよね」
「デコピンを?」
「違うよ。昼間やったのと同じ事。
またファスナーでやると今度は本当に外せなくなるかもだから、これで我慢して」
先輩はただ後輩いびりをしたいわけではなさそうだった。本当の狙いは手でデコピンの形――親指と中指でC字の形を再現することだったらしい。
「……いや、やっぱりデコピンいらなかったんじゃ」
「ほらさっさとやる。ワイヤーをここに通してみて」
私は言われた通りに、ネームホルダーをびよ~んと伸ばすと、ワイヤーを先輩の中指と親指の間に当て、ぐいっと押し込んだ。輪の中にワイヤーが入った状態になった。
「この手をファスナーの金具だと思って。ダイチ君がワイヤーを引っかけてしまったのは、今みたいなことが起きたんでしょうね。あの金具の入り口、外からは通せるけど、中からは出にくい構造になっていたの。返しが付いたみたいになっていたから」
(図1参照。もう一度)
図1
先輩は私に代わって、右手でネームホルダーを持ってくれた。私は両手でワイヤーを引っ張ってみたけど、先輩の中指に引っかかって取り出すことはできなかった。なるほど、上手くできている。
「あの状況が生じた理由は分かりました。先輩はここからどうやってワイヤーを抜いたんですか?」
「うーん、忘れた。やっぱり切っちゃおう」
先輩は右手でホルダーを持ちながら、器用にもチョキの形を作ってワイヤーを切る真似をした。この人、こうやって後輩の純情をもてあそぶのが玉に瑕なんだよなあ……。
「冗談冗談。じゃ、種明かしといきますか。いい? 今から答え言うからね? もう考え尽くした? ファイナルアンサー?」
「あれからだいぶ考えました! いいから教えてくださいよ。ていうか古いし」
「なら言うよ」
先輩は、ひときわ楽しそうな笑みを浮かべると、私に次の指示を下した。
「もう一回、同じ事をするんだ」
「同じ事、ですか?」
「そう。ワイヤーをさらに伸ばして、もう一度輪に通してみて」
言ったことはすぐには理解できなかったが、私は素直に従った。ワイヤーをリールからぐっと引き出して、十分にたわませる。そして再び先輩の左手の輪の中に通した。
「オッケー。じゃあ行くよ。3、2、1!」
先輩はかけ声とともにネームホルダーを持っていた右手を強く引っ張った。つられて、私はワイヤーから両手を離してしまう。
ビンッ、と一直線に伸ばされた時、ワイヤーはすでに輪の中から抜け出していた。
「え、すごい。手品みたい!」
「ふふ、ダイチ君と同じ事言っている。ま、たまたま知っていただけさ」
その後先輩はもう一度実演してくれた。どうやらこういうことらしい。引いてダメなら、もう一度押してみろ。そうやってワイヤーを2回通してやれば、C字の入り口の隙間を通さなくても、横から2本分まとめて引き抜くことができる。(図2・3参照)
図2
図3
先輩が最初に「ファスナーの金具に十分な空間があったからできた」と言ったのは、こういうわけだったのだ。あの金具にはファスナーの取っ手を差し引いても、ワイヤー2本分が十分に入るスペースがあった。だから先輩はワイヤーを取り出すことができたのだ。
「よくあの短時間で、こんなこと思い付きましたね。ますます尊敬しちゃいました!」
「いいや偶然だよ。似たようなことを医学科の知り合いから教えてもらったんだよね。そいつ、整形外科志望でさ。針とか糸とか使った小技みたいなの? 詳しいみたい」
「へ、へえ……」
オペ場は絶対に行きたくなかったから、私には縁のない世界だ。かろうじて学生時代に得た知識も、生かされることなく頭の片隅で埃を被っていることだろう。
「一時は絶交までした奴だけどさ」
「なにがあったんですか」
「こうしてタチバナっちの役に立ったんだから、少しは感謝しなきゃね。
――なんでも、切るのは簡単だけどさ」
先輩はおどけた風に蟹のポーズをとりながらも、その目はどこか虚ろで、遠くを見ているような感じだった。その医者の卵との間にも、複雑な思い出があったのだろうか。
「また使えるような糸を渡すのは、簡単じゃないよね。ネームホルダーも、友情も」
「あのぉ、もしかして。その人って、か――恋人さん?」
「ふふ。秘密だよ」
先輩は妖しく微笑むと、スタスタと歩き出してしまった。
更衣室で帰り支度をしながら、私は考えた。なんとなく、思うけど。色んな人は縁という糸で結びついているのかもしれない。
それで、私はあの病棟で働き始めたばかりだから、周りの人たち――子供達や、小児科の先生、師長、そしてあの頼れる先輩――とは、まだ細い糸でしか繋がっていないんだと思う。乱暴にすれば、すぐに切れてしまうような。
だから大切にしなければならないんだ。一本の糸をちょっとずつ紡いでいって、確かな繋がりにしていかなきゃダメなんだ。
今の暗い、大変な世の中で、その絆はかけがえのない力になるはずだから。
「ようし!」
明日も、がんばろう。
私は鏡の中の自分に、とびきりの笑顔を見せつけてやった。
完